32 隠し味をどうぞ

 早めに見学を終えてしまおう。そう思い方向を変えたところで、一人のスタッフにぶつかった。彼は体勢を崩しただけで転ばずに済んだが、トニアは大反省をして必死で謝る。仕事をしている彼らの邪魔をしないというのが、今日の彼女の一番の決まり事だったからだ。

 スタッフはにこにこと笑って大丈夫と言ってくれたが、トニアはふと冷静になって周りに目を向けて見た。

 楽団員たちは言わずもがな、大勢のスタッフたちが足を止めることもなく動き回っている。規模の小さいものだと聞いてはいたが、やはりそんなことは関係ないのだろう。

 トニアは、演奏に向けて万全の準備を進めていくスタッフたちを見やり、自分一人だけ呑気に浮かれている場合ではないと渇を入れ直す。


「あの……」

「はい? どうかしましたか?」


 近くにいたスタッフに声をかけたトニアは、控えめに手を挙げる。


「わ、私に何か手伝えること、ありますか……?」


 出しゃばりに思われるだろうか。トニアはスタッフの表情がぽかんとしたまま動かないのを見て、かぁっと体温が上昇していくのを感じた。やはり、空気でいるのが正解か。

 ミハウのアドバイスを思い出し、時すでに遅い立候補を取り消したくなってしまう。しかし。


「ありがとうございます……! 実は、スタッフが何名か風邪をひいて……人出が足りなかったんです! いやぁ、このタイミングで風邪がはやるとか、勘弁してほしいですよね、ははは」


 スタッフの表情が一気に晴れ渡るのを目にして、トニアの穴があったら入りたい衝動は消えていった。


「そう言っていただけて、すごく助かります! あ、でもあんまり大変なことをお願いするわけにもいきませんし……あ、そうですね! ちょうどお願いしたいことはあります!」


 彼女はトニアをキラキラと見つめながらぽんっと手を叩いて人差し指を掲げた。


「演者の方に、ドリンクを出さなければいけなくて……。本番前に飲むのが習慣なんですって。でも、今、ちょっと準備する余裕がなくて……」

「はい! 私用意します。お役に立てるなら、嬉しいです!」


 スタッフの彼女が困ったように笑っているので、トニアは愛想良く返事をする。


「本当ですか? そうしたら……」


 そのまま、彼女はトニアに必要なことを教えてくれた。トニアは聞き漏らしのないようにひとつひとつの単語をしっかりと拾い、最後に力強く頷く。


「えっと……ミハウさんにコーヒーと……ベッテさんにホットミルク、それと……」


 指折りしながらオーダーをぶつぶつと繰り返しながら、トニアはスタッフに教わったばかりの控室へと向かった。




 トレイに乗せたコップに入った飲み物をこぼさないように、トニアは慎重に歩を進めながら舞台袖の待機場へと運ぶ。あと十五分で本番だ。音楽堂の見学は出来ていないけれど、トニアは演奏会の手伝いを出来ることが嬉しくて、鞄にしまい込まれたメモ帳が寂しそうにしていることにも気づかないふりをした。


「あら、トニア。申し訳ないわね」


 演者たちが最後の打ち合わせをしているためか舞台袖はがらんとしていて、そこにはリリオラしかいなかった。


「いいえ。招いていただいて嬉しかったものですから」


 トレイを机に置いたトニアは一安心をして警戒心も忘れて朗らかに笑う。


「そう。そんな風に思ってもらえて光栄だわ。ミハウのお相手として、本当に申し分ないわ」

「……そ、それは、分かりませんが」

「あら。謙遜しないで? あ、でも一つ、アドバイスがあるわ」

「アドバイス?」


 リリオラもミハウと付き合いは長いはず。トニアはそんな彼女の囁きに興味を抱き、小首を傾げる。


「あの子、結構緊張してしまう性質なの。だから、もっとリラックスさせてあげた方がいいと思うの」

「と、言いますと……?」

「ふふ。コーヒーには、色々なエッセンスが混ざり合うわ。そのどれもが素晴らしい化学反応を起こして、人にも貴重な影響を与えてくれるものよ」


 リリオラはトニアが置いたコップたちに目を向け、そこに添えられたいくつかの風味づけのためのペーストや粉末、オイルを指差す。

 これはスタッフに言われたもので、皆それぞれが好みの味に変えられるように用意しているものらしい。トニアはぽかんとしたままそれらの香料に意識を向ける。


「ミハウもね、隠し味が好きなのよ。……えっと、どれだったかしら……? いつも入れているのは……」


 トレイに近づき、リリオラはがちゃがちゃと素材たちを拾い上げては戻していく。


「ねぇ、貴方。ミハウはいつもどれを入れているの?」


 通りがかったスタッフにリリオラが声をかけると、そのスタッフは恐縮した様子で背筋を伸ばし、「白の蓋です!」と答えた。


「ああ。これね」


 リリオラの指輪できらめく指が白い蓋で覆われた小さな瓶を指差した。


「トニア。まだ仕事は終わりじゃないわ。申し訳ないけれど、お願いしてもいいかしら?」


 くるりとトニアの方を向いたリリオラ。ちょうど彼女の羽織が広がり、トニアの視界からは机が隠されてしまう。


(白い蓋、白い蓋…………)


 間違いがないように、トニアは先ほどの情報を呪文のように唱える。


「よろしくね」

「はい……!」


 リリオラは両手を身体の前で重ね、にっこりと微笑む。するとリリオラを呼ぶ衛兵の声が響き、彼女はまたトニアの前から姿を消した。


「ミハウさん、緊張するんだ……」


 トニアはミハウたちが戻ってくる前にと、急いで白い蓋を開ける。中に入っていたのは透明なオイルだった。たくさんのコップから立ち込める香りにオイルの正体はかき消されてしまう。トニアはスプーン一杯分のオイルをミハウの名前が書かれた紙コップに入ったコーヒーに混ぜる。


「よし……!」


 これで演者を送り出す用意はばっちり整った。トニアは腰に手を当てて達成感に包まれる。

 トニアが一息つくのと同時に、がやがやとした声が聞こえてきて、楽団員たちが次々にコップを手にしていく。彼らの後ろから、ミハウとベッテもこちらにやって来た。


 トニアはミハウがコップを手に取り、自分が淹れたコーヒーを飲む様子をじっと観察していた。彼はトニアが淹れたことは知らない。まずいと言われたらどうしよう。

 コップを口から離し、食い入るように見つめているトニアの視線に気づいたミハウは、眉をひそめて彼女と目を合わせる。

 「どう……」トニアが口を開いたその瞬間、ぐらりとミハウの体勢が大きく前傾に倒れる。

 机に手をついた勢いで残っていたコップは総じて倒れ、紙コップがぶつかり合う音とともに湯気の立った飲料たちが机上から床へとこぼれていく。

 机がずれる際に生じた摩擦音により、その場にいた者の目が一斉にミハウへと向けられた。視線の中心となったミハウは、机に手をついたもののそのまま力を失ったのか床へと崩れるように膝をつき、机を押して離れた手は身体を支えるように床を捉える。


「ミハウ……!?」


 近くにいたベッテがしゃがみこみ、彼の肩に手をかけて表情を窺う。ミハウは床に這うようにして項垂れ、ゲホゲホと喉の奥底から何かを吐き出すように咳を繰り返す。彼の息を吸う音はぜえぜえと雑音が混じり、締まりきったホースのように細い。きちんと息を吸えているのか、離れていても苦しそうなのが分かる。


「ミハウさん!?」


 慌てて駆け寄るトニアの全身からは血の気が引いていた。近くで見ると、ミハウの顔からも体温は消え、唇まで色が悪くなっている。額には汗をかき、はぁ、はぁ、と酸素を求める切迫した表情で自分の手から落ちたコップを見つめている。


「……あ、あれる、ギー」


 朦朧とする意識の中で、ミハウは呼吸音に紛れた声を発する。


「え……ミハウ……これ、コーヒー、ココナッツじゃ、ないの……?」


 ミハウの背中をさするベッテの手が止まり、床にこぼれた液体に目を向けた。


「このコーヒー淹れたの誰?」


 ベッテの当然の疑問にトニアは剣で切りつけられたような衝撃を覚える。ざわざわと、周りの楽団員たちも顔面蒼白になりながらミハウの様子を窺っていた。


「……わたし……です……」


 言い逃れが出来るはずがない。スタッフの証言だってあることだ。トニアは泣くことすら忘れた恐怖と罪悪感に包まれながら恐る恐る声を出す。


「トニア? 一体何を入れたの?」


 ベッテは眉をしかめて冷静に問いただす。


「……白い蓋の……」


 トニアが言い終わらないうちに、ベッテは立ち上がって机の上に倒れている白い蓋の瓶を開け鼻先に近づけた。正体が分かるなりベッテの表情は険しくなる。


「ピスタチオ……」


 ベッテは早急に周りのスタッフに指示を出し、救急車を呼ぶこととミハウの鞄を持ってくるように伝えた。ばたばたとスタッフが走り回る中、ミハウの呼吸はさらに細く荒くなっていく。


「ベッテさん! 開演時間が……!」


 一人の楽団員が目を回しながらミハウに付き添うベッテに駆け寄ってくる。ベッテは時計を見上げ、いつもは落ち着きを払っている瞳に焦りの色を灯した。

 荒れ狂う海の波のような現場の状況に、トニアは何も考えることができずに頭が真っ白になった。ミハウがこうなったのは、間違いなく自分のせいだ。彼はアレルギーと言っていた。ピスタチオ。自分がコーヒーにオイルを入れるときに、きちんと確認していれば……。でも、確認したところで何が出来ただろう。


 何も知らずにまた余計なことをしてしまうかもしれない。

どうすればいいのか分からず、トニアはただミハウの隣に寄り添い、もはや意識が薄れている彼を飲料まみれの床に倒さないように支えることしかできなかった。

 肩にかかる彼の重みと苦しそうな音と動きに、彼女は散弾銃を浴びたように喉の奥から血の味がしてきた。


「おい! どうしたんだ!?」


 どたどたという足音と共に、新たな人物の声が響く。皆の視線を一度に浴びても、彼は一切狼狽えることなく堂々とした足取りでうずくまるミハウのもとへとやってくる。


「どういうことだ? トニア、ベッテ、ミハウはどうした?」

「ネルフェット…………」


 切羽詰まった彼の表情。開演時間が少し過ぎている今、訳が分からずに困惑しているのは彼も同じだろう。けれど彼は状況を把握しようとしっかりと辺りの様子を窺いながらも、目撃者であるベッテとトニア、そして当事者のミハウを気遣うように見やる。


「ミハウがアナフィラキシー症状を起こした。歌うのは無理」


 ベッテが早口で簡潔に状況を伝える。事情を把握したのか、ネルフェットはこくりと頷いてスッと立ち上がる。


「みんな、直前で申し訳ない。今日はミハウの歌はなしだ。代わりに……クラン、歌えるか? 君の歌声なら観客も満足する。悪いが……頼めるか?」


 ネルフェットが一直線に見つめた黒髪の青年は、はっと息をのんだ後でぴしっと背筋を正した。


「はいっ! 勿論です!」

「すまない。ありがとうクラン。ベッテ、ここはもういいからお前ももう出ろ。皆を頼む」

「ええ。分かったわ。皆、準備はいいわね?」


 ベッテも立ち上がり、淡々と、それでも力の入った声を皆にかける。皆は気合いの入った返事をすると、わたわたと舞台へと向かって行った。

 楽団員たちが去り、スタッフたちも演奏会の仕事へと取り掛かり始める。ミハウの周りにはトニアとネルフェット、そしてつい先ほど運ばれてきたミハウの鞄が置いてあるだけになった。


「ミハウ」


 ネルフェットは鞄から取り出した注射器に入った薬をミハウの足に刺し、ぐったりとトニアに寄りかかっているミハウに声をかける。


「すぐに医者が来るからな」


 少しずつ呼吸が落ち着いてきたミハウを見守りながら、ネルフェットは怯えた表情をしたままのトニアへと意識を向けた。舞台からは、割れんばかりの拍手に続いて優雅な音色が聞こえてくる。祝祭が開演したようだ。


「トニア、何があった?」

「……ピスタチオ」

「え?」

「コーヒーに、ピスタチオを入れちゃったの……ココナッツと間違えて……」


 トニアは先ほどベッテが話していた内容を整理し、震える声で告白した。


「そうか。……ミハウは、カシューナッツのアレルギーなんだ」

「……カシューナッツ……?」

「うん。ピスタチオって、カシューナッツと同じウルシ科。だから、ピスタチオには交差抗原性があるって言われてる。ミハウのやつ、トニアにちゃんと教えてなかったんだな」


 ネルフェットは瞼を閉じたまま項垂れているミハウを揶揄するように言った。


「ちゃんと教えないと駄目だろ、ミハウ」


 とんっと優しくミハウの肩を小突き、ネルフェットは自分を責めていることが一目瞭然のゾンビのような顔をしているトニアにそっと笑いかけた。


「もう大丈夫だから。でも……命にかかわるから、次はなしね?」

「うん……もちろん……」


 トニアの声はかすれていた。ミハウに対して詫びる言葉が思いつかない。ごめんなさい、じゃ済まされないことをトニアもよく分かっていた。すぐそばにあるミハウの頭をそっと手の平で包み込むと、ふんわりとした髪の先にある彼の頭部の丸みに、トニアの胸はきゅっと締め付けられる。

 彼がどうにか無事で良かった。そう思うと、存在感を消していた涙腺が刺激され、トニアの目頭には涙が浮かぶ。


「ネルフェット様! 遅くなりました!」


 ネルフェットがトニアの涙に気づいたその時、威勢のいい凛とした声が三人に向かって飛んでくる。スタッフが呼んだ救急車から駆け付けた医者のようだ。恐らく王室関係者の事情だと伝えていたのだろう。

 医者はネルフェットを見るなりビシッと敬礼をし、てきぱきとミハウを担架に乗せて運び出した。


「トニア。俺が付き添うから大丈夫」


 彼らについて行こうとするトニアを、ネルフェットはそっと手で止める。


「でも……私のせいで……」

「謝るなら、ミハウが落ち着いてからの方がいいだろ? じゃないと伝わらない」


 ネルフェットはそう言うと、舞台の方を指差す。


「クランの歌声も綺麗なんだ。ミハウのライバルとも言えるけど。どんな感じだったか、ちゃんとミハウに報告してあげて」


 舞台上には、今まさに歌いはじめようかというクランの姿が見える。


「俺は聞けないから、頼むよトニア」

「……うん」

「ありがと。落ち着いたら連絡する」

「分かった。お願いします、ネルフェット」

「ああ。任せろ」


 ネルフェットは最後に悪戯に笑い、手を振りながら医者の後を追った。

 ミハウの容態が心配だ。それに、今すぐにでも謝りたい。でも彼の顔を見るのが怖くて、トニアは震える手をぎゅっと抑え込む。

 ようやく静寂を取り戻した彼女の耳に、宝石をちりばめたような煌びやかな歌声が入ってくる。

 トニアは幻聴を疑うほどのその伸びやかな声に、隠していた涙をそっと拭った。


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