20 黒銀城

 宮殿の廊下は明かりを落とし、珍しく艶やかなその色すら静まり返っている。

 ベッテは階段を上がり、さらに奥の部屋へと向かう。歩くたびに生じる微かな風が燭台の灯を揺らし、彼女の影も躍るようになびいた。


「失礼します」


 コンコン。扉を叩くと同時に断りを述べる。彼女を招き入れるように扉は内側に開き、ベッテは部屋の中央を見据えて足を踏み入れた。充満したスズランの香りが鼻を通り、ベッテの呼吸は浅くなる。赤紫色の絨毯を踏み抜くと、待ち構えていた部屋の主が執務席から立ち上がった。


「ベッテ、報告って何かしら?」


 主の麗しい唇が笑みを彩り、羽のついた扇子を扇ぎながら扉を閉めるベッテを見やる。


「リリオラ様、お忙しいところお邪魔いたします」


 折り目正しく礼をするベッテ。リリオラは彼女をあやすように目元を緩ませた。


「いいのよ。もちろん、価値のある有益な時間になると信じているわ」

「はい。それは保証いたします」


 リリオラの見下すような視線にも折れぬ強靭な眼差しは、嘘をついていないことの表れだ。リリオラは扇子を畳み、ぴしゃりと音を立てる。ベッテはその合図に口を開く。


「今晩、ネルフェット様は外出されています」

「……はぁ?」


 ベッテの淡々と床を這うような報告にリリオラは思いきり顔をしかめた。


「もう外での単独行動の時間は過ぎているわ。誰か護衛が出ていたかしら?」


 頭の中で今日の皆の予定を思い返し、リリオラは該当者がいないことを改めて確認する。


「護衛はいません。お一人で、宮殿を出られましたから」

「……どういうこと? 見張りは何をしているのよ」

「東門のラクトルは、先日婚姻をしたばかりとか。いつもより長い休暇も欲しくなるでしょうね」

「…………なんということ。呆れたわ。休みも十分に与えているじゃない。恩知らずね」


 扇子を握りしめる彼女の手の甲に細い血管が浮き上がるのをベッテは黙って見ていた。


「それで? ネルフェットはどこへ?」

「定かではありませんが、恐らく……あの例の娘と一緒にいるのでは、と」


 ベッテの見解にリリオラの機嫌は悪化の一途をたどっていく。


「何故? どうしてそう思うの?」

「これを」


 からからと音を立て、ベッテは抱えていた本のある箇所を開いて見せる。


「黒銀城。立ち入り禁止ですが、ネルフェット様であれば許可は下りるでしょう」


 ぐいっと身体をしなやかに折り曲げ、リリオラはベッテが開いたページをまじまじと読み込む。


「この物語の舞台は黒銀城です。関係者の間でそう呼ばれているだけで正式な名はなく、話の中では古城、と呼ばれていますが。このページに栞が挟んでありました。ミハウに尋ねたところ、確かにネルフェット様が読まれていたものです。こんな夜中に隠れるようにしてまで王子が行く場所など、他にありませんから」

「…………貴女の見解は理解したわ。でも、私が聞いているのはそうじゃない」

「と、言いますと?」

「馬鹿のふりはやめなさい。分かっているでしょう? 何故、ネルフェットがルールを破る危険を冒してまでそこへ行くの」


 ベッテを試すように微笑むリリオラの表情にはまだ余裕が残っていた。ベッテは本を開いたまま、彼女が望むたった一つの模範解答を答える。


「彼女のためです」


 はっきりと言い放ったベッテの声に続いて、リリオラの手元でバキッと何かが折れる音がする。

 わなわなと静かに震える彼女の手元には粉々になった木くずが降りかかっていた。扇子の羽は萎れ、悲しそうに首を垂れている。


「彼女? それって……まさか、あの……」

「はい。マニトーアの娘です」


 パタン、とベッテは本を閉じた。リリオラの表情からは怒りが隠しきれず、みるみるうちに紅潮していく。ベッテは刻々と流れる時の音に耳を傾け、彼女の姿を見守っている。


「トニア・マビリオ。彼女の名前です。ネルフェット様は、彼女に好意を抱いているのでしょう」

「許可していないわ」


 リリオラの香りのない声が扇子の羽とともに床に落ちる。


「……え」

「貴女が話すことを、許可していないでしょう!」

「……申し訳ありません」


 勝手な見解を述べ続けたことで、彼女の機嫌を最大限に損ねてしまったようだ。ベッテは目を伏せ、小さくお辞儀をする。リリオラはこみ上げてくる怒りに身を任せたまま、ずんずんと部屋の奥まで進んで行く。

 ちらりと顔を上げたベッテの目には、執務机に寄りかかり、念仏のようにぶつぶつと独り言を呟いているリリオラの華奢な背中が映る。


「……いいわ。続けて」


 五分経った頃、リリオラが息を整えて背を向けたまま赦しを与える。


「はい。ネルフェット様は、衛兵に休暇という賄賂を渡して宮殿を抜け出しました。事前に古城見学の許可を得ていたのでしょう。建築の勉強をするトニアのために。あの城は、その業界からは評価も高く、注目されていますからね。皆、一度は目にしてみたいとか……。トニアも例外ではないでしょう」


 ベッテは自らの確信に満ちた推測を語った。普段、逸話などには目もくれず現実ばかり見ている彼のことをベッテはよく知っている。長年の友人であるミハウもそれは承知だ。ネルフェットの幼心に宿っていた空想事への憧れは、ある時を境に消えた。真偽不明の言い伝えにも近しい寓話ばかりをまとめた本を手に取るなんてことはなかったはず。ベッテの本を抱えた腕に力が入る。

 何よりも彼女の推論を裏付けしてくれるもの。彼女は形のない証拠をしかと目に入れた。こればかりは、楽団員をまとめるためにも磨かれ続けたベッテの蜘蛛の巣のような観察眼が見つけ出したものだった。


「ネルフェット様がトニアを懇意にしていることは、明らかです」

「……まぁ」


 ベッテの弁論が終わると、リリオラは乱れた前髪をかき上げ、ふわりと振り返った。


「それは、彼の王子としての”保身”とは、また違うものかしら?」

「はい。……リリオラ様、あなたもよく分かっているはず。ネルフェット様のことは、一番」

「……そうね。ええ。言い訳するのは、みっともないわ」


 口ではそう言いながら、リリオラの唇は鋭い牙のような歯で破け、鮮血を帯びていた。


「ベッテ。その本をもう一度よく見せて」

「……? はい」


 差し出された手に本を渡し、ベッテは小首を傾げる。


「何か策でも?」

「ええ。私に対応できないことなどはないわ。トニアはマニトーアの娘。ネルフェットったら、あんなに言い聞かせたのに……まったく、困った子だこと」


 不審な笑みを浮かべ、リリオラは素早くページをめくる。古びた本が悲鳴を上げているようにベッテには見えた。


「あの娘がいけないのだわ。ネルフェットの地位に目が眩んだのかしら。まぁあの子も結局のところはまだまだ男の子なのねぇ。フフフっ。淡く甘い恋心は、そのまま灼熱に晒されて焦げ付いて崩れてしまえばいいのよ。いえ、そうなるべきものだわ。太古の昔から、そう決まっているの」


 はらりと栞が本から抜け落ち、ベッテは木の葉のように舞うそれを目で追いかける。

 儚くも床に辿り着いた紙きれを見届けたところで、リリオラが本を勢いよく机に叩き置いた。


「……消しますか?」

「いいえ、駄目よベッテ。そんな下品なこと、私たちには似合わないわ。それに、そんなことをしてみたら、親しいのならばなおのことネルフェットの不審を買うじゃない。彼は単純だけど納得できないことには用心深いのよ」


 リリオラの渇いた瞳がキラリと蠟燭の火を捉え輝いたような錯覚を誘う。


「反発されても厄介だから、彼の自由を尊重してあげたけれど、少し度が過ぎたかしらね。マニトーアの娘とのロマンスなんてお断りよ。想像するだけで寒気がするわ。あんな傲慢で、道楽的な浅ましい国の人間、信用できないわ」

「……では、どのように?」


 ベッテは栞から目を離してリリオラの視線を探る。憎悪に満ちた瞳からは、メラメラと燃える青い炎の火の粉が降りかかりそうだった。


「そうねぇ……ネルフェットが夢想家になるというのなら、私もそれを尊重するわ」

「…………?」


 とんとん、と、リリオラは机を人差し指で叩く。


「この物語のファンは、世界中にいるのよ」

「……まさか……」


 起伏のないベッテの表情にほのかに吃驚が浮かび上がってくる。リリオラの視線は冷たい心臓を弓矢で射抜くようにして彼女のことを真っ直ぐに捉えた。


「ベッテ……分かっているわよね? あなたの望みは、私が握っているのよ……? 失ってもいいの?」

「…………私が、拒否をするとでも……?」


 ベッテが挑戦的な笑みで顔を上げると、リリオラは、ふふ、と鼻で笑ったあとで優雅な微笑みで机に腰を掛けた。


「あなたが欲望をみすみす手放すはずがないわ。あなたも往生際が悪いものねぇ。……まぁいいわ。ミハウを呼んでいらっしゃい」

「…………」

「あら、嫉妬しないで? あなたにも勿論、できることはあるのだから」

「……行って参ります」


 机に座ったリリオラに深く礼をすると、ベッテはそのまま彼女の姿を見ることなく部屋を後にした。

 ミハウの部屋を目指して廊下を進むと、途中、閉め切られていない扉の隙間から煌々とした明かりが差し込んでいることに気づいた。


 音をたてないようにそっと扉に手をかけて中を覗くと、大きなソファにぐったりと倒れている物体が見える。ベッテはゆっくりと部屋の中に入り、彼の顔を覗き込んだ。

 無防備な表情で瞼を閉じたネルフェットの身体が呼吸で浮き沈みをする度に、すぅすぅと控えめな寝息が聞こえてくる。

 疲れていたのか、帰ってきてそのまま休憩する間もなく寝落ちてしまったのだろう。彼の手元から転がった形跡のある帽子を拾い、ベッテは近くの机に置きなおした。


「……風邪、引くよ」


 ソファにかかっているブランケットを手に取り、シャツのボタンをいくつか開けたまま寝ているネルフェットの身体に乗せてみる。彼は一向に目を覚ます気配はない。


「おやすみ、ネルフェット」


 ぼそりと声をかけ、むにゃむにゃと夢の世界を満喫している彼の力の抜けた寝顔から目を離した。

 扉をしっかりと閉め、ベッテは目的の場所へと急ぐ。

 思考を拒んでいるうちにその歩幅は大きくなり、彼女の表情からはまた感情が消失していった。




 新たな曲の楽譜を読み終え、ちょうど寝る支度をしていたミハウはベッテに呼ばれてリリオラの部屋へと到着した。ベッテは用件を何も言わずに、ただ黙って存在感を消したまま後ろに立っている。


「僕に、何か御用ですか?」


 執務席に座って組んだ両手に顎を乗せているリリオラにミハウは話を切り出そうとした。部屋に入ってからしばらくしても、リリオラがにこにことしたまま何も言わないからだ。


「ええ。だから呼んだのよ」

「……では、用件を」

「本当に、ミハウはせっかちね。短絡的と言った方がいいかしら? 先を急ぎすぎよ」


 勿体つけるように立ち上がったリリオラは、高いヒール底で絨毯を踏みつけながらミハウに近づき彼のテディベアのような柔な髪の毛を指先で撫で、躊躇いもなくぷつりと一本の毛を引き抜いた。


「あなたが先を急ぐのであれば、結論から教えてあげるわ。もちろん、どこから話を聞こうとあなたには拒否権があることは分かっているわよね?」

「一体何でしょうか」


 ミハウは自分の周りをくるくると歩くリリオラを横目で追いながらも凛とした声で尋ねる。


「あなたに相談があるのよ。ちょっとした、他愛もないことよ?」

「……どうやら、仕事とは関係なさそうですね」

「どう捉えるのかはあなた次第よ。でも、一つ、覚えておいた方がいいことはあるわ」


 ぴたりと動きを止めたリリオラは扉の前に大人しく控えるベッテを見やると、彼女に聞こえないようにミハウの耳に口元を寄せた。


「彼の失態を、私はいつでも世間に晒せるの」


 リリオラの囁きにミハウの眉と指先はピクリと動き、耳元から離れていくリリオラのことを警戒するような眼差しで見る。

 リリオラはミハウの視線も気にすることなく、妖艶な笑みを張り付けたまま再び彼の周りをゆったりと歩きだす。


「話を戻すわ。私から少し提案があるの。あなたにも悪い話じゃないと思うけれど」


 先程二人が近づいた時の言葉が何も聞こえなかったベッテはミハウの反応を不思議に思いながらも静かに二人の観察を続けていた。ミハウは流暢に喋り続けるリリオラの唇を眺め、徐々にその顔つきを険しくさせていく。


「…………どうかしら? ミハウ」

「……何故、そんなことを?」

「まぁ。聞いてなかったの? そんなの決まっているでしょう」


 ミハウの問いにリリオラはくすくすと可憐な笑い声をあげる。


「誰よりも、愛しいネルフェットのために」


 仮面をかぶった美しく伸びやかな声は、疑いもなくはっきりとそう断言をした。

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