56 届いたことば

 扉を叩く音に、ミハウは手に持っていた楽譜を机の上に置いてから振り返る。


「お邪魔するね」


 顔を覗かせた後で、ミハウの返事も待たずにベッテは彼の部屋の中に入ってきた。

 机に置いた楽譜にすぐさま気づいたベッテは、くすっと笑って腕を軽く組む。


「ようやく、母親に合わせる顔が整った?」

「…………余計なお世話だ」


 ふい、とミハウが顔を逸らすので、ベッテはくすくす笑いながら彼の隣に並ぶ。


「見てもいい?」

「ああ。好きにすればいい」


 机に置かれた楽譜を指差し、ベッテはミハウの許諾を得るなりそれらを手に取った。

 彼女はこれまでグローブに隠されてよく見えなかった素肌のまま、両手で大事そうに楽譜を抱えて目を通す。

 ミハウは彼女の自由になった両手を改めて目に映し、生き生きとした彼女の息遣いに僅かに目元を緩ませる。

 騒動から三日後の今日。ベッテは入念な身体検査の末に、ようやく日常を取り戻した。

 リリオラに脅されていたことがネルフェットの証言からも認められ、ミハウとベッテはしばらくの間、歌うことと演奏を禁じる少しの謹慎のみで罰は済まされた。


「愛するミハウへ捧ぐ。どうか音楽を憎まないで欲しい。ミハウの歌声は、どこにいても私の胸に届き、希望を響かせ続ける」


 最後の一枚に書かれた言葉を、ベッテはミハウに言い聞かせるように呟く。


「……羨ましい。こんなに素晴らしい旋律だけではなく、あの人の心すら、あなたは贈り物としてもらえるのね」


 ベッテは譜面を追いながら頭の中で曲を奏で、恨めしそうにミハウを見上げた。


「父親なんだから。妬むなよ」


 はぁ、と呆れたようにため息をつくミハウに、ベッテはふん、と口を結ぶ。


「いいじゃない。私がどれだけアルヴァーさんに憧れていたと思う? ようやく宮廷に来られた時には、もう彼はとっくにいない。彼を追って頑張ってきたのに……」

「好きなことを仕事にできたんだから、あんまり贅沢は言いすぎるなよ」


 楽譜を机に戻したベッテに対し、ミハウはなだめるように言い聞かせる。

 最後の一枚を一番上に置いたベッテ。ミハウは丸っこい動物の足跡のような父の文字を読み返し、トニアが必死になって願っていた姿を思い返した。

 これを見せるためだけに彼女は自分を生贄に捧げたのだと思うと、言葉の重みも変わってくる。

 ミハウは長い指で父親の願いをなぞり、ソファに足を組んで座り込んだベッテの頭に視線を移す。


「ところで、ベッテ。君こそどういう風の吹き回しだったんだ? ネルフェットに協力するなんて」

「……意外だった?」


 ベッテは顔だけでミハウを振り返り、首を傾げる。


「いや、そうじゃないけど。ただ、マニトーアの音楽を演奏するなんて自殺行為だろ。君はその手をこれまで必死になって守ってきたのに。わざわざリリオラに見せつけたんだから」


 紋様の企みの時にリリオラから聞いたベッテの真実。それを聞いたとき、彼女が何故リリオラに忠実だったのかがはっきりした。彼女は音楽を何よりも愛している。自らの望みを守るためなら、危険など冒さないと思うのは当然だ。


「マニトーアの曲を練習していたのはネルフェット。なんでも、あの子を元気づけたかったんですって。私はピアストエの伴奏を頼まれただけ。何を使って、何を演奏するかなんて、彼の自由」

「ふぅん」


 ミハウはまったくベッテの言葉が響かないとでも言いたいようにつまらない声を出す。


「…………何」

「いや。それはリリオラに反する理由にはならないな、と」

「…………まったく」


 ベッテははぁっと息を吐き、腕を組んでミハウを横目で見てから正面に顔を戻した。


「あなたと同じ。ミハウ。私も、ネルフェットに恩があるだけ」

「……恩? 君、人に感謝なんてするんだ」

「感謝くらい、必要な時はする。私が宮廷に来た時、周りは皆、私のこと見下して、小娘の癖に何が出来るんだって顔をしてた。意見を募っても無視されることだってあった。あなたのことは認めていないからどうでもいい、せいぜい頑張って、ってね。だからなかなか慣れることが出来なくて……。でも、ただ一人、ネルフェットだけは違った。彼だけが、私の実力を認めてくれて、遠慮も知らずに色々なことを言ってきたの。居心地が悪かった職場に、ちゃんと私がいる意味をもたらしてくれたの」


 ベッテは瞼を閉じ、照れを隠すようにつんけんとした声で動機を語る。


「この前知ったけど、ネルフェットが私を推薦してくれたみたい。……だから、良くしてくれるのは今思えば当たり前の対応なのかもしれないけど……」


 目を開いて、ベッテは微かに笑みを浮かべた。


「ネルフェットのヴァイオリンを初めて聞いたとき、びっくりした。私もいつかは触ってみたいと思っていた楽器だけど、それ以上に、彼の奏でる音が素直すぎて……。だから私は、彼を信じてみることにした。それだけ」

「……そっか」

「ちょっと……聞いておいてその反応は何。あなただって、トニアに随分と優しくしていたじゃない」


 ベッテはミハウを厳しい眼差しで睨みつける。


「…………それは、君にも落ち度があるんじゃないか?」

「は? 何を言ってるの。私はトニアのことを見張る役目はなかったはず」


 ミハウはベッテの座っているソファに近づき、背もたれにぐっと体重をかけて上半身を預ける。


「彼女に嫌われるようにアドバイスをくれたのは君だろ。失礼な態度を取ったり、よく顔が合うように街で遭遇して、嫌悪感を抱かせるって。ベッテに教えてもらったようにしてただけだ。だけど彼女はまったく怯まなかった。むしろ、父親捜しまでしてくれた。効果なかったじゃないか」

「私は同性としての意見を出したまで。トニアがそれに何を思うかなんて知らない」


 ベッテは自身の意見に苦情をつけてくるミハウを疎ましそうに見やった。


「あなたこそ、彼女に気を回しすぎたんじゃないの? どうせ、本当は傷つけたくはなかったんでしょう」


 腑に落ちない表情をしているミハウに、ベッテは個人の見解をぴしゃりと言い放った。ミハウは何も言えずに身体を真っ直ぐに起こす。


「……彼女の容態は、どうなの……?」


 少し真剣な顔をして、ベッテは静かにミハウに尋ねる。自身の検査で外界から隔離され、周りの情報には疎くなっているようだった。


「…………目は見えていない。ピエレットが、必死に研究を続けているが……」

「……そう」

「それ以外に異常はない。だがどうしても、そこだけは……」

「…………そうなのね」


 ベッテは自分の両手を開き、じっと視線を落とす。


「私の手は、リリオラに人質に取られていただけ。ようは、代償として貸していただけみたい。だから、石が壊れて効力がなくなって戻ってきてくれた……」

「……ああ」

「だけど彼女のことは、完全に奪いにいっていた。……本当に、奪われてしまったのね」


 ベッテはぎゅっと両手を握りしめ、やるせない思いを握り潰した。


「…………ねぇミハウ。私、謹慎が明けたら早速仕事にとりかかろうと思う」

「……? 仕事? 何か新しいものでもあったか?」


 すくっと立ち上がったベッテをミハウはきょとんとした様子で見る。


「ええ。ネルフェットから……。多分、依頼がある」

「……は?」


 ミハウはベッテの言っている仕事の正体が分からず考え込む。ベッテは口元を緩ませ、ふふ、と笑った。


「作曲よ。もう方向性は決まっているから、試作を聴いて頂戴。ミハウ」

「……ああ、構わないけど…………」


 ミハウは活力の漲るベッテの爽やかな表情に、結論が出ないままに頷く。

 ベッテは自信たっぷりに微笑むと、誇らしげに姿勢を正して部屋を出て行った。

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