31 舞台袖

 祝祭の日がやってきた。今日は国中が休暇を取り、のほほんとした時間を送れる日。トニアは朗らかな街の空気とは対照的にがちがちに緊張しながらトラムに乗り込んだ。

 ピエレットに借りたワンピースは、クラシックな形の濃い目のミントグリーン色で、控えめに広がるスカートが椅子に広がりトニアはさっと足の下にしまい込む。

 慣れない恰好に不必要に戸惑いながらも窓の外を見て気持ちを落ち着ける。鞄に入れた招待状に書かれた自分の名前に小さな勇気をもらいながら、彼女は目的の場所で降りた。


 音楽堂は宮殿の敷地内にあり、これまで来た時より賑わう庭の様子に特別な日であることを認識させられ、トニアは思わず魅入ってしまう。いつも威厳を存分に見せつけてくれる宮殿が、なおも誇らしげにすまし顔をしているように見える。招待状を見せてほかの招待客に混じると、自分とは違う世界に生きる異星人たちと巡り合ったかのような奇妙な気持ちになった。

 老若男女がそこにはいる。けれど皆、一様に気品のある風格を漂わせ、彼らを包み込む風すら綿のように柔らかで絹のようになめらかに思えてしまう。彼らと自分の間に見えない次元の壁が置かれていて、その次元には斜めに切り込みを入れたような段差が存在する。ひび割れたガラスが目の前にあるのではないかと疑い、つい身構えてしまった。


 やはり場違いなことは想定通りだった。トニアは封筒に書かれた文字をそっと指先で撫で深呼吸をする。

 あの時だけ見せてくれた彼の優しさに、不思議と胸は落ち着きを取り戻す。

 気合いを入れ直したトニアは、事前にミハウに聞いていた待ち合わせ場所へと向かう。直前まで準備で忙しい彼が、わざわざご丁寧に迎えに行こうかと言ってくれるとは思っていなかった。実際に、音楽堂までは自分の足で出向き、そこで彼と会うことになっている。期待こそしていなかったとはいえ、やはり少し心細いのが素直な気持ちだった。


 音楽堂は、とんがり帽子のような特徴的な屋根が目印で、その頂点からは豪勢な柄のついた剣のような鉄骨が細長く天まで伸びている。尖頭アーチのステンドグラスを見上げ、トニアはそこに描かれた楽器に目を向ける。残念ながら、やはりそこにヴァイオリンもピアノもない。トニアは納得したように鼻から息を出すと、建物の傍にある丸石のベンチに腰を掛けた。

 招待客はそれぞれ庭を探索した後で音楽堂へと入ってくる。まだ時間に余裕があるので、トニアの前を通る人はまばらだった。

 彼らと逆行するように歩いてくる一人の青年に気がついたトニアは、反射的に手を挙げる。


「ミハウさん。すみません、準備は大丈夫ですか?」


 手を振るトニアを見つけたミハウは、ジャケットはまだ着ていないものの、舞台に立つ用の礼服を身につけていて、買い物をする彼とは雰囲気が全く異なっていた。


「迷わなかった?」

「はい。おかげさまで、王宮には少し慣れました」


 トニアはぺこりと頭を下げてみせる。柔らかな陽の下で見るミハウは、通常の冷徹な表情すら慈悲があるように見えてしまい、トニアは声とのギャップにくすっと笑う。


「そう。なら良かった。いつもより人も多いしね。トニア、見学するんだろ? 慌ただしくなる前に済まそう」

「はい。ありがとうございます……!」


 行きつく暇もなく踵を返すミハウ。トニアは彼に案内されるままに音楽堂の舞台裏へと向かう。客席の方は終わった後にじっくり見るとして、まずは普段はお目にかかれない裏側を、と思ったのだ。

 音楽堂の中に入ると、外から見るよりも天井が高く広く空間を纏い、トニアは首が痛くなるくらい上を見上げて口を開ける。目の錯覚なのだろうか。一体、どんな騙し効果が施されているのだろう。

 ワクワクと好奇心をうずかせながら、トニアは楽団員や王室関係者が忙しなく動くステージ裏へ入った。

 トニアが姿を現すと、一部の人間は突然の部外者の侵入を怪訝な眼差しで見る。彼女が申し訳なさから肩をすくめていると、ミハウがよく通る声で呼ぶものだから余計に注目を浴びてしまった。


「あの子が、ミハウさんの……?」

「え? なにそれ?」

「知らないの……? あのね……」


 こそこそと話す声があちこちから聞こえてくる。トニアはいたたまれなさに全身の毛穴がちくちくと痛みだしたが、トニアを待つミハウには彼らの声は聞こえていないようだった。


「あの、ミハウさん。私、ここに居てもいいんですかね……?」


 皮肉なことにこの場で頼れるのはミハウだけだった。トニアはそそくさと彼に駆け寄る。


「皆、本番前でちょっと神経質になってるだけだ。空気になったつもりでいればいい」

「……でも……」


 小声で話しているせいか、二人の距離は近くなる。するとまた、周りの目がこちらに向いたような気配を感じた。

 トニアは前に聞いたピエレットからのミハウの評判を思い出す。確かに、彼は職場での評判はいいようだ。


「終わった後はもっと慌ただしいし、演奏の結果で空気が悪い可能性もある。見るなら今だ」


 狼狽えるトニアに構いもせず、ミハウはぴしゃりと言い放った。ピエレットによると、王宮の楽団は毎度反省会を行っているらしく、どうやらその空気が澱むこともあるのだとか。望まれているものと彼らが目指すもの、そのどちらも指標が高いせいだろう。

 トニアはヒリヒリとした手汗を服で拭い、すぐにいつも着ている服とは違うことを思い出して慌てて手を体側から離した。


「あらあら? 彼女が運命のお相手かしら?」


 トニアが変なポーズで固まったところで、背後から豊満な香りが漂ってくる。ミハウがその声の主に向かって会釈をするので、トニアは恐る恐る振り返ってみた。


「トニア、だったかしら? 前に一度お会いしたわね」


 トニアの記憶通り、そこにいたのはリリオラだった。繊細なアクセサリーをしゃらりと身につけ、彼女の一切の狂いがないマネキンのようなスタイルを際立たせるタイトなドレスを身に纏っている。優雅な羽織をたなびかせて、彼女は茫然とした顔をしているトニアの前までゆったりと歩いてきた。


「り、リリオラ、さん、ですよね……?」

「ええ。そうよ。覚えていてくれたのね」


 たゆたうように微笑まれ、トニアは思わず彼女に見惚れてしまった。


「話は聞いたわ。あなた、ミハウと同じ紋様があるようね」

「えっ……あ、はい……」


 右手首をじっと見つめるリリオラの視線に、トニアは咄嗟にその手をスカートの影に隠した。


「可愛らしいお嬢様じゃない。ミハウ、あなたにもようやく幸運が訪れたようね」

「……恐れ入ります」


 リリオラの言葉にミハウは淡々とした返事をする。相変わらずのミハウの固い態度に、トニアはびくりと肩を震わせた。思い出してしまったのは、この前ネルフェットに聞いてしまった愚かな質問。

 ミハウはともかくとして、目の前にいるリリオラは確実にマニトーアに良い印象はない。トニアは彼女が自分の出身を知っているのか少し不安になり、彼女の表情をこっそりと窺った。


「トニア、あなた、留学生だそうね?」

「はっ……はい……!」


 思惑が透けていたのだろうか。リリオラの狙ったような問いにトニアは驚いて威勢よく返事をしてしまった。


「ふふ。勉強熱心でいいことだわ。マニトーアから来ていると聞いているけれど、あなたも音楽は好きなのかしら?」

「えっ……えっと……好き……です……」


 噂に聞いていたのとは違い、マニトーアという言葉をさらっと言ってのけた彼女に対し、トニアは肩透かしを食らったように目を丸くする。


「あら。いいじゃないミハウ。話が合いそうね。二人、お似合いじゃない」

「……え……っと」


 返答に困ってしまい、トニアは背後にいるミハウに助けを求める。しかし一瞬目が合った彼の瞳があまりにも淡白で、トニアは気まずさから苦笑することしかできなかった。


「トニア、知っているかしら? ミハウは父親も音楽関係者だったのよ。彼はその影響を受けて、ずっと音楽のことしかやってこなかったの。歌うことしか知らない彼だけど、どうか大事にしてあげて頂戴ね。私たちの大切な仲間ですもの」


 ミハウが何も言わない間に、リリオラはトニアにとっておきの情報を伝えるリポーターのように気さくに笑いかけてきた。トニアは想像と違う彼女の穏やかな人柄に、呆気にとられながらもこくりと頷く。


「ベッテ」

「はい」


 トニアがふわふわと耳を浮かせていると、リリオラは近くを通ったベッテを呼びつけて傍に来させる。


「彼女にお茶でも出して差し上げて」

「承知しました」


 ベッテは軽くお辞儀をすると、すたすたと急ぎ足で控室へと消えていく。


(あ……今の人って……)


 トニアは去って行く彼女の髪色に見覚えがあり、ふと彼女が残した風を目で追った。


「それじゃあ、私はこれで。ゆっくりしてらしてね」

「はい。ありがとうございます」


 記憶を辿ろうとしたところで、トニアはリリオラに頭を下げる。視界が床を捉える前に、リリオラの羽織の下から見えるドレスのベルトから下げられた革製の小ぶりな巾着が視界を横切った。彼女の足音が遠ざかっていくとトニアは急いでミハウを振り返った。


「ねぇ、あの、さっきの女の人って、どなたですか?」

「女の人って……ベッテのこと?」

「そうです! あ、ベッテさんって言うんですね。前に街で見かけたことがあるんです! 音楽店に入った時に」

「ああ。そうだったんだ。彼女は宮廷楽長。楽団の演奏するものは、すべて彼女が手掛けている」

「そうなんですか? すごいですね……! かっこいい!」


 純粋に瞳を輝かせるトニアにミハウはくすっと意地悪に笑う。


「だって、ベッテ」


 ミハウの言葉に振り返ると、そこにはカフェラテの入ったコップを手にしたベッテがいた。きょとんと瞬きをするベッテにトニアは慌てて挨拶をする。


「は、はじめまして……! トニアって言います。あの、前に一度お見かけしたことがありまして……えっと……」


 様々な驚きにまみれて脳がぼんやりとしてしまったのか言葉が出て来なくなり、トニアはこめかみを抑える。


「はじめまして。ベッテです。トニア、よろしくね。褒めてくれて嬉しい」

「あっ……え、えへへ……」


 コップを差し出し目元を緩めたベッテを見て、トニアは照れながらもそれを受け取る。


「……あ、美味しい……」


 流れるままに飲み込んだカフェラテが喉を通り、反射的に味の感想が口から出て行った。ベッテは「ありがとう」と小さな声で返し、楽器の準備をしている楽団員たちを見やる。


「私は、準備があるのでこれで。トニア、どうぞ良い一日を」

「あ、ありがとうございます。ベッテさんも……」

「ええ。ありがとう」


 ふっと微かに唇を緩めて、ベッテは静かにその場を離れた。トニアは懐かしいやり取りがカフェラテの香りに乗って琴線に触れ、思わず頬を緩める。

 そう、マニトーアでは、こうやって必ず挨拶の最後に相手の一日を祈るのだ。こちらに来てからはめっきりなくなってしまった習慣に、トニアはふふふ、と笑い声を漏らす。

 ミハウに怪訝な表情をされようと構わなかった。初めてリリオラと対峙をしたけれど、まったく身構える必要などなかった。むしろ、いい人ではないか。トニアの心の中は今、意外な喜びで満ちていたからだ。


「そういえば、ネルフェットは……?」


 リリオラの前評判を述べていた張本人である彼の姿がないことに気づき、トニアはミハウに聞いてみた。

 ミハウはきょろきょろと周りを見回した後で、「外で招待客の相手をしてるんだろう」ともっともな答えを返してくれた。


「俺もそろそろ支度に入る。適度なところで客席に戻れよ」

「はい。分かりました」


 楽団員たちが声をかけづらそうにしているのに気づいたミハウは、そのままトニアと別れて仲間のもとへと向かって行った。彼が遠ざかると、彼女に向いていた視線も剥がれていく。トニアはようやく肩の荷が下りたような気がしてほっと息を吐いた。

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