11 不安と猛毒

 ここ1週間ほどで、ナギにあるが起こった。


 異変その①。

 食事をするのが億劫になった。

 夏バテが始まったのだろうか、とナギは思う。

 買い込んだ食材は瞬く間に腐っていった。 

 

 異変その②。

 突然になってラブソングを作り出したこと。

 途中で我に返り、ゴミ箱に捨てた。

 黒歴史のひとつを生み出してしまった。

 

 異変その③。

 ミナミと仲が良くなったこと。

 同じ釜の飯を食う、裸の付き合い、偽りのキス。

 このすべては、仲良くなれる秘訣だ。


 そして、異変その④。

 ヒダリがナギの前に現れなくなったこと。






(おかしい……なんだ、なんだ?)


 妙なものだ、とナギは思う。

 ヒダリと出会ってから1週間と会わなかった日はなかった——というより、毎日といっていいほど、彼女はナギの家の前にいた。


 なんだか調子が狂うな、とナギは思う。

 ひとりで作曲をしていても、どこか落ち着かなかった。

 なぜだろう?


(あたしがヒダリを求めてるとか、そんなんじゃああるまいし)


 ギターリフを打ち込み終え、畳に寝転がる。

 いつの間にか、電気も付けずに夜になっていた。

 しぱしぱ、と目が乾く。


(怒ってるとか、不機嫌とか、そういうの?)


 食事の代わりに煙草に火をつける。

 吐き出した煙は、天井に届く前に暗闇に消えていく。

 なにか良からぬ事態になっている、とナギは直感する。


(つっても、ヒダリに何かしたっけ……)


 雨に濡れたヒダリ、風邪は引かなかった。

 海に入ったヒダリ、風邪は引かなかった。

 魚を食べたヒダリ、風邪は引かなかった。

 どのヒダリも、笑っていたし、嬉しそうだった。


 このひとりの時間は、重い出来事が起こっているのかもしれない。


(ヒダリに何かあった?)


 つまり、ヒダリは事故か何かに巻き込まれたのかもしれない。

 その可能性に気付いたナギは、しかし同時に、苦しんだ。


(いや……なんであたし、あいつのこと気にしてんのさ)


 他人に興味がない。

 そう思っていたのはナギだけで、ナギの本能は、興味を持っている。

 ヒダリが無事であることを知りたいと思っている。

 ヒダリの安否を確認したいと思っている。

 しかし、ナギにとってヒダリは他人。

 他人に想いを馳せても意味はないし、むしろ損をする。

 そのことを、ナギは過去の経験から知っている。

 

「ああ、なんだよ、くそっ」


 煙草を空き缶の口に押し込む。

 居てもたってもいられなくなる。

 それでも、身体は動かない。

 心と身体の仲が最悪だった。

 どうすればいいのか、わかっているのに、わからない。

 動きたいのに、動かない。

 興味がないのに、興味がある。

 すべて、最悪なジレンマだ。


「いいじゃん、ひとりになれたんだからさ。そうだよ。あいつがあたしに会うの、意味わかんないじゃん」


 思い出す、ヒダリと初めて会った時。

 ナギはヒダリに言われた——『きみは人間ではない』と。

 生まれて初めて、人を殺したいと思った。

 あんな平然とした顔で、傷つくような言葉を。

 ナギにとって、ヒダリは本当に嫌な存在だった。


 そうだったはずなのに、そうであるはずなのに。


「なんだよ、何が言いたいんだよ、あたし」


 ヒダリに毒されている、とナギは思う。

 ヒダリがどこにいるのか、どこに住んでいるのか、本当に大学生なのか、何も知らない。

 知らないなら、知らないままでよかったはずだ。

 そもそも、あの時——ナギの歌を聴いてくれなければ。

 佐野ヒダリという存在と、出会うことはなかったのに。


 ナギは2本目の煙草をくわえた。

 うまく火が着かなかった。

 オイルライターのせいではなかった。


「……何してんだ、あたし」


 吸い損ねた煙草を缶に押し込んでいる時、ピンポーンと鳴った。

 パソコンの時計は「21:48」を示していた。

 今まで、こんな時間に来客などなかった。

 ナギは玄関に向かいながら、誰が来たか考えた。

 まさか、ヒダリではあるまい。

 彼女は出会って2ヶ月の間、夜に来たことはなかった。

 いつも昼間に玄関の前にいるだけだった。

 そもそもインターホンの存在さえも知らないかもしれない——。

 

 とにかく、ナギは玄関の扉を開けた。


「え」


「あ」


 そこにいたのは、佐野ヒダリだった。



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