第10話 境島署のいちばん長い日 8

 ひゅ、と自分の喉から声にならない悲鳴が漏れ出たのが解った。


 窓いっぱいに映し出された鱗に覆われた眼は、ぎょろぎょろと何かを探すかのように動いている。


 ユリウスはゆっくり、ゆっくりとその場にしゃがみ込み【眼】の死角になるように窓の下の壁に張り付くように隠れた。


(早く……何処かに行ってくれ!)


 神に祈るように目を閉じて身を縮める。

 永遠に等しいような時間が、自分の周りを流れているようにも感じた。


 ふいごのような鼻息と、低い唸り声が頭上から聴こえて、まるで生きた心地がしない。腕の中の小さな存在の身動ぎと体温が唯一自分が生きていると感じさせてくれるような気がした。

 ぐるる、と一際大きな唸り声が聞こえた時であった。

 庁舎の電気が一斉に点灯した。非常用発電機がついたのだろう。

 それにはまさしく不意打ちだったようで、ギャア!という悲鳴を上げたと思ったら、重い足音と鋭い爪がアスファルトを削り取るような音を立て、逃げるように去っていった。


 暫くして、傾き始めた太陽の光が窓から差しているのに、気づいた。恐る恐る窓の外を見るが何もいない。

 ユリウスは詰めていた息を大きく吐いて、縮めていた足を投げ出すように床に座り込んだ。

 張りつめていた緊張の糸が切れたのか、手はひどく震えていた。


(死ぬかと思った)


 あまりの事に茫然としていたら、大人しく抱え込まれていたちびドラゴンが、ユリウスの顔を機嫌良さそうにべろりべろりと舐め始めた。


「ごめんごめん! ただいま~……どうしたの!?」


 丁度いいタイミングで緒方が帰って来た。恐らく、庁舎裏の機械室に行っていたため、今起こっていたことなど何も知らないのだろう。

 青ざめた表情で座り込むユリウスを見て、2.5メートルのオーガ族の会計課長は何が起きたのか分からず慌てふためいていた。


  ̄ ̄ ̄ ̄

 その数時間前。

 I県本部11階会議室にて、一線署(県内の警察署の事)の生活安全課長が一堂に会していた。

 定期的に、若しくは大きな事案が立て続けに発生した時に召集される、県下警察署の課長会議である。その中には、ハーフリング族(小人族)の足柄警部もおり、会議室は資料をめくる音が一層の緊迫感を漂わせていた。

 中央、正面の壇上には、生活安全総務課長の厳島が淡々と資料を捲りながら話し始める。


「特別区からの違法外来動植物の密輸、飼育ですが、ここ四半期のうちに増加の一途を辿っています。現在、確認されている生物は、えー……ひぽ……?失礼しました。ヒポグリフ、トレント、マンドラゴラです。中でもマンドラゴラやトレントは非常に中毒性のある薬物の材料となりますので……」


 足柄が資料を捲っていると、隣に座るC署の課長が前を向いたまま顔を少し寄せて言った。


「ガラちゃん、また厄介な事案引いてるんじゃないの?」

「止めてくれよ華ちゃん。先月は散々だったんだからよ」


 足柄に華ちゃんと呼ばれたのは、C署の生安課長であり、足柄の同期である華山仁志(はなやまひとし)警部であった。

 二人は同期で警察学校時代も同じ部屋だった事もあり、今も親交があった。


「最近ウチの管内でさ、保育器の窃盗があったのよ」

「保育器?」


 華山の言葉に、足柄が声を潜めながら訝し気に問うた。


「そう。わざわざ産婦人科に押し入って。カメラに映ってた車両ナンバーもテンプラ(盗難車)だし。しかも俺の当直の時に起きてホントやんなっちゃうね」


 足柄は眉間の皴を深めた。C署管内は境島署と程近い。だが、何故保育器なのだろうか。

 保育器。新生児や未熟児を生育するための機械。

 テンプラナンバーは常習の窃盗団だろう。

 では、何故手間をかけてまでそんなものを盗もうとしたのだろうか。


「その前に何か窃盗とかなかったのか?」

「あ? ああ……動物園の事務所かな。たしか、ダチョウの飼育事務所……」

「ちょっと、よろしいですかな!!」


 勢いよく椅子の上に立ち上がった足柄に、華山をはじめ他の課長が騒然とした。

 淡々と喋っていた生活安全総務課長が目を白黒させてこちらを見つめる。


「奴らは、既にもっと大きなブツを持ち込んでいます。ヒポグリフより、もっと大きな。そいつの【親】が来ちまったら、本当に大変なことになっちまう。すぐに特別区の【猟友会】と……」


 そう言ったところで、足柄のスマートフォンが場違いな落語番組のオープニングを奏で始めた。

 ディスプレイには、境島署の文字。


「失礼……はい。足柄……ああ。分かりました。すぐ帰ります」


 通話を切った足柄は、そのままで周りを見つめて言った。


「最悪の事態が発生しました。奴らは【親】を呼び込んじまった。ドラゴンの成体を」


 騒然としていたはずの会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。

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