転生と現状の把握

 闇と翡翠色の淡い光が混在する視界の中、かつて感じたことのない重々しい目眩に襲われる。


 それに反発するように意識が覚醒すると、目の前にはどこか懐かしいような田園風景が広がっていた。知らない人間の記憶が自分の中にある。頭痛の原因はこの奇妙な現象のようだ。


「靖十郎様、体調でも優れませぬか?」

「いや、問題ない。少し目眩を感じてな」

「無理もありませぬな。越前からの旅路で疲れもあるのでしょう。ですがもう我らが本拠は目前にございます故、少しお休みなされ」


 どうやらここは戦国時代らしい。記憶は鮮明としていた。心配そうに眉を寄せる初老の男を目の前に、唸りつつもしっかりとした口調で応対する。男の言う本拠とは、加賀国野々市。しかし目の前に見える館は、遠目から見ても本拠地というにはあまりにも相応しくない廃れぶりであった。


「ああ、お言葉に甘えることにしよう」


 頭の中が混乱していて、自分という存在を整理する時間が欲しかったので、男の提案を快く受け入れることにする。


 予想通りと言うべきか、屋敷の中も長く放置されていたために荒廃と表現しても差し支えない程の有様だった。


 歴代当主——由緒正しき加賀守護が座る部屋も、変わらず手入れが滞っている。室町幕府の成立に大きく貢献し、室町幕府をその手で支えてきた加賀守護・冨樫家の威光の低迷を痛々しくも感じさせ、嫌というほど見せつけられるような光景であった。


 俺は大きくため息を漏らす。なぜ自分がこんな状況に巻き込まれたのか、皆目見当がつかない。絶望というわけではない。二十代中盤の何の変哲もないサラリーマンだった俺・野網脩志のあみしゅうじが唯一のめり込んだものが、戦国時代を舞台としたゲームや小説、ドラマだったからだ。少なからず憧れがあった。かといって心が踊っているかと言えば、首を縦に振ることはできない。


 俺が憑依した男の名は冨樫泰俊。現当主・冨樫稙泰の嫡男にして、加賀守護の正当なる後継者、と言えば聞こえはいいだろうが、実際は名ばかりの権力だけで、何の実権も保持しない人間である。


 冨樫家についてはある程度の知識こそ持っていたのが幸いだった。冨樫家に関する文献で、息子を寺の奉公に出さないと生活が成り立たない程に困窮していたと記されていたのが衝撃で、少し気になって調べたことがあったからだ。


 泰俊の記憶に照らし合わせつつ整理すると、状況はこうなる。今は天文元年(1532年)であり、冨樫家が完全に権力を失した翌年にあたる。冨樫家が加賀守護としての地位を簒奪されるに至ったのには、本願寺の動向が大きく関わっていた。


 加賀と言えば、一向一揆が第一に浮かぶだろう。『百姓の持ちたる国』などと呼ばれ、一向一揆による実効支配が一世紀近く続いた歴史を持つ。それを引き起こしたのも、冨樫家の力不足が原因であった。

 

 冨樫家を取り巻く状況が大きく変わったのは、加賀嘉吉文安の内乱と呼ばれる家督紛争が発端となる。当時の加賀守護であった冨樫教家が時の将軍・足利義教の逆鱗に触れ、甥の泰高に家督が引き渡されたという出来事から、大きく風向きは怪しくなった。しかし将軍が僅か数日後に赤松満佑に暗殺されることとなり、当時の管領・細川持之が家督の差し戻しを推し進めたことから、冨樫教家は家督を譲った甥に返還を要求したのだ。


 泰高がこれを拒否したことで戦が勃発し、やがて双方を支援した細川と畠山の代理戦争へと発展した。この内乱は結局南半国守護に泰高、北半国守護に教家の嫡男であった成春が就任することで決着がついたわけだが、これでめでたしめでたし、とはいかないのが乱世の理である。


 細川勝元によって冨樫成春はすぐさま追放され、泰高が成春の子である政親を養子とすることで、加賀は再統一を迎えることになった。だがこれに不満を持った教家派が擁立した成春の次男・幸千代が蜂起し、再び内乱へと突入してしまう。


 そしてこの鎮圧に冨樫政親が力を借りたのが、本願寺門徒である。政親はその力を借りることで内乱を鎮めることができたものの、これで存在感を大きくした本願寺門徒を疎んじるようになり、政親はこれを弾圧した。本願寺中興の祖と称される蓮如は、味方することにより加賀守護の保護を期待していたのだが、その意図に反して政親は傲慢とも言える行動に出てしまったのだ。


 これによって誕生したのが、加賀一向一揆というわけである。家督紛争が発端となって、戦国時代の名だたる武将たちが苦戦する加賀一向一揆が誕生したと考えると、冨樫家は歴史に大きな影響を与えた守護大名ということになるのだろう。専ら悪い方向にではあるが。


 この加賀一向一揆はみるみるうちに増大し、政親は長享二年(1488年)に自害に追い込まれる。そして隠居していた泰高を再び当主に戻す形で一向一揆の傀儡となり、権力を失うこととなったのである。


 こうした内乱によって、加賀は一向一揆に支配される国と化したのだ。


 つまり加賀にいる限り、命の保証はないということである。乱世にいればどっちにしろ死が身近にあるから、そういう意味ではあまり変わらないのかもしれないが、無駄に立場のある俺は常に命を狙われる恐れがある。父である富樫加賀介稙泰もそれを勘案して、弟と俺を離したのだろう。


「靖十郎様。お休みのところ失礼致します。体調は如何でしょうか」


 襖越しに掛かる声は、心底憂わしげな色を帯びている。


「ああ、問題ない。それより何か用か? 話があるのならばそんなところにおらず、入ってくるがいい」


 何か用件か、と思い尋ねる。男は俺の声に従って、「では失礼致します」と断りを入れて部屋に踏み入ってきた。そしてその口から、背中に冷や汗をかいてしまうような鋭い返答が耳を通る。


「いえ、用件というほどではないのですが、先程様子がおかしいようでしたので、心配になって参り申した。それに気のせいかもしれませぬが、どこかお人が変わったような気が致します。以前の靖十郎様より目が力強いと言いますか」


 記憶を辿ると、この男の名は沓澤彌四郎兼長というらしい。俺の側近で、常に俺の様子を窺っているので、僅かな機微にも気付くのだろう。生来、冨樫泰俊という男は気弱で覇気がない、戦国武将として生きるには些か相応しくない人柄のようだ。一方で人の心に寄り添う優しさを備えている。平和な治世ならば良き主君として地位を固められていたかもしれないが、残念なことにこの世は乱世。泰俊に対する評価は高いものではなかった。


「いや、それはあながち間違いないのかもしれぬ。彌四郎の申す通り、私は神託を授かった。荒れ果てた加賀をその手で治めよと」

「なんと、それは真にございまするか!?」


 昔の人々というのは何かと信心深い。彌四郎は疑うこともなく、目には輝きの色を含ませている。


「ああ。そのおかげで目が覚めた。自分の為すべきことが何か、気づいたのだ」

「やはり靖十郎様は選ばれしお方だったということですな……」


 感慨に浸るように語尾を下げる彌四郎に苦笑いを浮かべる。無論嘘だが、こうでも言っておかないと、ボロが出た時に収拾しにくい。泰俊の記憶は確かにあるし、どういう性格なのかもよく把握しているが、結局は他人なのだ。俳優でもないのだから、同じ人間を演じるには無理がある。心を入れ替えたということにして、怪しまれうる裾野を狭めたのだ。


「丁度いい。皆を集めてくれ。周辺の国衆にも声をかけよ。今後の方針について、私の口から話そうと思う」

「は、はい! 承知致しました!」


 興奮と焦燥が混じった様子で、慌てて立ち上がった彌四郎は退室していった。

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