33 雲の上
演奏会が終わったことには、周りの観客たちが波のように立ち上がった時に気づいた。
トニアは彼らから遅れて立ち上がり、舞台上でお辞儀をするベッテに向けて拍手を送る。ベッテは上手側の 上段にあるボックス席に観客の視線を誘導するように手を挙げ、再び深く頭を下げた。
彼女に促され、皆はその席に座る国王と王妃に向かって今日一番の喝采を送った。二人が席から立ち上がり、ゆっくりと礼をする。ネルフェットとよく似た鼻をした国王と、先ほどトニアに笑いかけたのと同じ色の瞳をした王妃が隣のボックス席を身振りで示す。すると、今度は皆がそちらを向く。
すでに立ち上がっていた二人の子息は、両親に譲られて謙遜するように客席に向かって一礼した。
整えたはずの髪が少し乱れているのは、ミハウに付き添ってから急いで戻って来た痕跡だろう。彼が愛嬌に満ちた笑顔で手を振ると、観客たちはほんわかと笑い声をこぼし、気の置けない様子で手を振り返した。
トニアの近くにいた若い女性たちが、小さく歓声をあげているのが聞こえる。例え気分が高揚しても、あまり大きな声をあげてしまうのはこの場に相応しくない。品のある観客たちは、場に沿った振る舞いを完璧にこなすことができる。トニアはどこかの御令嬢である美しい彼女たちをちらりと見た後で、もう一度ネルフェットたちを見上げた。
彼が両親である国王たちと一緒にいるところを彼女は初めて目の当たりにした。
宮殿を訪れることがあっても、国王と王妃に会うことなどは一切なかったし、トニア自身もお目にかかる機会があるとは思いもよらなかった。
適度な緊張感を常に纏っているネルフェット。学院での彼はどこか大人びて見えることもある。しかし両親が傍にいる今の彼は、空気の砕けた年相応の青年で、いつもより幼く見える。高い場所にいる彼は、照明のせいなのか目が眩みそうなほど輝かしい。彼は観客たちの拍手に送られてボックス席を離れ、カーテンの向こうに消えていく。彼の背中がベルベットの布に隠れてしまうまでトニアはずっと見ていた。
最近、以前にもまして忘れてしまいがちだったが、やはり彼は王族。自分とは住む世界が全く違う人間だ。
公演が終わり、和やかな興奮に包まれた観客たちが次々に退場すると、トニアは煌びやかな世界が自分から遠ざかっていくのが分かった。雪解けのように緊張が流され、トニアはとすん、と放心されたように席に座り込む。眼下に去ったはずの光るものが見え、彼女は太ももの上に自然と置かれた自分の手の平を見つめる。ブレスレットの下から赤い紋様の一部が見え隠れし、トニアは肩に残ったミハウの息遣いを思い出す。
彼は大丈夫だっただろうか。ネルフェットが戻って来たということは、きっと容体は落ち着いたはずだ。
自分以外の招待客はすべて音楽堂を出て行き、トニアは音のない天井を見上げる。舞台上の背後にそびえる大きな獅子の像がこちらを睨んでいるように見えた。音楽堂の見学などしている場合ではない。今、そんな心の余裕はなかった。
本来ならば夢中になりすぎてミハウに呆れられていたことだろう。
彼女は自分に残された失態に乾いた笑い声を漏らした。
高い天井から固い靴の足音が聞こえてくる。これはブーツだろうか。トニアは後ろを振り返り、通路を歩く衛兵を一人見つけた。彼はきょろきょろと空席を見渡し、ひょこっと顔を覗かせたトニアと目が合うなり、きりっと敬礼をする。
「トニア・マビリオ殿、ネルフェット様より御託です。ミハウ殿に会いに行くようにと」
「……!」
彼のはきはきとした勇ましい声に引っ張られ、トニアは勢い良く立ち上がる。
「ミハウ殿の御部屋にご案内いたします。はぐれぬように」
「はい……っ!」
握りしめた両手は汗が滴り落ちそうなほど湿っていく。トニアはミハウを最後に見たのがずっと前のことのように思え、白黒だった意識に色が宿った。
衛兵の後に続き、トニアは宮殿の中へと入る。祝祭の片づけをはじめる人々の間をすり抜け、三階まで上り、階段からすぐ近くの部屋の前で衛兵は立ち止まった。
「こちらです。では、私はこれで」
「あっ……。ありがとうございました……!」
衛兵と頭がぶつかりそうになりながらもお辞儀をし合うと、トニアは自らの心臓の音に包まれながら扉に向かって拳を向ける。叩く前に、一度、二度、三度と深呼吸をし、涙目になりながら勇気を振り絞った。
「どうぞ」
扉を隔てた声が聞こえる。ミハウだ。
トニアは失礼します、と断りを入れて恐る恐る重たい扉を開けた。
初めて見る殺風景な部屋の中には、家具は最低限のものしか置かれていなかった。白の木製のもので統一されていて、突然視界が柔らかになったような気がしたトニアは瞬きをする。
窓の近くにはベッドが置いてあり、シーツの皺でつい先ほどまで人が寝ていた形跡が残っていた。
ベッドよりも手前に置いてある丸みを帯びたソファに座るミハウは、読んでいた本を膝の上に置き、来客者のことを静かな眼差しでじっと見つめる。彼の座るソファはこの部屋では目立つ深い青色をしていて、部屋の唯一のアクセントになっているためか、彼の存在がその場に強く映った。
「あ……あの……ミハウさん……」
きりきりと胃が飛び出そうになりながら、トニアはがばっと深く頭を下げる。
「ごめんなさい……っ! 私の不注意で、ミハウさんのこと……こっ、殺しかけて……!」
声が上擦りながらも、自分に出来る限りの大音量で謝罪の心を伝える。頭が下に下がりすぎて、重みで前に転びそう。それに、極端に頭に血が上って、くらくらと眩暈を起こしてしまいそうだった。
それでもトニアはまだ顔を上げられない。こめかみの血管が詰まりそうになっても、彼女はそのまま頭を下げ続けた。許してもらえるなんて思っていない。けれど自分にできるのは、謝ることだけなのだ。
「も、もう……二度としませんから……!」
それと、未来への約束。トニアはスカートをぎゅっと握りしめ、永遠にも思える時を過ごす。
ぱたん、と本が閉じられる音が聞こえ、ソファの上で身体の向きを変えた衣擦れの音も続いた。
「…………トニア。いつまでそこにいるつもり?」
ミハウの淡白な声が、ため息交じりで部屋を漂う。
「顔、上げて。俺は別に怒ってない」
「でも…………」
「いいから。顔、見せて」
ミハウは意固地になるトニアを諭すようにそう言うと、ゆっくりと上半身を戻す彼女のことを瞬きもせずに見る。
「……ごめんなさい。ミハウさん」
ようやく顔を見て謝ることができた。トニアは思わず涙がこぼれそうになり、咄嗟に鼻をすすって誤魔化す。
「トニアに言ってなかった俺も悪い。だから、そんな顔しないで」
手に持っていた本をサイドテーブルに置き、ミハウは肩をすくめる。
「クランが歌ったって聞いた」
「あ、はい……そうなんです……」
「どうだった? クランの声もなかなかのものだと思わないか?」
「……はい。とても綺麗でした。あんな美しい歌声、初めて聞きました」
トニアはそこまで言うと、「でも」と言い難そうに目を伏せる。
「私、ミハウさんの歌を聞いたことがないので……きっと、ミハウさんの歌は、もっと、こう、クランさんともまた違って、素敵なんだろうなぁって、思います……」
本当は、ミハウの歌を聞くのも楽しみにしていた。けれど今、自分にそれを言う権利はないだろう。そう自覚し、トニアはぐっと唇を噛む。
「……聞かせてもいないのに褒められると、妙な気分になるものだな」
ミハウは困ったように薄く笑った。トニアも彼の表情の揺らぎに気づき、微かに目元を緩める。
「それにしても……」
彼が声色を変え、虚空を見るように瞳の色が移ろったのでトニアは小さく首を傾げた。
「ココナッツオイルは、いつも白い蓋で合っていた。今日はどうして違ったんだろうな」
「…………そう、ですね……。でも、いつも決まった通りとは限りませんもんね」
トニアも原因は分からず、うーんと顔をしかめて当時のことを思い出そうとする。瓶は控室の前にすでに置かれているものを並べただけで、特に中身も確認はしなかった。
推理の力になれないトニアは情けなさから肩を落とす。
「トニア」
するとミハウが空いているソファのスペースを目で見やり、彼女の名前を呼んだ。
トニアはソファに座る許可をくれたのだと理解するものの、申し訳なさから気が引けてしり込みをする。何度かミハウと無言のやり取りをした後で、彼女はまた、彼の髪に触れた感触を思い出して不意に頬を赤くした。
特に何かを意識したわけでもない。けれど冷静になると、なんとも恥ずかしい。
トニアは紅潮を抑えたくて、風を切るようにして部屋を横切り、ソファの端へと腰を掛けた。
「でも、無事で良かったです。ミハウさん」
顔を直視できず、トニアはふわふわとした敷物を目に映しながら素直な想いを告げる。
「ベッテやネルフェットが対応してくれたからな。薬のおかげもある」
「あの薬、初めて見ました。ソグラツィオのものですか?」
「そうだよ。まだ治験中だけど。国王に頼んで協力させてもらってる。アナフィラキシー症状を抑える薬だ。あれがあれば、同じような事故が起きた時に役立つだろう」
「そうですね……。ソグラツィオの研究は、やっぱり進んでいるんですね」
頬の熱が引いてきたトニアは、ミハウを見て感心したように微笑む。
「まぁ……得手不得手はあるだろう」
「ふふ。そうですね」
「トニアは……」
「? なんですか?」
ミハウが何かの興味に惹かれたように目を開いたので、トニアは見慣れない彼の瞳の色にきょとんとする。
「ソグラツィオの建築が好きだと聞いているが……そもそもどうして建築に興味を持った? ソグラツィオのものを目にする前に、自国で育んだものがあったはずだ」
「……それは」
トニアはミハウがまさか自分のことについて尋ねてくるとは思わず、鉄砲玉を食らったようにわたわたとする。
「建築物って、いくつもの要素が重なり合って築き上げられるものなんです。その場所の気候や環境、流行、伝統、祈り、願い……。一つ一つに意味があって、設計士はもちろん、関わった全ての人の情熱がそこには刻まれる。それを私たちは、形となって目にすることができる。本当なら人の想いなんて、形には残らない。それなのに、建築物は、どんなにスケールが大きくてもそれを創り出してくれる。だから、そこに込められたたくさんの想いが重なっているって思った時に、私は感銘を受けたの。それが原点。私の家は、レモンを育てているけれど、それと同じだなって、思ったの。愛情をこめて、レモンを育てて、皆を笑顔にしたり、助けたり。……いつも見ていた大好きな光景を、もっと色んな形や場所を変えて残していきたいの」
トニアは、ふふ、と恥ずかしそうに、それでも誇りを持って笑う。
「あと、単純にかっこいいなって思っただけ。職人さんたちと一緒に働いてみたいなって」
「……そう」
ミハウはトニアの表情を観察したまま、彼女の願いを否定することもなく頷く。
「ミハウさんは、歌うことが好きでしょう? それは、どうして……?」
トニアは真っ直ぐにこちらを見ているミハウを見上げる。彼の瞳に映る自分は、本当にそこにいるのかぼやけてよくは見えなかった。
「リリオラが言ってただろ。父親の影響だよ」
ミハウはトニアから目を離し、閉じられた扉を見やる。
「音楽がいつも傍にあった。だから歌い始めるのも自然なことだ。歌っていると、嫌なこともすべて忘れられるし。俺にとっては都合がいい」
「……そっか。私は、上手く歌えてるかなーって気になっちゃって、全然忘れられないですけど……」
自虐するように笑うトニア。ミハウは柔らかな彼女の空気に侵されないよう、両手の指を組んで足の上に乗せる。
「歌は、歌詞によって色んな人間になれる。曲に入り込めば、そんなこともなくなるだろう」
「なるほど。考えたこともなかったです……! あ、でもそうですよね。確かにそうだ! 曲も、建築と同じなんですね!」
「……ん?」
ひらめいたようなトニアに対して、ミハウは一瞬思考が止まる。
「音楽も、いくつもの要素が重なり合って姿を現しますよね! あ、音として、ですけど。いろんな人の気持ちや、なんてことのない些細な出来事。それも文化や環境によってスタイルも異なりますし、たくさんの表現方法があります! これって、建築物と同じじゃないですか?」
興奮気味に話すトニア。ミハウと目が合った時に、これが前に彼の言っていた自身の暴走なのかと理解し、はっと糸が切れたように動きを止めた。
「……ああ。そうかもしれないね」
ミハウはトニアの見解にあっさりとした返事をすると、嫌な汗をかいているトニアから意識を離す。
「そういえば……ミハウさんは、この部屋に住んでいるんですか?」
話題を変えたいトニアは素朴な疑問を切り出す。
「一年の半分くらいは。近くに部屋も借りてるけど、繁忙期はここで寝泊まりした方が効率的だからな」
「そうなんですね! 宮殿って、人がたくさんいるから賑やかそうでいいですね」
「トニアは賑やかなの好きなの? 言っても、部屋にいると他人の気配なんて感じないけど」
「私、兄妹が多いので賑やかな方が落ち着くんです」
「ふぅん」
「あっ。そういえば、お父様は今、どうされてるんですか? やはり音楽を……?」
そこまで聞いて、トニアは彼を纏う息が変わったような気がした。物静かで感情が見えないのはいつものことだが、今度はそこにピリピリとした緊張がバリケードのように張りつめられる。
トニアは指の先まで電流が走り、ごくりと渇いたつばを飲み込んだ。
「父は追放された」
「…………え」
ミハウは瞳で扉を捉えたまま単調な声を放つ。
「つい、ほう……?」
「ああ。……だから俺は、ネルフェットに頭が上がらないんだ」
「え……? どうして、ネルフェット……?」
雲をつかむような話にトニアは力のない声を出す。
「父が追放された後も、ネルフェットは俺に声楽家として目をかけてくれた。こんな部屋まで用意して……。俺が今歌えているのも、人前に立てるのも、あいつのおかげだ。だから俺は、歌うことさえできれば他に何もいらない」
ミハウはくるりとトニアのいる方向に顔を向ける。
「だから、今日歌えなかったのは確かに悔しかった。いずれクランにすべての役割を引き継がれるかもしれない。その可能性を強めた。……だからと言って君を責めるつもりなどはないが。君を放置した自己責任のようなものだからな。だけど、トニア」
彼の表情が氷の彫刻のように冷たくなるのと同時に、自らを溶かしてしまいそうなほど燃える瞳を開く。
「あいつのことを苦しめるのだけはやめてくれ。ネルフェットは強がりなだけで無茶ばかりをする。もう分かっていると思うけど、君は彼の生きる世界では異質な存在だ。万が一のことがあって……もしも今のあいつが望む生活が送れなくなったら……その時は」
ズキズキと、血液が巡るたびに全身が痛む。トニアはミハウに釘を撃たれたかのように目が離せずに彼を瞳に映し続ける。
「俺は君のことを決して許すことはない」
彼の誓いの言葉は、その日からトニアの心を真綿のように絞めつけ始めた。
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