ショスタコーヴィチと音楽文化


 ショスタコーヴィチはソ連の作曲家です。彼は何度か政治的な危機に陥っていますが、その都度うまく乗り越えています。そのことは、音楽文化史上とても意義があるといえるでしょう。

 たとえばこんな話があります。


 スターリンが力を持っていた1932年、ソ連では「作曲家同盟」が作られました。当局の気に入るような「社会主義リアリズム」的な曲を作らないと、作曲家は同盟を追放されてしまい、曲が発表できなくなるのです。

 このことは、ソ連の音楽文化が衰退する危機でもありました。自由な現代音楽は否定され、つまらないプロパガンダ的な音楽だけが認定される、そんな危機です。

 そして1936年からは大粛清が始まってしまい、たくさんの作曲家たちもまた粛清されました。


 そんな危うい状況下で、ショスタコーヴィチは、作品が社会主義に相応しくない、との批判を受けてしまいます。

 このままでは作曲家生命どころか命が危ない。ショスタコーヴィチが生き残る道は一つ、社会主義リアリズムに沿った曲を早急に作って、自分が反乱分子でないことを示すことです。


 そこでショスタコーヴィチが作曲したのが、有名な「交響曲第5番」でした(1937年)。


 この初演が大成功をおさめたので、ショスタコーヴィチは名誉を回復し、危機を乗り越えることができました。


 それだけではありません。


 この曲の特長は、社会主義リアリズムの要望に応えつつも、素晴らしい出来栄えだったという点です。何とこの曲は、ソ連と敵同士である西側の世界でも、高く評価されました。

 ショスタコーヴィチは政府の言う通りのつまらない曲作りにとどまることをせず、普遍的な価値のある名曲を作ったのです。


 ショスタコーヴィチの成功のおかげで、ソ連のいう社会主義リアリズムの水準は、ぐっと引き上げられたと言えるでしょう。ソ連の権力の下でも面白い曲を作れるのだと示したことは、ショスタコーヴィチの重要な功績ではないでしょうか。

 交響曲第5番は、ソ連の音楽文化が衰退するのを防ぎ、むしろその発展に寄与したのでした。


 こうして生き残り名声を上げたショスタコーヴィチは、その後紆余曲折がありながらも、生涯で15曲もの交響曲を残しました。中には社会主義リアリズムの形式とはかけ離れたものも作っていて、ショスタコーヴィチの反骨心が窺えます。

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