第16話 イノシシに命乞いをした夏

今回はイノシシの話です。なんか急に思い出したので書いてみます。

田舎の人間にとっては割とありふれた話ではあるのですが、町で暮らしていらっしゃる方には珍しい話かなと思って。



あれは今から何年前だったか、夏山の人気ひとけのないエリアに入り、ぼっちハイキングを満喫していたときのこと。イノシシとばったり出くわしたことがありました。

それはそれは毛づやの良い、綺麗なイノシシでしてね。溌剌とした明るい表情をしていました、私に気づくまでは。

お互いの存在に気づいてからは、どちらも顔がこわばり、凍り付いたように身動きがとれなくなりました。怖いよね、お互いね。なんか知らん動物が目の前におるー! ってなるよね。


イノシシとの距離は20メートルあったかどうか。つぶらな瞳が確認できるぐらい近くで、お互いフリーズしたまま見つめ合うこと30秒ほど。


この30秒の間、私はいろんなことを脳内でガガガーっと想像しました。

逃げないと危険なのでは? というのが最初に思ったこと。

でも逃げるといったって、へたな逃げ方をしたらかえって襲われるといいます。後ずさりで逃げるのがいいんだっけ? でも、逃げるために動き出したら、この膠着状態を壊すことになるから怖いな。向かってきたら嫌だー!

無難なのは木に登ることですが、あいにくここは杉林です。杉のような足掛かりの少ない木、私にはとても登れません。

どうしよう……。

大体イノシシって臆病だから人から逃げるはずでは? なんでこんな近くにいるのか。イノシシは人の足音がしたら逃げるって聞いたことありますよ? ……ああ、そういえば小学生の頃、忍者に憧れて足音を立てずに歩く練習をしたのだけれど、そのせいなのか大人になった今でも私ってあまり足音がしないんですよね。そのせい!? なんで忍者になんか憧れたのよ私!? あの頃は折り紙でつくった手裏剣を持ち歩いていたっけ。折り紙で何と戦う気だったのかしら。ああ、どうでもいいことばかり考えてしまう~。


そのとき、イノシシが一歩前に踏み出しました。あっ。えっ、こわ、えっ!!

そろり、そろりと私に向かって歩き始めたイノシシ。おまえ、そうか、やるのか。やる気なのか!

イノシシの顔はちょっと調子に乗っている表情というか、この人間をからかってやるぜという、そういうイタズラ心みたいなものを私は感じました。怒っているようには見えませんでしたけれど、悪意はあったと思うのです。被害妄想かもしれませんが。なんかこう小憎たらしい顔だったんですよ。


危険?な状態です。


イノシシがじわじわと煽るかのようにゆっくりこちらに向かってきている今、私の選択肢は二つ。

一つは、こっちから先制攻撃をしかけて、追い払うこと。

もう一つは命乞いです。

逃げたらきっとすぐに追いつかれて噛まれると思います。戦うか降伏するかの2択。


私は両膝に両手を置いて、ややかがむような姿勢になり「無理無理、無理ぃ~」と話しかけました。イノシシを刺激しないよう小声でそっとつぶやくように。つまり命乞いをすることにしたというわけです。野生動物相手に命乞い。これってホモサピエンスとしてどうなのか。プライド的なものはないのか。でもしょうがないよね、だって完全に不意を突かれてますし、この状況からは殺気も闘気も出せません。ビビってますもの。


果たしてイノシシに命乞いは通じるのか? そもそも「無理~」っていうのは命乞いなのか? 何が無理なのか? どうか命だけは~とか言ったほうが適切なのでは? とっさに上手い言葉が思い浮かず、無理としか言えないけれど、今大事なのは言葉のチョイスではなくて、1秒でも早く降伏の意思をストレートに伝えることだと自分に言い訳しつつ、イノシシに向かって小声で無理~と言い続けました。声のトーンで戦う意思がないのは伝わるよね? わかって?

すると、どうでしょう、イノシシはぴたりと足をとめて、私を見つめながら耳をぴょこぴょこ動かしているではありませんか! 耳を傾けてくれているように思えました。そしてなんか考えるような顔をしている。

あっ、これは気持ちが通じたな、そう確信した私は、もっと情けない声をだして「無理ですぅ」と丁寧語で命乞いをしました。

するとイノシシはゆったりとした動きでUターンして、もときたほうへと戻っていってくれたのです。

ほっとした~!

命乞い成功! 見逃してもらえました。



イノシシ、怒ってないときであれば命乞いが通じるんだなあ、そんなことを思った出来事でした。

個人的に犬とヤギは情に訴えたらなんとかなると思っているんですが、イノシシもなんとかなるのかもしれないです。


ただ怒っちゃってるときはもうね~何をやってもダメだよね~頑張って木にのぼるしか!

万が一に備えて、杉ぐらいは登れるようになりたいものです~無理ぃ~!

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