11 伸るか反るか

 ポストに大きな封筒が届いているのを確認したトニアは、思わず身体を弾ませる。

 ぐるぐるに巻かれた留め糸を外し、早速開封した中身を封筒から取り出す。

 そこに描かれた言葉に、トニアは無意識のうちに頬を綻ばせた。


「ネルフェット……!」


 わざと見に来るな、と言われていたことは忘れていないが、この日トニアは空っぽの屋敷に意図してやってきた。

 ここのところ学院に来ない日もあったネルフェットを久しぶりに見つけたのは、封筒が届いてから五日が過ぎた頃だった。


「トニア?」


 苦言を呈するようなネルフェットの雰囲気にも負けることなく、トニアは駆け足でピアノの前に座る彼のもとへと行く。


「鍵が開いていたから、きっといるんだろうなぁって思って……!」


 息を切らしているトニアに、ネルフェットは鍵盤に置いた指を離す。


「どうかしたのか?」


 来てほしくなかったことは知っている。それでもトニアは一秒でも早く彼に会いたかったのだ。きっとここならいると、ネルフェットが学院に来ていると聞くや否や屋敷を目指した。


「これ、渡したくて……!」


 トニアが差し出した茶色の封筒を、ネルフェットは訝しげに受け取る。呼吸を整えているトニアを気にしながら封を開け、中にある紙の束を取り出した。


「……これって」


 紙を見るなり、警戒していたネルフェットの目は大きく開く。すぐにトニアに向かって顔をあげると、彼女は嬉しそうに笑っていた。ネルフェットに無事に渡せたことにほっとしているようだ。


「そう。ピアノの楽譜。ヴァイオリンのも入ってるよ」

「……え!?」


 ばさばさと、ネルフェットは束になっている紙のすべてに目を通す。


「実家に電話した時に、こっちでマニトーアの音楽があんまり聴けなくて寂しいから、機械はちょっと用意できないし、楽譜、ないかなって聞いてみたんだ。そしたらね、お母さんが色々用意してくれたの。送ってきてくれてね、やっと渡せた……!」


 食い入るように楽譜を見ているネルフェットの眼差しを見守る安堵の表情を浮かべたトニアは、整ったはずの鼓動が僅かに乱れた錯覚に、咄嗟にこぶしを握る。


「余計なお世話かもしれないんだけど……あの、もっと、楽しんで欲しいなって、思って……」


 ネルフェットの瞳が楽譜からトニアへと移ろうと、トニアは慌てて手を左右に振る。


「あ、べ、別にね、今が楽しんでないとか、下手だとか、そういうのじゃないよ? ただ、ただ単純にね、楽譜があった方が、いろいろ、便利かなって……」


 言い訳をするように必死になっていた彼女のことを、ネルフェットは黙って見ていた。しかし、彼女が耐え切れずに恥ずかしそうに目を逸らそうとした時、ネルフェットの鋭敏な目元があどけなく崩れ、柔らかに形を変える。


「トニア……ありがとう……!」

「……えっ」


 光が入りにくい部屋の中でも分かるほどに、彼の表情は光彩を放っているように見えた。


「う、ううん。いいの……。あの、本を貸してくれたお礼、も兼ねて……」

「そんなのいいのに。律儀なやつ」


 ネルフェットはからからと明るく言うと、自然と筋肉が弛んで笑う。


「……へ、へへへ」


 目の前に広がる笑顔に、トニアはぎこちない笑みを返す。ネルフェットの笑顔を初めて見たわけでもない。それなのに、トニアは心が落ち着かなかった。動揺して、それを悟られないように誤魔化すのが精一杯だ。

 とにかく、どうやら彼の助けになれたのだと思う。王宮に招いてくれたお礼にもなるだろうか。トニアの推測の範囲を出ることはない。それでも制約の多い日常の中、楽譜を手にすることで彼に少しでも楽しんでもらえればいい。


 トニアは彼の弾んだ声をようやく聴いたような気がした。

 ネルフェットは楽譜を置いて、初めて見る記号の流れに意識を向けた。冒険を求める探検家のような気概を見せる横顔に、トニアは僅かな息を口に含む。


 喜んでくれて、よかった。


 声には出ていかない言葉を胸にしまい込み、走ってきた時よりも胸が波打っていることに気づく。

 ネルフェットの長い指が鍵盤を一つ押さえると、トニアの鼓動はじんわりと滲んでいった。

 記憶の底から蘇った音色がその場に響く。

 郷愁に駆られただけなのか。思いがけない彼の新しい表情を発見したことに高揚しているだけなのか。

 トニアは小さく唇を結ぶ。

 ネルフェットはいくつか鍵盤を弾いてみると、口角をゆるやかに上げて楽譜を撫でた。


「うん。少し調べれば読めそう」


 独り言をつぶやいた後で、身体ごとトニアの方を向く。


「ありがとうトニア。これでまた、リズム感克服に一歩近づけそう」


 先ほどの緩やかな笑顔とは異なり、今度は騎士のように精悍な笑みを浮かべ、改まった様子でもう一度お礼を告げた。


「……うん」


 たったそれだけしか返事ができなかったのは、彼女が身体中を巡る目覚めの色を思い出したからだ。

 ネルフェットはまた楽譜に集中しはじめた。

 トニアの鼓動は彼がめくるたびに聞こえる楽譜が擦れる音に呼応する。


(そっか…………)


 睫を伏せ、トニアは困惑を隠せないままに口内を噛む。

 胸がチクチクと痛んでいく。

 彼女は、それを止める術など知らなかった。

 ネルフェットに惹かれる心に身を任せ、トニアはたどたどしい旋律に熱を上げる。



 ソファに横になり、埃をかぶっていた本を開く。

 バリバリとした感触の黄ばんだ紙をめくり、退屈な古い言葉を目で追う。

 硬い言い回しが続き、眺めているだけでも脳が読み込むことを拒否してしまいそうだった。

 今日は慣れない客人を招き、ピエレットに振り回されてしまった。疲労が睡魔となって襲ってくる。

 しかしようやく見つけた求めていた単語に、ネルフェットは眠たくなった瞳を開いた。


「ネルフェット」

「ぅわあっ!?」


 真剣に読み進めていたところで背後から静かな声が聞こえ、ネルフェットは飛び上がって体を起こす。


「……悪い」


 ネルフェットの心臓がバクバクとしていることは、その表情を見ればわかった。ミハウは驚かせてしまったことを素直に謝る。


「い、いきなり現れんな……というか、ノックしろよ」


 途中まで読んでいたページに指を挟み、ネルフェットは本を手にしたまま脱力した。


「ノック、したんだけどな」

「……え」


 そんな音が聞こえないほどに集中していたのかと我に返り、ネルフェットの表情は強張る。


「珍しいな、お前がそんな本を読んでいるなんて」

「…………別に、いいだろ」


 見られたくはなかったが、そんな要求はミハウには通用しないようだ。とっくに表紙を見られていたのだろう。ネルフェットはむっとした反応を返す。


「ソグラツィオの逸話か」

「本のことはもういいから」


 栞を挟んだネルフェットは本をソファの上に置き、傍に歩いてくるミハウを見上げて軽く叱責するような目を向ける。


「そうだな。それより、もっと珍しいこともあったしな」

「……どういう意味だよ」


 ミハウはポケットに手を入れたままクスリと笑う。


「あの子、トニアだっけ? マニトーア出身者をお前が王宮に招くなんて驚いたよ」

「……ピエレットが勝手に話を進めたんだ。学院の友だちなんだってさ」

「ふーん」


 気持ちのこもっていないミハウの相槌に、ネルフェットは気まずそうに目を逸らす。


「それに、あいつ……ソグラツィオの建築の勉強してるんだって。学習の一助になるなら、悪いことでもないし」

「なるほどね」

「は?」


 一人で勝手に納得した顔をしているミハウに対し、ネルフェットは気の抜けた声を出した。


「ネルフェットは熱心な人間に甘いんだな」


 感心しているのか、呆れているのか。ミハウは唇の端を柔らかに上げた。


「ピエレットが存分に研究できるようにって、古代文化や眉唾ものの魔法研究の許可を出して予算をあげたのも君だろ? 国王や議会にまで申し出ていただろう。そのおかげで、彼女は好きな研究にも没頭出来ているみたいだけど」

「…………」


 ネルフェットは何も言わなかった。ただ黙ってミハウを見上げ、気恥ずかしそうな目をしている。


「全く君は、人の熱意に弱いね」

「そんなことないって。それよりも、何か用事?」


 ミハウの分析が腑に落ちないまま、ネルフェットは話を切り替える。


「……いや、特には。ただ……気を付けろよ、ネルフェット。今日は誤魔化せたかもしれないけど」

「……分かってる。巻き込んで悪かった」

「俺のことは気にするな」


 ミハウはそれだけ言い残すと気が済んだのか、スタスタと部屋を出て行った。

 彼が出て行ったことを確認したネルフェットは再び本を開く。


「運命の紋様、ねぇ」


 栞を目印に開いたページに目を落としたネルフェットは首を捻り、ささやくような声を出す。

 その表情は、今日彼が目にした彼女のきらきらとした眼差しには程遠く、瞳には涼風が吹いていた。

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