21 夢のしるし

 部屋の明かりをつけ、そのままベッドに向かって力が抜けたように倒れ込む。部屋を貸してくれた大家さんのお下がりで、ソグラツィオに来た初日からトニアの相棒となった少し小さめのベッド。トニアは枕に顔をうずめ、行き場のない喜びを込めてカバーをきゅっと握りしめた。

 まだ興奮が冷め止まない。

 さっきまで憧れの古城が目の前にあっただなんて。


「夢……あ、そっか、夢……かな?」


 ふふふふ、と不格好に笑いながら、彼女は自分の手の甲に爪を立てる。


「はははっ夢じゃない……っ」


 爪の後がくっきりと赤く掘られた可哀想な手の甲を見てトニアは歓喜の声を上げた。


「信じられない……! まだ信じられないよ……!」


 ばたばたと足を水の中を進むようにばたつかせ、緩み切った頬が落ちてしまわないように両手で抑え込んだ。

 勢いよくベッドから立ち上がると、鞄に入っているメモを素早く取り出し、書き連ねた素材の質感や木組みの気づきなどを読み返す。

 ネルフェットが今回だけ特別だと言っていたから、レポートとして提出できないのが残念だ。トニアはベッドに座り込み、そこに古城があるかのように手を伸ばし、触れることはできなかった壁の表面を空想で蘇らせ、妄想で触れてみる。


「ああ……! なんてすばらしい……!」


 夢見心地で瞼を閉じると、何もない虚空を彷徨うトニアの手はうっとりと空気を掴んだ。

 お礼をするために職権を乱用するなんてあまり褒められたものではない。トニアはどちらかというとそういう考えを持っていた。それでも今回のことはやはり責められない。自分のこととなると、どうしても甘くなってしまうのは大目に見てもいいだろうか。

 トニアはパンくずほどの罪悪感を胸にこぼしたまま、うんうんと自分に対して言い聞かせる。

 瞼を開け、思いのほか窓の外が明るいことに気づいたトニアはカーテンを閉めていなかったことを思い出す。

 窓辺に寄り、夜空に瞬く星はどこまで続いているのだろうかと、その果てを探してじーっと見上げた。

 そうしていると、焦点はいつの間にか窓ガラスに映った自分の赤い頬に移ろっていく。まだ興奮が治まらないのだから、熱を持っているのも当然か。

 トニアは少し頬を冷まそうと窓を開ける。涼やかな風が部屋に入り込み、温度のギャップに頬がびっくりしていることも伝わるが、彼女はそのまま窓辺に腕を乗せてしばしの夜風に浸ることにした。


「……ネルフェット、もう寝たかなぁ?」


 駅から家までタクシーを呼んで送ってくれたネルフェット。別れ際、彼の表情が妙にぼやけていてぎこちなかったのは気のせいだろうか。きっと、ボートに乗ったりして疲れたのだろう。

 トニアは最後に見た彼の帽子の下の瞳を思い返し、緩やかに微笑んだ。

 古城を見れたことも最高だった。けれどそれと同じくらい、彼と正式に友だちになれたことが嬉しかったことにトニアは気づいていた。

 正式に、というのもおかしな話で、これまでの学院生活でもそんなことを意識したこともなかったのに。ただネルフェットはトニアにとって特別だった。

 出会いこそは良くなかったかもしれない。王子だという立場を抜きにしても、一方的に秘密条約を結ばされた上に警戒され、信用をしてもらえなかった日々。そんな彼と、やっと名のある関係を得た。


 彼に対する好意も、今はそのことに満足して息をひそめている。むしろ、今の関係にスッキリしているかもしれないとまで思えるほどに。幼いころから拗らせた願望にはやはり敵わない。トニアは古城で得た夢への想いを昂らせ、あちこちに飛び散ってしまった心を統一することができた。

 運動神経が悪いと言っていたネルフェットの剥き出しになった気恥ずかしそうな表情。トニアはそのことを思い出し、くすっと吹き出す。

 彼は秘密だと言っていたが、今度はトニアへの口止めは求めなかった。もちろん、トニアも誰かに言いふらすつもりなどはない。

 ネルフェットはきっとそれを分かってくれた。それこそ”友だち”として。

 もう一度空を見上げ、トニアの表情は星の輝きに共鳴するように明るくなっていく。

 明日から、また友だちと過ごす学院が楽しみだ。



 チチチチチ……。

 小鳥の声が窓の向こうから曇った音で聞こえてくる。


「うー……ん……」


 ごろんと寝返りを打ち、トニアはまだ目覚めたくない瞼をごしごしとこすった。

 サイドテーブルに置いてある目覚まし時計はまだ鳴っていない。時間よりも早く目が覚めそうなのは良いことなのか、名残惜しいのか。眠気と葛藤しながら彼女の脳内ではささやかな討論が繰り広げられた。


「あと……少し…………」


 結果、眠気に軍配が上がったようだ。

 あとどのくらいの猶予があるのか、今の時刻を確認しようとトニアは目覚まし時計に手を伸ばす。なかなか届かず、トニアの右手は空中を踊る。

 瞼を閉じたままの探し物は諦め、ぼやけた視界でトニアはサイドテーブルを確認した。丸い形をした時計がちょこんとこちらを向いているのが見える。


「ん……見えない……何時?」


 身体を起こすことだけは拒み続け、トニアは腕を可能な限り伸ばして時計を掴もうとする。

 まだ身体も寝ぼけているようで、思うように動かない。夢の続きを堪能したい欲求と、時間を見たい意識の板挟みになり、トニアは眉をしかめてもう少し大きく目を開いた。

 自分の右腕が情けなく空気を回しているのが見える。トニアは勢いをつけるためによいしょと腕を振りかぶった。


「……ん?」


 一度視界から消えて戻ってきた腕に違和感を覚えた彼女の動きがはたと止まる。

 見間違えかもしれないと、もう一度その腕をよく見てみた。

 しかし手首の内側に浮かぶぼんやりとした赤い塊は、何度確認しようと変わることはない。


「え……?」


 ごしごしと、反対の手でその赤い塊をこすってみる。昨日は喜びのあまり精神が昂っていたはず。寝ぼけて自分に落書きをしたのかもしれない。そう思ったのだ。

 しかし、赤い塊はサインペンで描かれたものでもないようだった。


「えっ!?」


 昨日までは何もなかった自分の右手首。寝ている間に打ったのだろうか。トニアは自分が恐ろしくなって勢いよく上半身を起こした。

 徐々に輪郭がはっきりとしてくる視界の中で、彼女は自分の手首をまじまじと見つめる。

 よく見てみると、それは打ち身でも適当に描いたものでも、ましてや血管でもなかった。

 緻密に描かれた幾何学模様。何を表しているのかはトニアには判断できなかった。ただ、大局的に見てみると、いくつかの雪の結晶が描かれているようにも見える。


「何……これ……」


 すっかり夢気分は消えたトニアの顔からは、さーっと血の気が引いていく。青くなった唇は微かに震え、額には汗が滲んだ。


「嘘でしょ…………?」


 彼女にはまったく心当たりがないわけではなかった。

 脳裏に浮かぶのは昨日見た古城。もしやそこへ行ったのが原因か。

 転がるように慌ててベッドを降りたトニアは、マニトーアから持ってきたまま箱に入れっぱなしになっていた本を取り出す。

 ぱらぱらとページをめくり、幾度となく読んだことがすぐわかる、その部分だけページが千切れそうになっている箇所を開く。


「あった……! これだ」


 運命の赤い紋様。

 幼いトニアの心をわしづかみにし、成長した今でも心を切なくさせる物語。

 そこに描かれた挿絵と自分の右腕を見比べてみる。模様こそ違うものの、その様子はまさに紙の中の世界を再現していた。


「…………運命の……」


 呼吸が浅く、速まる。心臓が、どくどくと恐ろしいほどに音を立てているのが分かり、彼女はごくりとつばを飲み込んだ。

 頭は真っ白になりかけている。

 思考が停止していく中で、トニアの心に収めた宝箱の鍵は開き、幼心に得たときめきが蘇っていく。


「伝説じゃ……なかったんだ」


 憧れの古城。

 夢の物語。

 トニアの情緒は、もう制御という言葉を忘れてしまったようだった。


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