30 オレンジ

 「ネルフェット」


 先を急ぐ彼を呼び止めたのは、物心つく前から耳にし続けてすっかり肌に染みついた声。約束の時間が迫っているというのに足を止めて振り返るのは、彼の無意識の癖だった。


「リリオラ。ちょっと急いでるんだけど……」


 廊下の先を見やり、ネルフェットは声色だけで意志表現をする。


「会議でしょう? 待たせてやればいいじゃない」


 たおやかに微笑むリリオラからは悪意のない無関心が浮かび上がり、ネルフェットは眉を下げた。


「文化庁との会議だなんて、退屈な話ばかりよ」


 彼女の瞳が憎悪に歪んだように見えた。マニトーアに敵わない祖国の文化発信の力に心底嫌気がさしていることがすぐに分かる。躍起になってマニトーアの文化を排除しようとも、隅々まで届かないことを彼女が知らないはずがない。ネルフェットは言葉を殺すように唇を噛んだ。


 昨今、マニトーアの音楽の規制をますます強めたのも彼女だ。人々の心を和ませ、楽しませ、時には慰めてくれる脅威。リリオラにとって娯楽は銃器よりも何よりも恐れる存在だった。国民を惑わす劇薬と判断し、マニトーアの発信するものを敵視し、徹底的な心の誘惑の排除を加速させている。

 それでもトニアの兄が急速に注目を浴び始めたように、彼女の目論見は国際交流の進む世界では簡単には通用しない。だからこそ、文化庁が無能に見えてたまらない。

 本来、彼女が一番気にかけなければいけないはずの対象にネルフェットはある種の同情を覚える。


「何を言うんですか。彼らが時間を作ってくれたので、あまり遅れるわけにはいきませんよ」


 今日の会議はネルフェットが彼らにお願いをしたもの。まだ国王でもない半人前の存在に会話の時間をくれたというのに、遅刻など言語道断。ネルフェットは焦る心を抑えながらリリオラの怒りを鎮めるように穏やかに笑う。折角の機会を無駄にしたくない。彼は今にも走り出しそうな足をどうにか廊下の絨毯に押さえつけた。


 リリオラはネルフェットの両親の善き相談相手にもなっていることを彼は知っている。

 しかしその一方で、癇癪を起すと面倒なことも十分に承知。形式上の上司である国王たちに不満を言えなくとも、ネルフェットには平気で国政の不満を漏らしてくる。その影響で彼がマニトーアへの偏見を強めていたことも彼はすでに理解していた。


 ネルフェットはいつからか、彼女の口から飛んでくる言葉に身構えていることに気づく。

 マニトーアへの興味を強めた今、以前は疑問にも思わず聞けていた話も聞くに堪えなくなっていた。そんな時間よりも、今は文化庁の皆の意見が聞きたい。

 ネルフェットはじりじりと焼けつくような視線で見つめてくるリリオラに、今、自分が計画している提案を話すことはできないと改めて実感した。


「そうだわ。文化といえばネルフェット……」


 リリオラの声の調子が変わり、彼女の衣服が動きで擦れるとともに、辺りには急にスズランの花が咲いたかの如く芳香が広がる。


「祝祭に、あの娘もいらっしゃるようね」

「……娘」


 トニアのことを言っているのは分かる。しかしネルフェットは、リリオラが彼女の名を明るい声色で話題にあげる違和感に出くわし、眉間には皺が寄った。

 トニアがマニトーア出身ということはすでに知っているのだろうか。ネルフェットが直接話したことはないが、ここのところ王宮の人間を賑わせた紋様の騒ぎによって、彼女のことを詳しく聞きつけている可能性は高い。


「前に一目見ただけで終わってしまったから、会えるのが楽しみだわ」


 くす、くす、と可憐に笑うリリオラは傍から見れば彼女を歓迎しているように思えた。ネルフェットはその事実に僅かな胸の軋みを覚える。


「ミハウの運命のお相手だなんて、素敵だと思わない?」

「そう……ですね」

「大切なミハウの契りの相手となる娘だもの。どんな子か、今度こそは是非お話してみたいと思っているのよ。あなたも幼馴染とお友だちの未来を祝福してさしあげなさい。国王になるあなたに祝言をもらえたら、きっと二人も喜ぶわ」

「……そうですか」


 ネルフェットの目が伏せられると、リリオラは即座に切っ先のごとき眼差しを彼に向ける。


「ネルフェット。しっかりなさい。あなたは王になるの。友人の幸運すら祝えないなんて、そんなこと私は教えてなどいないわ」

「…………」

「王の器になりなさい。猶予などないのよ」

「…………はい」


 彼の返事に満足したのか、リリオラはまた眼差しを緩める。ネルフェットは腕時計を見やり、リリオラに一礼をすると踵を返した。


「もう行きます」

「ええ。どうぞつまらない顔をとくと見てくるといいわ。また報告して」

「はい」


 あと三分で会議が始まる。ネルフェットは乱れかけた心を整えながら急ぎ足で会議室を目指す。

 あと三十秒というところで扉に手をかけた時、ふと彼の疑問が雫が曇った窓を這うのと同じように胸にたれてきた。

 何故、リリオラは自分が二人のことを素直に祝福できないと思ったのだろう。

 ひょんな問いをかみ砕く前に扉を開けたネルフェット。重たい扉の向こうで彼を待っていた関係者たちの視線が一斉にこちらに集中すると、彼の直前の疑問はまた一気に靄の中へと隠れてしまった。



 会議は三時間にも及んだ。想定していたのは一時間と少しだったのに、えらく時間がかかってしまった。それもしょうがないことだ。ネルフェットの提案に、文化庁の人間たちは驚きと興奮を隠せなかったのだから。

 リリオラの言っていた”つまらない”顔とは嘘でも言えない彼らとの活気に満ちた討論にどっと疲れたネルフェットは、その手応えとこの先の懸念に天井を見上げ、一人残った会議室で脱力する。

 電球の眩しさを手で遮り隠れた目の下で、口元は微かに綻びを見せる。緩やかに上がった唇の端は、疲労にも勝る清爽に浸っていた。


 とんとん、と先ほど人が出て行った名残りのまま猫が通れるほどの隙間が開かれた扉が叩かれ、ネルフェットは顔に乗せた手をどける。

 圧が抜けたばかりでまだぼやける視界で捉えた会議室の入り口に立つ人物は、徐々にネルフェットの方へと近づいてくる。


「お疲れか」


 背もたれに頭を預けたままのネルフェットの顔を見下ろし、ミハウの頭が光を遮った。


「会議が盛り上がってくれたからな」


 真っ直ぐにミハウを見上げたまま返事をした後で、ネルフェットの顔を覗き込むのを止めたミハウを椅子に座ったまま振り返る。


「……一般公開、か」


 机に残されていた資料を手に取り、ミハウはぼそりと呟く。

 ネルフェットは彼の反応が気になりつつも、どこか気恥ずかしさを感じ表情が引き締まっていった。


「ミハウはどう思う?」


 何も反応がないのは寂しいので、ネルフェットは積極的に意見を促してみる。


「そうだな。いいと思うけど。ソグラツィオは出し惜しみが多すぎる」


 資料を机に戻し、ミハウは深い息とともに感想を述べた。隣にある彼の横顔からは自分にはない色香を感じ、ネルフェットは広い会議室の中で肩身が狭くなるように思えた。

 同じくらいの月日を過ごしてきたはずなのに、彼の瞳には独特の湿っぽさがあるものの、そこには彼の持つ人徳が混じり、奥深い魅力がどうしても滲み出てくる。きっと彼は自身の風情に気づいてすらいない。無自覚がまた彼の性質を際立たせている。


 幼いころから、どちらかというと意地っ張りだったネルフェットのことを見放すこともなく導いてくれた彼。ネルフェットは彼の隣に並ぶトニアの姿を思い浮かべ、不意に目を逸らした。


「歴史的な建造物を見てもらうのは、悪いことじゃないと思うよ」

「……うん。ありがとう。賛同してくれて」


 目を逸らしたまま、ネルフェットは自分の考えを認めてくれたことに感謝を伝える。

 彼が提案したのは、古城のように世界から切り離されてしまった、本来多くの人の関心を寄せる文化財を限定的でも構わないので一般向けの公開を進める件だった。

 ネルフェットは歴史が築いてきたものを隅に追いやってしまうことを望まなかった。もっと世界に向けて真摯に歩み寄るのであれば、まずは内側から考え方を変えていく必要がある。

 何もかもを秘密、特別なことにしてしまっては、国民の関心だって薄れてしまう。ネルフェットはそれを”勿体ない”と感じるようになっていたのだ。

 ミハウは不自然に視線を逸らして落ち着かない様子のネルフェットをちらりと見た後で、そういえば、と話を切り出す。


「祝祭にトニアが来る。リリオラに会うことになるが、いいよな?」

「……なんで俺に聞くんだよ」


 苛立ちが瞳に宿り、ネルフェットはぶっきらぼうにミハウを見る。


「マニトーア出身だって、もう誤魔化せないから。お前の友だちだろ? 下手したらもう会えなくなるかもしれないだろ」

「…………どうしてそうなる」


 ミハウの意図する事実から逃げたいネルフェットは、感情が不快に沸き立つのをじっくりと味わう。


「外出禁止だって、なんだって、リリオラには権力がある。お前はまだ彼女の庇護の対象だから。学院に通えなくなるかもしれないってこと」

「例えそうだとしても、俺にトニアがリリオラに会うのを止める権利はないだろ。彼女が望むなら、会うべきだ」

「……そう。じゃあ、了承済みってことだね」

「ああ。そもそも許可なんていらない」

「分かった。そうしたら彼女を舞台裏に呼ぼうかな」


 ミハウはネルフェットが自覚のないまま怪訝に睨んでいるのを興味深そうに見ながら仄かに笑う。


「彼女、建築が好きだから喜ぶだろう。そっちに気を向けてもらっていた方が気が楽だ」

「……どういう意味」


 指先まで到達する熱を追いかけるように、冷たいものがネルフェットの全身をゆっくりと巡る。それを誤魔化すために、ネルフェットはごくりとつばを飲み込む。


「トニアと上手くいってないのか?」


 答えを望んではいなかった。それでも聞かずにはいられない。ネルフェットはリリオラとミハウのことを尋ねてきた時の彼女の仮初めの笑顔がずっと引っ掛かっている。もしやとは思うが、自らの勝手な願望と見間違えているに過ぎない。そう言い聞かせてきた。


「…………どうかな」


 だからこそ静かな返事が返ってきた時には、彼の渦巻いた感情は行き所を失くし、その場で留まり続ける。ミハウが魅力的な人間であることに間違いはない。しかし、そのことと人付き合いの相性にはまったくの相関はないはずだ。次にネルフェットを支配したのは、自己に対する惨めな気持ちだった。

 自分が尊敬してきた存在のミハウ。ネルフェットが彼になることなどできない。彼を真似ることも、彼の代わりになることだってできない。それが分かっているからこそ、トニアの隣にいる資格のある彼が羨ましかった。


 そして何より、トニアの想いを尊重しようと決めた信念を貫き通すことすらできない自分が情けなかった。

 彼のような人であれば、勇敢で誠実なトニアに相応しい。腑に落ちれば落ちるほど、ネルフェットの見つけた解は自分を締め付け続ける。息苦しくて、自らへの苛立ちが繰り返されていく。

 二人が上手くいっているのであれば、きっとこんな欲望が剝き出しになることなどなかった。入り込む隙間が目に入ることもないはずだからだ。

 けれど今、ミハウの返事を聞く限りは望んだように事は進まない気配が見える。

 それでは彼女は悲しむ。夢物語を捨ててしまうのは心を踏み潰されるのと同じ感覚だ。

 ネルフェットはかつて自分が感じた虚脱感を思い返す。


 視線を下げるとミハウの左手首に見える紋様が視界に入り、ネルフェットの吹き曝しになった叫びは薄れていった。この紋様の向こうに繋がっているのはトニアだ。

 彼は選ばれたのだ。運命として。


「ミハウは、トニアのことどう思ってるんだ?」


 紋様を辿るようにミハウの顔を見上げ、ネルフェットは感情を隠した瞳に問う。


「さぁ。まだ分からない。だけど……退屈はしないかな」


 声こそは淡々としていた。しかし彼の表情の僅かな緩和をネルフェットはしっかりと見ていた。


「そっか。うん……そうか」


 力の抜けたネルフェットの声にミハウは首を傾げた。


「じゃあ俺は部屋に戻るから」


 すっと立ち上がったネルフェットは、ミハウの肩をポンッと叩いて横を過ぎ去る。ミハウの返事も耳に入れないまま、ネルフェットは会議室を後にし、頭の中では緩急をつけて思考を繰り広げた。

 確かに、今のところ二人がまだぎくしゃくとしていることは否めない。

 ただ、ミハウの表情を熟知しているネルフェットは先ほどの彼の反応に違和感を抱いた。彼はトニアのことを嫌ってはいない。むしろ興味があるように思える。


 一方で、彼はネルフェットが知らないだけで、好意的な感情の扱い方がよく分からないのかもしれない。そうであれば、トニアがリリオラの影響を訝しく思うような必要などはないはずだ。

 友人が不器用なせいで、彼女に余計な心労をかけさせてしまっているかもしれない。そう思ったネルフェットは、どうにか彼女に元気を出してもらいたくて深く考え込む。

 考えれば考えるほど歩く速度は落ち、いつの間にかぱったりと足を止めてしまっていた。

 自分はミハウになれない。いや、ならなくていい。自分に出来ることは何かないかをどうにか捻り出す。

 彼女は異国の地で不可解な伝承に巻き込まれ、憧れとは程遠い現状に恐らく心細いはずだ。友人のピエレットは同時に研究者でもあり、ミハウの関係者でもあり相談もしにくい。


 ネルフェットだってミハウの幼馴染なのだから、言いたいことも言い難いはずだ。この前の慌てぶりから見て、それは確実だ。

 ならばどうすれば良いのだろう。頼れる家族も遠くにいて、彼女のことだから心配もかけたくないと思っているのは容易に想像できる。

 すっかり迷宮入りしかけたネルフェットの頭部を暖かい帯が覆い、眩しさに誘われて彼は足元を向いていた顔をそっと上げる。

 見上げた窓の外からはオレンジの夕陽が差し込み、まともに太陽を瞳に入れてしまったネルフェットは思わず顔をしかめた。


「……あ」


 その拍子に、彼の脳裏には彼女から貰った贈り物が浮かんだ。


「そっか…………。うん……そうだ……!」


 はやる心に居てもたってもいられなくなったネルフェットは、晴れやかな輝きを瞳に宿し、次の瞬間には駆け出していた。

 まだ外出制限の時間までは少し余裕がある。いや、帰りが遅れてしまっても構うものか。

 宮殿を抜け出す途中、衛兵とすれ違う時に不格好な姿を晒していたことにも気づかないほど夢中で走った。

 外に出てから身なりの冷静さを取り戻したものの、胸の中はうずうずとしたまま、彼は学院にある秘密基地を目指した。

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