12 月光と誤解

 ヒダリは何も言わずに部屋に入っていった。

 しわのない白いパジャマだった。

 こんな格好で電車に乗り、街中を歩いてきたのか。

 玄関ですれ違った時に柑橘の匂いがした。


 電気もついていない部屋で、ヒダリは三角座りをした。

 電気をつけようとすると、彼女は首を振った。

 ナギは諦めて畳に座った。

 薄い月光だけが灯りだった。

 夜の沈黙は、重い。


「……」


「……」


「…………」


「…………」


 六畳一間で、ふたりは向かい合わなかった。


 ヒダリの微かな息の音がした。

 いたずらに時間が過ぎていく。

 漂う煙草の残り香。

 上の階の生活音。

 きんとする耳鳴り。

 規則的な呼吸の音。


「なんで来たと思う?」


 沈黙が破られた。

 ナギは溜めていた息を一気に吐き出した。


「わからないわよ、あんたの考えなんて」


「だろうね」


 突っぱねるような言い方をしてしまった。

 さっきあれほど悩んでいたというのに。


「なんで来たの」


 ナギは一息間を置いて、そう訊いた。


「秘密」


「なによ、それ」


「少女に秘密は付きものさ」


「そうかしら」


「そうだよ」


「でも、少女は夜に来ないでしょう」


「夜行性の少女だっている」


「とんだ不良少女」


 そう言ってナギは苦笑する。

 不良、という言葉を出した自分が嫌になる。


 再び、沈黙。

 言葉を選ぶ時間。


「1週間、何してた?」


 ヒダリがポツリと呟くように言った。


「なにもしてなかったわ」


「ほんと?」


「うそ。曲を作ってた」


「あ、いいね。早く聴かせてくれよ」


「やだ」


「なんでさ」


「また否定するから」


「ぼくはきみの歌を否定したわけじゃあない」


「『人間じゃない』って言ったでしょう」


「それはそう、だけど」


「ほら」


「ぼくが伝えたいこと、わからなかったの?」


 本当は、わかっている。

 彼女は『本気で歌を歌わないナギ』を非難していた。

 そして、ヒダリは彼女なりの言語で、的確に表した。


 ——本気にならないきみは、人間として損をしているよ、と。


 そうのも、ヒダリに毒されているからだ。

 ナギが不安に思うのも、ヒダリに会えて妙な気持ちになるのも、夜の沈黙が少し心地よく思えるのも、食事が億劫になるのも、すべて、彼女のせい。


(ほんと、なんなのよ……)


 ヒダリを前にするといつも思う。

 自分がぐちゃぐちゃになる。

 正しいと思っていたことが偽りになり、違うと思っていたことが真実になる。


 いったい何が正しいのか、何が間違いなのか。

 佐野ヒダリのせいで、すべてを見失ってしまう。 


「ねえ」


 だから、答えを確かめなければならない。


「どうして来なかったの」


 ナギは暗闇の中でヒダリを見た。

 彼女の白は月の光と溶け合い、今にも消えてなくなりそうだった。

 

「言っとくけど、秘密は禁止」


「じゃあ、内緒」


 面倒な奴だ、とナギは思わなかった。


「知りたいのよ。あんたのこと」


 ナギは秘密の少女をしっかりと見つめた。

 いつもならすぐに返されるはず言葉を、彼女は止めていた。

 そして時間をかけ、儚い声音で、秘密を告げた。


「ナギが」


「うん」


「キスを」


「うん?」


「していた」


「うん……?」


「ミナミちゃんとキスをしていた。それを見て、ぼくは身を引いた」


「え、え?」


 予想外の回答に、ナギは言葉を失った。


「学校でもずっと一緒にいたから、恋人だと思った。それなら、ぼくがいたらジャマでしょ。ここはナギのために、って思ってさ。ふたりの幸せを願った」


「…………」


 ナギはため息をついた。

 急に夜が軽くなった気がした。


「なになになになに、あんた、見てたの?」


「うん」


「いやいやいやいや、マジで言ってんの?」


「うん」


「ねえねえねえねえ、あれ、演技なのよ?」


「え?」


 ナギは全てを説明した。

 ミナミが先輩の告白を振り切るためにナギを使ったこと。

 説得のためにしかたなくキスをしたこと。

 あの日は恋人の演技をしていただけで、本心ではないこと。


 興奮のあまり順序がおかしくなったが、伝えるべきことはしっかりと伝えた。


「つまり、ぼくの勘違い?」


「そうですそうです」

 

 あれを見て誤解を抱かないほうが無理だ。

 なあんだ、とヒダリは微笑み、光が蘇った。


「もうナギに会えないなあって思った」


「恋人だったとしても、会いに来ていいでしょうよ……」


「ぼくと鉢合わせたら恋敵だと思うでしょ」


「あんた、ミナミと会ったじゃないの」


「嫉妬は遅れてやってくるものさ」


「ないない。そもそも女同士だし」


「女の子同士でも恋は芽生えるって聞くよ」


「世間ではあるだろうけど、あたしにはない」


 そうなんだ、とヒダリはふわりと笑った。

 とにかく彼女が無事でよかった、とナギは安堵するばかりだった。

 そして同時に、彼女に興味を持ちすぎたことが、恥ずかしかった。






「で、どうだった?」


「なにが」


「キス」


「……別に」


「知りたいな。ナギのこと」


「……柔らかかった」


「うひゃあ。甘酸っぱいね」


「うる、さい」

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