53 未開封

 ネルフェットはハッとして振り返る。そこには、いつの間にか舞台に上がったトニアが仁王立ちでこちらを向いて立っている。


「トニア……!?」


 思いがけない展開にネルフェットの意識はすべてそちらに持っていかれた。トニアは紋様を刻んだ右手を震わせながら、恐る恐るリリオラに近づいてくる。


「トニア! 危ないから来るな!」

「ネルフェット……ごめん、でも、ちゃんと、真実を知るべきだと思うの」

「……は? なんのこと……」


 憎き娘の登場にリリオラの動きがぴたりと止まり、おぞましい瞳を彼女に向ける。


「あ、あの……クジラの館、で、これを、見つけました……」

「クジラの館……」


 ネルフェットが小さな声で繰り返す。

 トニアはリリオラと少し距離を取って、鞄に入っていた封筒を両手でリリオラに差し出した。

 リリオラはトニアのことを今すぐにでも刺しそうなほど冷たい眼差しで見下ろし、彼女が床に置いた手紙をそっと見やる。


「そ、その手紙は……リリー……リリオラさん、あなた宛て、です、よね……?」


 がくがくと彼女の膝が震えている。ネルフェットはリリオラの前に立つ彼女のことが心配でたまらず、先ほど見た像を一度確認し、動きが取れずにその場に留まった。


「手紙、読んだの?」

「……は、はい……すみません……!」


 がばっと頭を下げ、トーンの落ちたリリオラの問いに答える。


「…………私、読んだことないのよね」

「……え」


 やはりこれは未開封だったのか。トニアは申し訳なさと恐怖でよく分からない感情に包まれる。


「あ、あの……それは、かつてのマニトーア国王、からの、手紙……です。あ、あなたが、消えてしまった後、送られた……」

「ええ。それは知ってる。ソグラツィオにいる私のところにわざわざ兵士が届けてきたもの。でも、どうして読む義理があるの」

「……そ、そこには、国王の、本当の気持ち、が、書かれています……。あ、あなたの持っている、その石……。それは、あなたのことを支配するから。石は、どこまでも欲望を求めて、持ち主を巣食う魔物の化石だって……。魔法石なんて、そんな……そんなものでは、ありません……。魔物の化石は、あなたに寄生して、全てを奪います。意思も、願望も……。簡単には満足しません。持ち主の身をすべて食い尽くすまで……あ、あなたの身体を、欲望で乗っ取るまで……」


 リリオラは床に落ちた手紙を拾い上げ、そっと中を開く。


「国王、は……それに気づいて、あなたのことを、助けたかったんです……。石を奪ってしまえば、壊すことが出来れば、あなたは、魔物から逃れられるから……。あなたを、本来のあなたに戻したかったんです……」


 トニアの話にネルフェットもミハウも茫然としていた。魔法石の正体。マニトーア国王は、ただリリオラを救いたかっただけだった。

 ネルフェットは手紙を読むリリオラを確認すると、意を決して像の方へと駆けて行く。トニアはリリオラから距離を取り、黙ったままの彼女の次の動きを警戒した。


「……あの館はね。ソグラツィオの国王に貰ったものなの。功績を認めてくれて、私に授けた」


 手紙を見たまま、リリオラが静かに口を開いた。


「手紙を燃やすことが出来なかったのは、きっと、何かに期待していたのね。さっさと館ごと処分してしまえば良かった」


 ゆっくりと顔を上げ、一切の感情を宿さない表情でリリオラは手紙をくしゃっと握りつぶした。

 憎悪を込めて手紙をぐちゃぐちゃにしていくリリオラ。圧に耐え切れずに千切れた紙屑が床にはらはらと落ちていく。


「お前、どこまでも私の邪魔をする……!」

「……!」


 石が黒の滲んだ緑に光り、トニアは反射的に身を反らして後ずさりをする。リリオラの瞳からはもう人間の色を感じなかった。完全に魔物の化石に食われてしまったようだ。それが今の彼女の意思だとでも言うように。かつて手紙を隠したであろうリリーの面影を失ったリリオラがじりじりと近づいてくる。


「紋様で人生を縛るだけでは物足りないのか!? そこの役立たずのミハウと一緒に、朽ち果てた人生でも送ればいいものを……!」


 ベッテを壁にもたれかけさせて立ち上がったミハウの顔を指差し、リリオラはけらけらと笑う。


「与えられた役すら全うにこなせない無様な男よ。この娘をぞんざいに扱って、好き勝手にすればいいものを、こいつはそれすらも出来なかった! 結局はこの娘に気を奪われて、まったく無意味な存在だ。ピスタチオの苦しみにのまれて父親と同じ道を辿ればよかったのに。憐れな奴め」


 ミハウを指差したまま、リリオラは大層ご満悦に彼のことをなじる。

 しかしミハウは彼女の言葉など一切気にもせず、紋様の真実を察したトニアのことを見た。トニアは困惑した様子でミハウを縋るように見ていて、今にも気絶してしまいそうなほど血気がない。


「ミハウさん……本当、なの……?」


 トニアの微かな声にミハウは音もなく頷いた。その反応にトニアはきりきりとこめかみが痛んできた。彼はどれだけこの魔物に人生をコケにされてきたのだろう。父親を奪われるだけではなく、自分自身すら囚われている。トニアはキッとリリオラに憎悪の眼差しを送る。

 彼女の僅かな抵抗心は、リリオラにしてみれば歯もない子犬にかみつかれたのと同じことだった。それでも自分に歯向かうその心意気が気に食わなくて、リリオラは握りしめた石に力を込める。


 彼女が勝手にクジラの館を調査して、手紙を見つけた。

 誰にも見せたことのない唯一のリリーの弱みを、事もあろうに忌まわしい彼女が手にした。

 ぷつりと、辛うじて残っていた限界まで擦り減って細くなった襤褸糸が切れる音が頭に響く。


「お前の大事なもの……奪ってやる……」


 渦巻く怒りに飲まれ、リリオラは心の底から湧き上がる嫌悪で唇を噛む。瑞々しい血がぽたりと零れると、彼女の口角は緩やかに上がっていく。


「トニア……!」


 一瞬の判断だった。

 リリオラが石を光らせるのと同時に、ミハウはトニアに向かって駆けて行った。トニアがミハウの剣幕に驚いていると、リリオラがいる方向からレーザーのような光が突き刺してくる。

 その光は真っ直ぐにトニアに向かっていて、ミハウが自分を庇おうとしていることがすぐに分かった。


「……だ、だめです!」


 自分に覆いかぶさるミハウ。トニアは咄嗟に体勢をくるりと変えて、反対にミハウを庇った。

 強烈な光がトニアの身体を貫き、体内を駆け巡った。彼女が光に飲まれていく様を見て、遠くからネルフェットがトニアの名前を悲鳴のように呼ぶ。


「うぅっ……!」


 そのままミハウに向かって倒れていくトニアを、ミハウはしっかりと受け止める。悶え苦しむトニアはミハウの胸元をぎゅっと強く掴み、痛みに耐えているようだった。彼女が放っていた光が収まると、今度は腕の中で苦しそうな呻き声が何度もあがり、ミハウは冷たくなった手でトニアの頭を包み込んで抱きしめた。

 狙い通りトニアに光が届いたリリオラは高らかに笑い、腹を抱えて息を荒げる。ミハウはようやく呻き声が落ち着いてきたトニアを胸に収めたまま、悪魔となったリリオラのことを睨みつけた。


「リリオラ!」


 そこに、頭上から弓矢のような鋭い声が降ってくる。ミハウが天井を見上げると、舞台の背後に聳え立っている獅子像の一番上にネルフェットが立っているのが見えた。


「もうやめろ! これ以上、自分を殺すな……!」

「あぁ!?」


 リリオラがネルフェットの方を見ると同時に、パラパラと金属片が降ってくる。先ほどの雷で粉々にされた獅子像の一部をネルフェットが振り落としているようだった。

 容赦なく降り注ぐ凶器となった塵に、リリオラは頭を抱えて逃げ惑う。ネルフェットは彼女がミハウたちから少し離れた方面へと逃げるのを確認すると、そのまま立っていた獅子の頭を力強く踏みつけた。

 すると、脆くなっていた像は轟音を立てて舞台の方に向かって倒れていく。ネルフェットは詠唱会の後で踊ることになっていたダンスのステップの要領で足場が崩れる前にその場から離れ、像が崩れていく様を見守る。


「嫌ッ……! 何……ッ!?」


 自分に向かって落ちてくる獅子の頭を見上げ、リリオラは慌てて逃げだす。しかしその際に金属片に足元を取られ、情けなく倒れ込んでしまった。転んだ反動で握りしめていた石が手から離れ、コン、コン、と音を立てて舞台の上を転がっていく。


「あ……っ!」


 急いで立ち上がり、獅子の頭が床につく前にリリオラは間一髪で逃げる。その場のすべてが破壊されるような耳を潰す重低音が響き渡り、舞台上で獅子の頭が崩壊し、四方八方に鈍器が飛び散っていく。

 ミハウは衝撃からトニアを遮り、音が止むのを待った。

 獅子の頭が落ちたことなど気にも留めず石を探すリリオラ。四つん這いになって必死で床を目で攫う彼女の前に、すっかり汚れてしまった革靴が力強く床を踏み鳴らす。

 ブリュネットの髪を乱したリリオラが顔を上げると、ネルフェットが石を片手に彼女のことを見下ろしていた。


「ネルフェット……! お止めなさい……! 馬鹿なことは!」


 幼少期に幾度となく聞いた叱責に、ネルフェットは磨き抜かれた瞳を静かに向ける。


「いいや。俺は大事な人を取り戻す。リリオラ……いや、リリー」


 もう一方の手に携えた獅子像の欠片。剣のように鋭利なその切っ先を、ネルフェットは魔物の化石に突き刺した。


「いやあああああああああああ!!」


 身をよじらせ、痛みが燃えていく中でリリオラは地獄の底から這いあがったような叫び声を上げる。

 魔物の化石が澱んだ緑に光り、ネルフェットは光を目に入れないようにしながら獅子で石を貫いた。

 リリオラの叫び声が収束していくと、石の光も消えていく。はぁ、はぁと荒い息を上げ、大きく呼吸をしていることが彼女の身体の動きを見ているだけで分かる。ネルフェットは白目をむいて倒れたリリオラを見て、石を床に落とした。石は床に落ちるなり粉々になってしまった。

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