13 単純な答え

 手元に描かれている五線譜に、ネルフェットの胸は静かに高まった。

 これまで感覚だけで弾いていたピアノやヴァイオリンに、これがあれば真正面から向き合える。

 窓の外に見える月を見やり、ネルフェットの頬は微かに緩む。

 意欲に満ちた眉は上がり、清々しいほどに瞳には力が漲っていく。

 トニアの嬉しそうな表情を思い出し、ネルフェットは胸がすっきりとして呼吸が広がっていく感覚を知った。

 本のお礼とは言っていたが、わざわざ楽譜を送ってもらうなんて、きっと手間をかけてしまっただろう。

 申し訳なさと同時に、彼女の気遣いに彼の唇はゆるやかに弧を描く。

 扉を叩くコツコツとした音に、ネルフェットは窓の外から視線を戻し、楽譜を目の前にある机の上に置いた。


「誰だ?」


 返事をすると扉が僅かに開き、剥き出しの木製の骨組みをした手袋で指先まで覆われた手が覗く。

 矯正器具のような木製のグローブは、指の動きに合わせてカラカラと音を立てる、


「ベッテか、どうした?」


 プラチナブロンドとこげ茶のツートーンのボブが扉の向こうから現れると、ネルフェットはそっと楽譜を身体で隠す。


「リリオラが呼んでいたわ。ちゃんとすぐに行ってあげてよ」


 ベッテは目元を緩ませて、ネルフェットのことを深い瞳で見る。


「あ、そうだった……」

「もう、仕事を増やさないで頂戴」


 すっかり用事を忘れていたネルフェットは、面を食らったようにぎくりとする。


「ごめんベッテ。最近、リリオラにいろいろと仕事を押し付けられてるもんな。で、曲作りの方は順調?」


 ベッテ・ヴィモアはソグラツィオ王室の宮廷楽長を務めている。特に最近は、王室内では参謀役も務めるリリオラに命じられて、ソグラツィオの楽器をふんだんに使った曲作りを任されており、彼女は短期間で十二もの曲を制作してきた。

 多忙な国王たちがどこまで知っているのかは分からないが、リリオラが近頃若者の間でも密かに人気が高まってきているマニトーアのエンタメに対抗心を燃やしているのは王宮の人間であれば暗黙の了解だった。


「そっちの方は貴方の心配はいらない。私にしてみれば、難しいことではないし」

「まぁ、そうだよな」


 ベッテは歴代の宮廷楽長の中でも最年少で職に就いたにもかかわらず、その真面目な性格と音楽への愛から、優秀な作曲家としてリリオラに信頼されているようだ。ネルフェットもそのことをよく知っている。リリオラと話す時、ベッテは彼女の要求を断ったことはない。


「でも、リリオラの機嫌を直せるのは貴方だけ。何をぐずぐずしているの」

「いや、ちょっと考え事を……」


 付き合いの長いベッテは、ミハウと同様、ネルフェットが気を遣わなくてもいい貴重な存在だった。ベッテはネルフェットより歳が上なため、彼女にとってもあまり気を張らなくてもいいのだろう。


「考え事? あ、もしかして新しいお友だちのこと?」


 からかうようにして妖しげに笑うベッテは、図星のネルフェットが見せる僅かな表情の変化に確信する。


「本を貸していた子。王宮でこの前見かけたけど、随分と、仲が良いみたいね」

「そ、そんなことはない。ただ、彼女の勉強の助けになればと……」

「別に言い訳なんて求めてないけど。何、照れていたりする? あなたのタイプだったりして?」

「な……っ! 照れて、照れては、いないっ!」

「あらら。……ところで、それは何?」


 ネルフェットの後ろに見え隠れする五線譜に、ベッテは興味深そうに身体を傾ける。


「なんでもない。ただの貰い物だ。俺はもうリリオラのところへ行く。ベッテも仕事に戻れ」

「言われなくても仕事してる。見くびらないで頂戴」


 ベッテはくすっと笑い、張り詰めたネルフェットの瞳を離れたままじっと見つめる。


「折角の頂き物よ。ちゃんとお礼しなさいね」


 カラカラと彼女の指が曲がり、扉を閉めてその場を去って

行った。


「……はぁ」


 ほっと一息つくと、ネルフェットは楽譜をまとめて鍵のかかった棚にしまう。


「お礼……。これ、お礼だけどな……」


 トニアはそう言っていたが、確かに、この貰い物はネルフェットにとって予期しない幸運だ。このまま貰ったまま何もしないのも気にならないと言えば嘘になる。


「たまにはいいこと言うな、ベッテ」


 いつも自分のことをからかってくるベッテのアドバイスが素直に胸に収まり、ネルフェットは感心したような声を出す。

 入手が困難だった楽譜を手に入れた。伝手を辿って名前を伏せてどうにかマニトーアの楽器を手に入れたときに、きっとこれ以上のことはないと、もう半ばそれは諦めていたものでもあった。

 絶たれた道が蘇ったような気分だった。

 目標に向かって邁進する彼女が喜ぶこと。

 彼女にとっての希望の光が、ふとネルフェットの脳の端から呼んでいるような気がした。


 ひたむきに学んでいる彼女の助けになればと本を貸しただけで不審がられてしまったが、今度は大丈夫だろうか。

 彼女がどんな反応をするのか少し不安にはなるものの、ネルフェットは自分に出来るお礼を思案しながら、待ちくたびれているであろうリリオラのもとへと向かった。



 いつもは集中力が切れることのない講義。それなのに今日は、心が浮ついて言葉の壁以上に講師の話が頭に入ってこない。

 弱弱しい線が一本だけ引かれたノートにトニアはまた無意識のうちにペンで円を描く。

 視線を下げると、鞄に入った本がちらりと目に入り、トニアの身体には一瞬にして緊張が走った。

 ネルフェットに借りた本を、返さなければいけない。

 レポートはとっくに完成した。これは王室のものなのだから、できるだけ早く元に戻した方がいいはずだ。それは分かっている。

 それでもなお、トニアはネルフェットに会うことが怖かった。

 以前のように、会うと面倒な顔をされそうだとか、気を遣わなければいけないだとか、そういった懸念とはまた違ったものが胸に渦巻いている。


 今朝顔を合わせたピエレットによると、今日は恐らくネルフェットは来ていない。だからカフェテリアに行っても、廊下を歩いても、彼の顔を見ることはないはず。

 街に出たら、彼に会う可能性はゼロになる。

 ならば、こんなに心を取り乱す必要はないし、講義だって真面目に受ければいいだけなのに。

 トニアは鞄のチャックを勢いをつけて締め、きりっと眉を上げて前方を見やる。


(集中しなくちゃ……! ネルフェットのことは考えない!)


 そう気合いを入れても、またすぐに彼の不意の笑顔が晴天に映えた雲のように頭に浮かんでくる。


「あぁ……だめだ……」


 弱った声が出ると、隣にいた学生が不審がって首を傾げた。トニアはペンを握ったまま手の平で顔面を覆い、折り曲げた指の骨に額を押し付ける。

 どうしてもネルフェットのことを考えてしまう。

 強引な秘密の共有をされた時には、あんなに厄介で、できれば彼がいたことが嘘で終わって欲しかった。すべてが良い夢で終わればよかったと思ったほどだったのに。歪な関係だって解消したかった。それができないのならばもういっそのことネルフェットにずっと睨まれたままの方がずっと楽だった。


 トニアは俯いたまま、情けなく唇を噛む。

 楽譜を渡した時の彼の素直な横顔が忘れられない。その表情をもっと見たいと思ってしまった。彼を取り巻く環境なんて知る由もないというのに。でもその中で、果敢にも自らに挑戦をする彼の眼差しにトニアは共鳴した。限られた部屋の中で、歓迎されない習練に孤独にも立ち向かう彼の意志を守りたいなどという、無謀な欲望の芽が出てしまう。


 それに、彼の奏でる音と、垣間見える笑顔。

 脳内で繰り返されるたびに、トニアの心は静かに搔き乱された。勝手に胸を躍らせて、期待に歓喜が湧く。

 トニアのことを見えない壁で遠ざけているようにも思えるのに、本を渡してくれた時、彼の心は近くに感じた。ちゃんと自分のことを見てくれていた気がした。相反することなのに、あの時はそれが成立していた。

 そんな偶然が嬉しかっただけ。そう誤魔化すだけで十分。


 けれどそれももう無理だ。

 トニアは砂糖をまぶしたようなこの胸のときめきを覚えている。

 流れ星を偶然見た時のように、勝手に気分が弾んでいくのだ。

 でもきっと、この想いは届かない。彼はソグラツィオの王太子。トニアはただの留学生で、いずれ国に帰るし、そもそも出会うことすらなかったはずの存在。

 口内に鉄の味が広がり、トニアは噛んでいた唇を離す。

 ネルフェットが自分に向けていた冷たく険しい瞳を思い返し、彼女の手は微かに震えた。


 この気持ちにどんなに困惑しようとも、彼の答えは決まっている。彼が何故、常に瞳の奥に剣を隠しているのかは分からない。ただ、少なくとも最初は好意的に思われていなかったことだけは伝わる。最近は張りつめていた糸が緩んだ気もしているけれど、自分に許されるとするならば、せめて友だちと互いに言える存在までだろう。


「マビリオ」


 隣から差し出されるティッシュに気づき、トニアは赤い唇のまま顔を上げる。


「ありがとう……」


 隣の学生がくれたティッシュで口元を拭き、トニアは色に染まった柔く繊細なその紙を両手でしまい込むように丸めた。

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