22 朝の光景

 とにかく学院に行かなくては。

 トニアはいつものように支度をして、長めの袖の服を着て家を出た。重い荷物を持っても何も感じないほどに、彼女の足元はたどたどしく浮ついている。

 街に出て人の声を耳に入れても、何も情報が入ってこない。トニアは悶々としたまま石畳の地面だけを見て前に進んだ。


「すみません」


 そこに、妙に通りのいい声が多くの人が行き交う朝市の果物売り場から聞こえてくる。トニアも思わず彼の声に誘われて顔を上げ、その方向に目をやった。


「おおー! いらっしゃい!」


 威勢のいい声が迎えると、陽気な笑顔で笑いかけてくる壮年の男性に彼はお金を手渡す。果物を買うふわふわとした後頭部は、陽の光を浴びて爽やかな朝を体現しているように見えた。

 トニアはどこかで見たその姿に足を止め、彼らのやり取りに目を奪われる。


「んじゃ、またよろしく! 今度の歌も聞くの楽しみにしてるからなァ!」

「ありがとうございます」


 購入した果物を受け取り流れるように会釈をした彼は踵を返してその場を去ろうとする。「あっ」と、思わずトニアの口から声が漏れた。

 ちらりとこちらを流し目で見たような彼の横顔。確かにトニアは彼を前に見たことがあった。そう、ピエレットとネルフェットに招かれて行った宮殿で。

 颯爽と去って行く彼の背中を呼び止めることもなく見つめていると、ふと紙袋からリンゴを取り出そうとする彼の手元に視線が吸い込まれていった。


「……あぁっ!」


 声にならない悲鳴が聞こえ、周りの人たちは奇妙な声にきょろきょろと辺りを見回す。しかしその声の主のトニアはたったいま目にした衝撃によって反射的に両手で頭を抱え、ぱくぱくと魚のように口を動かしたまま何も喋らない。


「ミハウ……さん……?」


 人波に消えてしまったミハウの残像が瞳に焼き付き、トニアは目を逸らすどころか瞬きすらできなかった。

 それも致し方ないことだろう。

 垣間見えた彼の左手首。見間違えようがないほどはっきりと、そこには赤い紋様が描かれていたのだから。




 学院に着いたトニアは、講義に向かうこともなくカフェテリアに直行した。まだ朝は早い上に、この時間に学院に来ている者は皆、時間を持て余すこともなく講義を受けているだろう。周りはがらんとしていて、準備をするスタッフの姿すらなかった。

 どさりと鞄を机に乗せると、トニアは力なく椅子に座り込む。しんとした空間で、彼女は真っ白な木目に落ちるように項垂れる。このままだと顔が沈んでしまいそうだ。どうにか両手で額を支え、放心状態のまま頭の中を整理し始めた。

 この右手首の紋様。確かにこれは、あの運命の赤い紋様なのだろう。タトゥーのようにはっきりと刻まれた印をちらりと見やり、トニアの体温は下がっていく。逸話を見て夢を抱いた出来事がいざ自分に降りかかると、こうも不安を覚えるものなのか。

 虚ろな瞳は現実と幻想の狭間で迷路に迷い込んでしまった。


 自身の問題だけであればまだ良かった。しかし朝市で見たミハウの左手首。これが続けてトニアの頭を悩ませる。ひょっとしたらこの国ではあの逸話は真実で、密かに風習が続いていたのかもしれない。

 ミハウの妙に落ち着いた表情を思い出し、トニアは眉をひそめる。紋様がいつ彼の手首に現れたのかは分からない。それでも前に彼を見た時には何もなかったはずだ。

 自分が知らないだけで、実はそんなに身構える必要はないのだろうか。

 自分はマニトーアの出身ではあるものの、古城に行ったことで不思議な影響を受けてしまったのかもしれない。隠され続けて人目を阻んできた古城には、何か神秘の力があるのかも。

 気づけばトニアの顔は上がり、顎に人差し指を添えて考察を始めていた。

 ミハウの紋様が同じものだったのかまでは見えなかった。けれど、もし同じものだとしたら……。


 トニアの頬は仄かに赤づき、強張っていた唇の力が抜け小さく開く。

 一度しか会ったことがない彼の微笑みが記憶に蘇り、トニアは身勝手な空想を誰かに見られている罪悪感を抱いて慌てて辺りを見回した。

 彼のことはよく知らない。声楽家で、王宮に勤めていて、ネルフェットの友人であること以外は。

 いや、他にも何か大切なことを忘れているような気がする。トニアは綱渡りのようにぐらぐらと揺れる心が気持ち悪くて顔をしかめた。

 ちょうどその時、彼女の瞳に風になびく美しい稲穂の束が映り込んだ。


「ピエレット……!」


 勢いのままに立ち上がり、椅子の驚いた音がカフェテリアに響く。


「トニア? どうしたのそんな顔して。あ、というか講義は?」


 カフェテリアに入ってきたのは髪をポニーテールにしたピエレットだった。

 これから朝食をとるのだろう。手には学院近くで買ったばかりのパンを持っている。

 ピエレットは大袈裟に声を上げたトニアのことをぽかんとした目で見た後で、くすくすと遠慮なく笑った。友人の変わらぬ姿に、トニアの張りつめた情は一気に緩んでいく。


「ぴえれっとぉおぉお」


 今にも泣きだしそうな声で自分に縋りつくトニアを、ピエレットはお姉さんのようにどうどう、と慰める。何があったのかは把握できないが、友人が生活を削ってでも取り組む講義をサボるほどに悩んでいるのは確実だ。


「何があったの?」


 ピエレットは彼女が弱気になってしまわないように、頼もしい笑みを向けて隣の席に座った。

 ミハウはピエレットとも知り合いだったはずだ。職種は違うけれど職場は同じ。おまけに彼女の得意分野は文化の歴史。そこには当然、逸話でおなじみの不思議な力も研究の一つとして入っている。

 トニアは怒涛の展開ですっかり忘れていた信頼できる友人の登場に、重荷が少し軽くなったような気分になれた。

 飛び出てしまった目尻の涙をぬぐい、トニアは袖で隠した手首をピエレットにこっそりと見せる。


「えっ? 何これ。トニア、タトゥー入れたの?」


 ピエレットはパンをかじる前に、感心したようにトニアの露わになった紋様に目を向けた。


「ううん。違うの。朝起きたらこうなってたの」

「……は?」


 彼女の反応は正しいだろう。トニアもそれは認めるしかなかった。もし自分が反対の立場だとしたら、恐らく同じ反応をする。一体彼女は何を言っているのだろう、と。


「え? なに? 落書きが消えないの? トニア、酔ってたの?」


 耳が遠いわけでもないのに、ピエレットは執拗に耳をトニアに近づけて質問を重ねる。


「違う違う! 酔ってないよ! 昨日はちゃんと、普通に寝て……それで、起きたら……」

「これが描いてあったの?」

「うん……」


 紋様を指差すピエレットの冷静な表情に、自分は頭がおかしい人間だと思われていないかトニアは心配になった。研究をしているとはいえ、あくまで迷信の領域を出ない神秘の世界。

 ピエレットは研究者として猪突猛進に突き進むだけではなく、しっかりと現実を見ることも忘れてはいない。


「変なの……。そんなこと、ある?」

「分かんない……でも、ほら、目の前にはこれが……」

「うぅううぅうん」


 喉を鳴らすような唸り声とともにピエレットは腕を組んでまじまじと紋様を観察し始める。


「確かに、ペンじゃないし、タトゥーともまた違うね。もう、身体に染みついちゃってる感じ」

「でしょう? どうしてだと思う……? 不法侵入でもされたのかな」

「だとしたら、多分、こそばゆいか痛いだろうし、時間もかかる。すごく正確に描かれてるし。……それで起きないトニアも怖いけど」

「はは……だよね」


 ピエレットの冷静な状況分析にトニアは渇いた笑みしか出なかった。そんなことは不可能なのは分かっている。けれど、第三者でないというのならば何なのだろうか。トニアは恐怖と不安が入り混じった心が怯えているのを表情で隠すことはできなかった。

 彼女の暗い表情を見たピエレットは、そっと紋様を手で隠して撫でる。


「大丈夫だよトニア。私がちゃんと調査するから」

「……本当?」

「うん。当たり前じゃない。不可思議な分野は私の仕事でもあるし、友だちのためならやる気しか出ないよ」

「ピエレット……!」


 ありがとう、と、詰まってしまって声にならない感謝を表し、トニアはピエレットに抱きついた。


「はははは。あ、でもさ、これ似てるね」

「なにに?」


 ぎゅっとピエレットを抱きしめたまま、トニアは彼女の見解に興味を抱く。


「運命の赤い紋様。それにそっくり」


 ぱっとピエレットから離れ、トニアは興奮したような息遣いで彼女と目を合わせる。


「や、やっぱり……そう思う?」

「うん。トニアも知ってるんだね、あの逸話。もしかして、本当に紋様の縁って存在するのかな」


 ピエレットの瞳が猟奇的に光った。ついに彼女の好奇心を焚きつけてしまっただろうか。トニアは頼もしくもちょっぴり暴走しそうな友人の研究者の顔に力なく笑みを返す。

 しかもトニアには心当たりがあるのだ。ある種専門家であるピエレットに認められれば、それは真実になるやもしれない。トニアはまだ少し真実を知る勇気が持てなかった。


「はは……もし、そうなら……すごく、興味深いね」

「うん! そうしたら、ようやく煙たがられてたわたしの研究が日の目を見るかも」


 ピエレットは研究室で自分の世界に入りがちなことを同僚から仲が良いゆえにからかわれることもあるようだ。不可思議な研究には孤独がつきものなのかと、トニアは未知の業界に生きる彼女の開いた瞳孔を敬うように見る。


「あ、でもトニアの大事な話だから、舞い上がっちゃだめだよね」

「……え?」


 急に真面目な表情に切り替わるピエレットの意味深な声にトニアは首を傾げた。


「だって運命の赤い紋様だとしたら、トニアの運命の人が、もういるってことだもんね」

「……!」


 ピエレットが言い放った現実に、トニアは異常なほどに反応して頬を紅潮させる。

 その言葉はトニアには今、刺激的だ。

 脳裏にはミハウの悠然とした後ろ姿が浮かび、彼女の心の扉を容赦なく叩く。


「んー、まぁ、まだ仮定の話、だけどねっ」


 ピエレットの明るい笑顔が眩しい。トニアはこくこくと無言で頷き、自分の昂る感情を落ち着けた。


「ちゃんと調べてみよっか」

「うん……! お願いします!」


 トニアがピエレットに懇願をしていると、まだ人のいないカフェテリアにもう一人の足音が響く。


「あ、おはようネルフェット」


 ピエレットは、二人のもとに近づいてきた彼に対して爽やかな朝の挨拶をする。その名前にトニアの心臓はぎくりと逃げようとした。


「おはよう。二人とも朝早いんだな」

「いや、普通でしょ」


 ピエレットは頬杖をついてネルフェットのことを視線で小突くようにして見る。


「トニア」

「は、はい!」


 まるで初めて会った頃のように、トニアは硬い声で返事をしてしまった。ネルフェットの瞳に些細な疑問が浮かんだのも見えたが、トニアは誤魔化すようにして「おはよう」と改めて笑う。

 友だちになれた彼に会うのが楽しみにしていた。けれど妙な後ろめたさを感じたのが本音だった。彼への想いは色を変えたはずなのに。トニアは咄嗟に右手首を隠している自分に気づく。


「ネルフェット」

「何だ?」


 ピエレットはトニアを見て難しい顔をしているネルフェットに声をかける。


「今日、トニアを宮殿に連れていってもいい?」

「え? また?」


 ネルフェットは反射的に眉をしかめた。


「うん。ちょっと調べたくて」

「何をだよ」


 リリオラのいる宮殿にあまり頻繁にトニアを連れていきたくはない。ネルフェットはそんな本心を抑えながらピエレットの要求の意図を探る。


「えっと……」


 自ら話すことを躊躇っているピエレットは、トニアの表情を窺うようにちらちらと困ったように見る。トニアはその視線の意味をくみ取り、意を決して袖をまくった。


「これ……」

「え?」


 目の前に露わになったトニアの右手首。ネルフェットは彼女の腕の内側に何が起こっているのか、一瞬判断がつかなかった。いや、判断を拒んだのかもしれない。


「今朝、紋様が出たの。だから、ピエレットが調べてくれるって……」


 ネルフェットの目を見るのが怖くなり、トニアは伏し目がちにただただ腕を見せる。


「これ……って……。え……?」


 だから彼がどんな顔をしていたのかなんて彼女は知る由もなかった。唯一それを見ていたピエレットは、頬杖に預けた顔をふと浮かす。

 外ではいつも冷静で、怯えることを知らない彼の瞳が微かに震えているのが分かる。強張る頬には動揺が走り、トニアの紋様を瞬きもせずに穴が開きそうなほど力強く瞳に映していた。


「今朝……?」


 表情に油断が出ても、声には真っ直ぐに芯を通し、トニアの耳には普段通りの彼が伝わる。


「うん。……自分で描いたんじゃ、ないからね」

「分かってる……」


 伏せられたままの彼女の顔を気遣うように見るネルフェットのポケットに隠した手には、じんわりと汗が滲み、指先まで冷たくなっていく。


「ピエレット。今日は駄目だ」

「え? なんで?」

「……ちょっと、ばたばたするから」

「うーん。そっか。分かった。しょうがないね。ごめんねトニア……すぐに見てあげられなくて……」

「ううん。いいの。気にしないで。ごめん、迷惑かけて」


 残念そうな顔をしているピエレットに、トニアはにこりと笑いかける。ピエレットが落ち込む必要はないはずだ。トニアはピエレットに返事をした後で、ネルフェットのことを見上げる。


「ネルフェットもごめんね。忙しいのに、何度も迷惑かけちゃって」

「……いや、こっちこそ悪い」


 彼女の気丈に振舞う心苦しそうな表情を見て、ネルフェットの胸にはどすんと大きな鉛の塊がのしかかった。彼女に気負わせるようなことはしたくない。彼の心の中には暗く冷たい雨が降ってくる。

 それなのに、同時に急き立てる鼓動が全身の脈を強く打ちつけ、彼の口は続く言葉が発せない。

 彼の記憶に従えば、彼女に伝えなければならないことがあるはずだ。

 ネルフェットはポケットの中でこぶしを握り、こみ上げてくる焦りから自分を抑え込もうとする。


 今朝、彼は全く同じ現象に遭遇した。

 でもそれはきっと、寝ぼけていただけだ。そう思いたいがために、しかとこの目で確認しなければならない。


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