54 まぼろし

「トニア!」


 音楽堂に静けさが戻ると、ネルフェットはすぐさまミハウに抱きかかえられているトニアのもとへと駆け寄る。


「トニア……! トニア……!」


 へたりと座り込んでミハウにもたれているトニアの前に滑り込むようにして片膝を立て、ネルフェットは胸が切迫されて歪んだみっともない顔で彼女の顔を覗き込んだ。


「ね、ねる……ネルフェット……なの……?」


 彼女の瞳を見た瞬間、ネルフェットの心臓は大きく波を打って一度止まったかのように錯覚した。


「トニア…………」


 トニアがミハウに預けていた身体を起こしたので、ミハウは二人をじっと見守った後でベッテのところへと向かう。

 トニアは弱弱しい手を必死で伸ばし、少しの間宙を彷徨わせてからネルフェットの頬を見つけてぺたぺたと存在を確かめるように触る。


「ネルフェット……怪我は、ない……?」


 彼女が安堵したように微笑むので、ネルフェットの目からは涙がこぼれ落ちた。涙は彼女の指先を伝い、トニアは首を傾げる。


「泣いてるの……? ネルフェット。痛いところ、あるの?」


 ネルフェットを見上げるトニア。しかしその目線は定まらず、僅かにネルフェットの顔を捉えられないところで止まってしまう。


「ああ。怪我はないよ、トニア」


 ネルフェットはトニアの頬に手を添えてそっと自分のいる方向へと動かし、彼女の瞳と目を合わせた。


「……良かった……!」


 嬉しそうに笑うトニアの目は、彼女が持つ本来の瞳の色の上に真っ白い膜が覆いかぶさるように濁っていた。ネルフェットは彼女の笑顔に、涙を堪えることが出来なくなる。


「ごめん……ごめん、トニア……俺の、俺のせいで……ごめん……」


 ぽかんとしている彼女のことを抱きしめ、ネルフェットはトニアの肩に涙で濡れた目元をうずめた。


「ネルフェット? どうして謝ってるの? ふふ。やめてよ」

「ごめん、トニア」

「ほら、また」

「………………トニア」


 トニアを抱きしめる腕に力が入る。彼女は少し苦しそうに笑いながら、ぽんぽん、とネルフェットの背中を叩いた。


「絶対に、必ず……治すから……」

「…………しょうがないよ、ネルフェット。私が、出しゃばったりしたから」


 トニアは首元から聞こえてくるネルフェットの籠った声に、落ち着きを払った声で答える。

 自分を抱きしめているのは確かにネルフェットのはず。けれど今の彼女にはそれが分からなかった。

 真っ白い幕が下りた視界を上げ、常に煌々と光っている一面が白の景色を眺める。


 リリオラは宣言通り、彼女の大事なものを奪った。

 彼女は視界を奪われたのだ。

 建築家を目指す彼女にとって、視えないことは一大事だった。長年夢見た道が一瞬にして閉ざされてしまう。


 トニアはネルフェットだと思われる背中を優しく撫で、涙を流す彼を慰めるようになだめた。

 彼女を護りきれなかったことを彼は悔いている。トニアは彼の真摯な気持ちが伝わり、何よりも温かい彼の体温に恐怖に震えていた彼女の心には平穏が訪れた。

 騒動が起きる前まで幸福感に包まれていた耳がその記憶を思い出し、トニアは朗らかに笑う。


「ネルフェット、演奏、とても素敵だったよ」


 トニアの率直な感想に、ネルフェットは力を込めていた腕を少し緩める。


「……君に届けたくて、練習したんだ」


 ネルフェットの秘密にトニアは緊張感で埋もれていた、リリオラが出てくる直前の胸のざわめきを思い出し、背中を撫でていた彼女の手が止まった。

 トニアが返事を探していると、ネルフェットが彼女の肩から顔を上げる。


「トニア……トニア、愛してる」

「………………え」


 ぽつりと、耳元で彼が言葉を告げた瞬間、会場に割れんばかりの大きな音が響いて入り口の扉が開かれた。

 ドンドンドンと、轟のような足音が流れ込んできて、重たい低音の中で一つだけ軽やかに駆けてくる気配が一気に会場内を横切っていく。


「トニアぁああ!」


 ピエレットは目の前を歩く衛兵や国王たちの間をすり抜け、一目散に舞台へと上がった。


「トニア、良かった! 生きてた……!」


 会場に雪崩込んできた国王の率いる十数人の衛兵たちを見て立ち上がったネルフェットと入れ替わるようにしてピエレットはトニアに抱き着く。


「中継で見てたの……! でも切れちゃって……トニア、途中からどうなったか分からなくて……! 良かった……良かった……!」

「ピエレット……」


 安堵の声を震わせるピエレットにきつく抱きしめられ、トニアは彼女の身体をそっと包み込んだ。


「トニア…………あ……」


 トニアの安否をしっかりと確認できたピエレットは、身体を離してから彼女の瞳を見て表情を強張らせる。トニアが見えていないことはすぐに理解できた。ピエレットは、声を止めてしまった自分に対して首を傾げる彼女に対し、ぐっと込み上げる涙を堪えて明るい声を取り繕う。


「大丈夫! トニア。わたしがいるんだから。魔法なんて、すぐに解いてあげる……!」


 胸を張り、自分に言い聞かせるようにピエレットは宣言した。

 舞台の上手側に転がる無数の残骸を見やると、ピエレットはトニアに「待っててね!」と言って魔物の化石が粉々に散らばっている場所へと向かった。


「ミハウ。ベッテ」


 ピエレットがトニアから離れると、凪のように静かなのに静寂に響く鈴の如く際立った輪郭の声が傍から聞こえてきた。トニアは声のする方向を見上げ、初めて生で聞いたこの声は王妃のものだと察した。


 王妃に呼ばれ、ようやく立ち上がれるようになったベッテと、彼女を支えるように傍に立っていたミハウが近づいてくる。ベッテは徐々に取り戻す意識の中で、ふと腕の先に違和感を覚える。

 王妃の前に立つミハウの斜め後ろで、ベッテは慎重に両手を持ち上げて目線を落とした。

 木のグローブが割れていて、一部が欠けてしまっている。ひしゃげた木片の向こうにある自分の指を、何も考えないまま少し曲げてみた。すると、五本の指がベッテの思ったように動いていく。


「ベッテ」


 ハッとして顔を上げると、王妃が穏やかさの中にも深刻な気配を宿してベッテのことを見つめていた。


「話を、聞かせてもらえるかしら?」

「…………はい」


 ベッテは王妃に向かってしっかりとした眼差しで頷いた。


「ミハウ」


 王妃は続けてミハウに指示を出す。ミハウは王妃に一礼をすると、駆け足で舞台裏へと戻っていった。

 ベッテと目を合わせた王妃は、ちらりと傍でしゃがみこんでいるトニアを見やる。

 王妃のトニアを見る瞳が何を想っているのか。冷静な彼女の眼差しは、言葉など必要なくとも読み取れてしまう。すぐ隣で見ていたベッテは目を伏せ、王妃に続いて舞台を後にした。


「父上……!」


 意識を取り戻し始めたのか、うーんと唸り始めたリリオラが五人の衛兵に囲まれて連行されていく様を厳しい瞳で見届けていた国王に、ネルフェットは息を切らして駆け寄る。


「……ネルフェット。大変なことになったな」


 国王は服も顔も埃を被って汚れているネルフェットを厳格ながらも悲しみをもった表情で迎えた。


「詳しいことはこれから聞こう。ただ……リリオラ、彼女が、そんな過去を秘めていたとは……」

「分からなくても当然です。僕たちに魔法など使えませんから」


 ネルフェットは自分を省みるように苦い顔をする国王にありのままの気持ちを述べた。


「私たちは、なんという失態を犯したんだ。彼女に……利用されていたなんて……国の顔として失格だ」

「父上。過去を悔いて、自分たちを責めることはいくらでもできます。でもそれだけでは、未来は築けません。悔やむのは後にして、まずはこの混乱を治めないと」


 詠唱会の様子が中継されていることはネルフェットもよく知っている。それを見た人がどこまで状況を把握できているのかは分からない。けれど多くの人間が、この場で何かが起きたことを目にしたのは確かだ。


「…………ああ」


 息子の凛然とした表情に国王は静かに同調の声を出す。しかし彼の瞳に滲みだしている憂いを感じ取ると、下手側に見えるテラコッタの頭に目線を向けた。


「ネルフェット、すまない。お前につけた教育係の本性を、私は見切ることが出来なかった。大事な息子を、長年に渡って傷つけてきたな。愚かな私たちを許してくれ、ネルフェット」


 ネルフェットを真正面から見据え、国王はこれまでリリオラによって遮られてきた時を思い、言葉の一つ一つに収まりきらない感情を乗せて顔を歪める。


「いいえ。父上も母上も、彼女を信頼してのことでしょう。僕もそうでした。だから……父上たちを責める気などありません。これまで過ごした時間は戻らない。だけど、そこに何も意味がなかったとは、思っていません」


 ネルフェットは少し元気のない声で父親の悔やみを受け入れた。


「ただ、これは僕の一方的な望みかもしれないのですが……これから、教えてくれませんか?」

「……うん? 何をだ? 私に、お前に教えられることがあるだろうか」


 国王は自信なく眉を下げると、初めて見る息子の眩いばかりの眼差しに向き合う。


「王になるということを。国の代表になることを。父上や母上から学びたいんです。ずっと思っていました。父上たちのように、忙殺されて、誰とも会話の出来ないような毎日を、自分も将来は過ごすのかと。だけど、それは違うのだと、僕は望みをかけてみることにしました。もう余計な悲劇なんてたくさんだ。国民のため、僕は役を全うしたい。自分なりのやり方で。そのためには、父上たちの姿をもっと近くで見てみたい。いつも遠くにあった背中ではなく。同じ立場で、父上たちの見る世界を見てみたいんです」


 ネルフェットは姿勢を正して、国王に向かってきびきびとした動きで礼をする。


「お願いします。父上」

「…………ネルフェット」


 国王は微動だにせず頭を下げたままのネルフェットを見やり、その肩に手を添え、顔を上げさせた。


「願ってもない申し出だ、ネルフェット。私たちは、もっとお前と一緒に過ごしたかった。いつの間に、こんなに凛々しくなったんだ? ああ。私たちはいつも、お前の成長を見逃してしまっている。ネルフェット、私たちからも頼む。私たちに、お前が街に出て学んできたことを教えておくれ」

「……父上……。はい! 謹んで……!」


 ネルフェットがしっかりとした声色で返事をすると、国王は眉をきりっと上げて父親の顔から国王の顔へと威厳を取り戻した。


「まずは何が起きたのかを教えてくれ。時間が惜しい。皆、真実を知りたがっている。急ぐぞ」


 国王が会場を出て行くベッテと王妃の後ろ姿を見やり、ネルフェットも彼らに続くようにと手で合図をする。ネルフェットは頷きながらも、下手側の様子が気になってなかなかその場を動けない。


「彼女のことはミハウに任せろ」


 ちょうどミハウが車椅子を押して舞台袖から現れたのを確認し、国王は王妃たちの背中を追いかけた。

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