55 静寂

 ネルフェットは後ろ髪が引かれ、ミハウが車椅子にトニアを乗せようとしているところから目が離せなくなる。トニアは力なく立ち上がり、ミハウに支えられて車椅子に座り込んだ。


「ネルフェット」


 するとネルフェットの足元からピエレットの声が聞こえてきた。ネルフェットは魔物の化石の残骸を瓶に拾い集めているピエレットに気づき、自分を見上げる彼女に切羽詰まった表情を見せる。


「トニアの目は、わたしがどうにかする。この欠片があれば、きっとヒントが見つかるから。これまでの研究の成果を、どうか祈っていて」

「…………ピエレット……きみ……」

「ほら、早く行って。王様たちを待たせるつもり?」


 ピエレットはネルフェットを意地悪く責め立てるようにニヤリと笑い、彼の煮え切らない心をわざとからかった。


「…………ああ。頼むぞ、ピエレット」

「はーい」


 ピエレットはようやく舞台を下りて国王たちを駆け足で追いかけるネルフェットのことを見送り、再び残骸集めに戻った。

 下手側では、ミハウが身体を屈めてトニアに声をかける。


「トニア、魔法を受けた君は検査の必要がある。医師のところへ行くが、大丈夫か?」

「はい……。だいじょうぶ、です……」


 大勢が発する声や音が収まっていくと、トニアの浮いてしまった心はようやく着地した。しかし、心が元の場所に収まろうとも、先ほどのネルフェットの言葉が幻聴だったのか聞き間違いだったのかが受け止めきれず、トニアはぼんやりとした声で答えた。


「じゃあ、押すから。何か不安に思ったら言ってくれ」

「はい……分かりました……」


 衛兵たちが音楽堂が崩壊しないかの調査に入る前に、ミハウはトニアを乗せた車椅子を押して裏口から外に出ようと、忙しなく集まってくる衛兵たちとすれ違いながら歩く。

 歩きながら、前方の低い位置にいるトニアのことを時折見やる。彼女が膝に置いた右手。その手首には何の変哲もなく、赤い紋様はすっかり消えていた。

 ミハウは車椅子をどこかにぶつけてしまわないように、またすぐに正面を見て出口を目指す。


「…………どうして庇ったりしたんだ?」

「……え?」


 人が少なくなってくると、ミハウの声がぽつりと雫のように落ちてきた。トニアは丁寧に車椅子を押すミハウの歩みが重くなっていくのを感じる。


「リリオラの魔法。君が受ける必要はなかっただろう」

「それは……」


 トニアは自分を庇ってくれたミハウの親切心を無下にしてしまったことを思い返し、気まずそうに肩をすぼめた。


「…………リリオラがあの時、何を奪うのか。確かにはっきりとは分からなかった。けど、俺はもう、何を奪われようと構わなかった。おまけに、彼女が奪ったのは視界だった。なら尚のこと、俺は問題ない。俺は歌さえ歌えれば、それでいいんだから。必ずしも視界は必要じゃない」

「だ……っ! だめです! 目だったからこそ、なおさら駄目です!」


 トニアは必死にミハウの主張を否定するように後ろを振り返った。

 彼女の勢いにミハウは思わず足を止め、車椅子も同時に止まる。


「それじゃ駄目なんです! ミハウさん、まだ見ていないから……!」

「……? 何を……?」


 トニアは焦点が迷子になりながらも一生懸命な表情でミハウに訴えかけた。


「アルヴァーさんの楽譜を、まだ見ていないですよね?」

「そう、だけど……音なら、聴くこともできる」

「違うんです! あれは、しっかり目で見ないと……! 私は、ミハウさんに彼の言葉を見て欲しいんです……!」

「……言葉?」


 トニアはそこまで言うと、はっと手で口を抑えた。


「これ以上は……ネタ晴らしになってしまいます……」

「…………そんなこと、今の状況で気にするなよ……」


 ミハウはハァ、と相変わらずの彼女の様子にため息交じりに呟く。


「とにかく……ちゃんと、見てください、ね……」

「ああ。ちゃんと見るから」


 トニアがほっとしたように笑って前を向いたので、ミハウはまた車椅子を押し始める。


「ミハウさんは、知ってたんですか? リリオラさんの、魔法、のこと」

「……いや。知ったのは最近だ。紋様の話の時に。昔、彼女の部屋から漏れる光を見た時に、何か得体の知れないものは感じた。でも疑心があるだけで、確信はなかった。父のことも、父の周りの口を封じられた人たちも、もしかしたら……という思いはあった。ネルフェットの護衛のこともあったし。でもまさか、本当にそうだとは。どこかで、そんな話は信じたくないという意地もあったのかもしれないが……」


 すぐ近くに親の仇がいるなんて、自分がその立場でも考えたくはないだろう。トニアはミハウの小さな願いに共感し、きゅっと両手の指先を握りしめた。


「紋様…………偽物、だったんですね」

「…………ああ。そうだな」


 辛うじてまだおとぎ話に夢を見ていたトニアは、そんな自分を恥じるように笑う。


「でも、紋様が偽物でも、運命がないとは限らない」

「……え?」

「俺は君に会えたことに感謝してる。遺品を手に入れたからじゃない。ただ、ただ直感でそう思うんだ」

「…………ふふふ。嬉しい……そんなこと言ってもらえて」


 ミハウの実直な声にトニアは頬を緩ませた。


「私も、ミハウさんに出会えて嬉しいです。ソグラツィオで、本当に素敵な出会いがたくさんあって、私は、恵まれています」


 言いながら、トニアは頬に冷たいものが這うのを感じた。

 指先で探ると、それが自分の目から流れているものだと気づく。


「あれ…………なんで…………」


 ぽろぽろと流れていく涙は留まるところを知らず、次第に瞳一杯に涙が溢れだす。


「…………どうして……うぅっ……なん……で……」


 トニアは両手で顔を覆い俯いた。

 ちょうど出口まであと少しというところで、ミハウは車椅子を止めて動かないようにロックをかける。


「あぁ……うぅ…………どうしよ……どうしようミハウさん……」


 泣きじゃくりながら、トニアはぐしゃぐしゃになった声を上げる。自分がどうして泣いているのか、彼女はもう自覚していた。ミハウは彼女の悲しみを汲み取り、優しく肩を撫でる。


「ここなら誰もいないから、我慢なんてしなくていい」

「ううううぅっ…………」


 全身を震わせて、トニアはボロボロに泣き続ける。ミハウは彼女の小さな背中を静かに見つめて、初めて会った彼女が宮殿で見せた輝く瞳を思い出した。


「わた……私っ……見えないよ……っ……何も、何も見えない……!」


 遅れてやって来た平穏が彼女の心を搔き乱した。

 喧騒の中に居れば、どこかで自分を律する心が感情を抑えて本当の気持ちを見えなくする。


 けれど今は、それが彼女のすべてを包み込み、絶望が襲いかかってきた。

 ソグラツィオに来た目的を彼女が忘れたことなど一日たりともない。


 瞼を開けても閉じても、目の前に広がるのは眩いばかりの白い光のみ。

 夢を絶たれた実感が心を覆ってしまった彼女は、暗がりを求めてひたすらに手の平を顔に押し当てて赤子のように涙を流す。

 自らの叫びのような泣き声に、耳元で囁いた彼の言葉すら幻だったのだと、彼女は記憶の中に閉じ込めてしまった。

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