12 薄明光月

 夕陽の中で彼女と目が合った時、ネルフェットはこれまでの人生で一番の危機を覚えた。陽に照らされた彼女の瞳。はっきりと認識するまで生きた心地がしなかった。

 辛うじてヴァイオリンで一曲、なんとなく弾けるようになったというのに、もうこれに触れることもできなくなってしまう。それどころか、やっとのことで見つけた自由が縛られる可能性もある。

 そんな悲しみに恐怖が募り、ネルフェットは悲痛な想いを彼女にぶつけた。感情が昂り、もしかしたら彼女のことを怖がらせてしまったかもしれない。

 あの時静かに首を縦に振った彼女の表情をネルフェットは忘れることができなかった。


「はぁ…………」


 とぼとぼと細い階段を下り、いつもの場所に向かう。

 まさか彼女がピエレットと友人だったとは。思いがけない王宮への誘いに精神が疲弊したネルフェットは、心のほつれを直さないままに日々を迎え入れていた。

 すると背後から足音が聞こえ、ぼんやりしたまま振り返る。同時に、何か重たいものが落ちた鈍い音が続いた。あの日のように彼女がそこに立っている。今度は、いつも持っている兵器のような鞄を地面に落としたまま。


「屋敷を見に来たのか?」


 こんなに資料を持ち歩いて、すべて見る時間などあるのだろうか。そんな疑問が浮かびながらも彼はトニアの鞄を拾い上げる。

 彼女の表情は、未知のものを見る動物のような顔をしていて、それが少し可笑しかった。


「重……。トニア、こんなの持ち歩いてんの?」


 頭に残っている彼女の表情を思い返し、自分を見て固まっている彼女に申し訳なくなったネルフェットは罪悪感を紛らわすように笑う。

 鞄を受け取った彼女が屋敷の見学を控えようとするので、ネルフェットはこれ以上の遠慮を嫌って鍵を出す。

 この屋敷の使用権は学院側から特別に貰っている。国民にも評判の王子の申し出に、そこで何をするのか詳しく聞く者もいなかった。人が寄り付かないように屋敷にまつわる怖い噂話も流し、どうにか自分だけの秘密基地を築き上げた。だからトニアがやってきた時は、その嘘のバツとして精霊が現れたのかとあり得ないことを錯覚した。それほどまでに焦燥していたのだ。


 屋敷に入ると、見慣れた朽ちた壁に彼女の興味が刺激されているのが分かる。労わるように壁を撫でた彼女の瞳孔が開いた。恐らく彼女は感激しているのだろう。そんなトニアの姿を見たネルフェットの首は、知らず知らずのうちに彼女がこの先に進むことを承諾する。

 大事な楽器を隠しているこの場所だけは、定期的に部屋の掃除をしている。ネルフェットは彼女の問いをはぐらかし、屋敷観察のちょっとした遊び心を与えた。疑問に答えづらくて、頭に浮かんだ”部屋の探索”に関する話題がそれだけだったからだ。幼いころに教えてもらった、ネルフェットにとってはじめてのおまじないだった。


 余計なことを話したかもしれないと後悔してしまう前に、彼は慣れた手つきで作業を始めた。

 部屋を出て行った彼女の靴を見送り、ネルフェットの手はしばし止まる。

 マニトーアから来た彼女に対して、王宮に招いてしばらくたった今もどうしたらいいのか分からない。

 彼女が抱えている当然の疑問を解消する覚悟がネルフェットにはまだ持てなかった。

 三十分ほど掃除をした後で、ネルフェットはヴァイオリンのケースを見やる。今日も練習していいのだろうか。でも、屋敷には彼女もいる。きっと音が聞こえてしまう。


 ネルフェットは楽器から目を離し、静かな外へと足を向ける。屋敷内に聞こえる彼女の足音に、彼の身体に通った一本の芯がぐらぐらとしてしまうからだった。

 外は少しずつ暗くなってきていて、ネルフェットは新鮮な空気を鼻で吸い込み、入り口の階段に腰を掛けた。

 ネルフェットが楽器を始めたのは、自分にリズム感がないことを思い知ってからだった。王子として生まれた彼は、幼いころから様々な礼儀作法を叩きこまれ、すべての所作をそつなくこなす必要があった。

 何よりも、ネルフェットが生まれてすぐに前任者から役割を引き継いだというお世話役のリリオラが、彼に完璧を求め続けた。ネルフェットもその教育熱心な意欲に応えるべく、背伸びを続け、父や母の背中を追いかけた。


 問題に気付いたのは、ダンスの練習をしている時だった。

 社交界では避けることのできない必修科目。当然、優雅で、それでいて大胆で、人々を惹きつける華やかなダンスを披露しなければならない。

 それなのにネルフェットは、三度目の練習であることを悟る。自分には、壊滅的にリズム感がない。

 足はもつれ、拍子は外れ、パートナー役をしてくれた女の子には容赦なく軽蔑にも似た眼差しを向けられる。

 一人で踊ろうにも、イメージした通りに身体が動かない。

 そこでネルフェットはもう一つの発見に気づく。


 そもそも、自分は運動神経が乏しい。ないリズム感に加えて鈍感な身体に、ネルフェットはひどく落ち込んだ。

 ただ、落ち込んでいるだけでは始まらない。できない、は許されないのだ。きっとリリオラに叱られ、両親もがっかりしてしまう。ネルフェットはどうにか自分を鼓舞し、一人こっそりと練習することが日課となった。


 そんな時に、彼の耳に届いたのが神の恵みと称されるミハウの歌声だった。

 ミハウが所属する少年合唱団が王宮を訪れ、王妃の誕生日を祝うべくコンサートを開いた。噂に聞いていた以上の天まで橋が架かりそうなほど透き通る歌声に、ネルフェットは救いを求めた。

 国王である父にお願いをしたネルフェットは、父にとっても馴染みが深かったこともあり、ミハウと同じ合唱団に参加することになった。

 そこで音楽の基礎を身につけたネルフェットは、伴奏のピアストエにも興味を持ち、身体にリズムを叩きこむことができる楽器の演奏にも手を出した。


 ソグラツィオ産の楽器は他国と比べると歴史は浅く、楽譜も独特なものだった。世界で使われている有名な楽器をたくさん抱えていて、曲も充実している音楽大国と言えばやはりマニトーアだったが、リリオラがいい顔をしない以上、ネルフェットには選択肢はなかった。そもそも自身の地位を駆使しようにも、彼女の管轄である王宮でマニトーアの音楽を奏でることは自殺行為に近い。

 最初のうちは、ネルフェットはそれでも満足だった。歌とはまた違った刺激を受け、ネルフェットのリズム感は徐々に向上していく。

 歌も、合唱団で熱心に練習したおかげで随分と歌えるようになった。それでもミハウには到底敵わず、ネルフェットは彼の歌声に敬意を表しつつも、自分は声変わりと共に楽器の世界へと傾倒するようになる。


 苦手は克服しつつはあるものの、まだダンスとなるとたくさんの練習を積まなければ人前に出るのを躊躇ってしまう。直球に言ってしまえば下手、と言い切れる。運動神経も、皆に分からないように工夫しているだけで、格段に良くなったというわけではない。

 あらゆることがままならないままマンネリ化してきた練習に、ネルフェットは気分を変えてみようとついにマニトーア産の楽器を手に取るようになった。


 ソグラツィオは外交的にはマニトーアとは淡々とした関係を築いているが、最低限の交流しかしていない。中でも文化、特に音楽に関しては規制が多い。これは過去の二国の因縁の影響を濃く受けているもので、マニトーアが観光という得意分野以外で国を代表とする名物としている楽器や楽曲の輸入は一握りの専門家であっても滅多なことがないと許可が得られず、禁じられている。

 その歪な暗黙の了解がいつから始まったものか定かではないが、恐らく、それはソグラツィオの長らく受け継がれてきた意地だった。


 ネルフェットは、外遊の際の伝手で廃棄されてしまう貴重な楽器をどうにか手に入れ、こっそりと練習に励んだ。

 ソグラツィオにはない音色にネルフェットは純粋に感動し、夢中になった。新たな刺激は、窮屈な生活にわずかながらも潤いを与えてくれたのだ。

 そんな秘密をトニアに知られた。しかも彼女はマニトーア出身。国内ではあまり流通していない楽器にそこまで驚かないので、ある意味で都合はいいのかもしれないが。


 ネルフェットはちらつき始めた星を見上げる。この星も、マニトーアから見るのと同じ形をしているはずだ。

 彼は熱心な教育係のリリオラから、ソグラツィオとマニトーアの悲劇の歴史を嫌というほど学んだ。

 国を率いる者として、そして国の代表として、肝に銘じておかなければならないと。


 マニトーアはかつて、同盟国であったソグラツィオを裏切ったとされ、その友好な歴史に血を流した。

 ともにしていた資源は奪われ、ソグラツィオは一時的にすべてを失くした。

 彼らとの決別はその後のソグラツィオ国内にも大きな波紋を広げ、当時の政治家たちは派閥に割れ、内戦も起きた。その歴史を繰り返さないためにも、ソグラツィオは強固な国づくりを進め、国際的な地位を上げることに尽力したのだ。


 マニトーアは陽気な観光国家で、人々にとっては素晴らしい場所かもしれない。

 けれどネルフェットにとっては、未だに脅威を感じる存在だった。なかなかにいい印象はなく、トニアが名乗り出た時には心臓に銃弾が撃ち込まれたような衝撃を受けた。彼女に背後からいつか刺されるかもなんて、今となっては馬鹿らしいことを恐れるほどに。

 ただでさえ知られたくないことを彼女が知って、一体どうなるのか。本当に秘密を守ってくれるのだろうか。彼女にそんな義理などないはずだ。そもそも他国の人間。国の王子だとか、そんなこと彼女には関係ないだろう。


 ネルフェットは膝を抱えて項垂れる。

 彼女はマニトーアの人間だ。確かに、十分に信用することはできない。

 けれど、王宮で見せたあの真剣な眼差し。カフェテリアで語ってくれたソグラツィオ建築への関心。

 あの無垢な瞳に、そんな疑いをかけていいものなのか。そもそも、ネルフェットはトニアのことを知らない。

 彼女が育ったマニトーアという国も現状も、ちゃんと見ることが出来ているのだろうか。

 ネルフェットの胸中は黒い幕がかかったように、自分でも何も見えなくなってしまった。

 彼女はソグラツィオのことを、しっかりと見てくれている。

 それに比べて自分はどうだ。彼女のことをこの期に及んでもなお疑おうとしているではないか。


「はぁ…………」


 大きなため息が出て行く。

 くしゃっと髪を乱し、ネルフェットは虚ろな瞳で目の前にある自分の袖を見やる。


「…………ガーベラって、なんだよ」


 ピエレットの言葉を繰り返し、放り投げるように言った。

 気づけば辺りはすっかり陽が沈んでいる。まだトニアは出てきそうにない。


「威勢のいい奴……」


 ネルフェットは柱に頭を預け、もう一度彼女の輝いた瞳を思い返した。

 そこに、ばたばたという今にもこけそうな足音がこちらに向かってくる。ネルフェットは姿勢を正し、彼女が姿を現すのを待った。


「あ、あの……ごめんなさい。時間、かかってしまって」


 この世の終わりのような顔をしているトニアを見て、ネルフェットは立ち上がる。

 扉に鍵をかけ、ネルフェットは鍵を強く握りしめた。ごちゃごちゃと考えるよりも先に、まだ大事な言葉を言っていなかったことに気づいたのだ。

 自分の感情を優先しすぎたことを省みて、ネルフェットは緊張した声で返事をしたトニアにようやく礼儀を通した。


 もう少し、自分の目で彼女のことを見てみよう。ネルフェットの好奇心がひょっこりと顔を覗かせた。

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