八曜の旗印

縞杜コウ/嶋森航

加賀平定

プロローグ

「加賀介様、大聖寺城の下間筑前、備中が」


 加賀に潜伏していた諜報の一人が、興奮を隠せぬ様子で僅かに弾んだ声を響かせる。咳き込んでその先が曖昧に流された。普段は冷静さを欠片も崩さない男の変わりように、家臣の一部は目を瞬かせている。無理もない、一刻も早く報せを届けんと一晩で越前まで駆けてきたのだろう。


「落ち着け、順蔵。焦る必要はない。詳しく説明を頼む」


 音を立てる心臓を努めて無視し、冷静さを保ちつつ事の仔細を尋ねると、その男・植田順蔵綱光は顔を上げる。順蔵は越前で素破の一党を率いていたが、不和が原因で追放されており、長らく忍従の日々を強いられていた中で、儂が朝倉に頼み一派を引き受けた経緯があった。


「ご存知かとは存じまするが、山科本願寺が敗れ申した」

「うむ。痛快な思いよ」


 痛快だ。山科本願寺が、三好筑前守元長の仇討ちという名目で蜂起した法華一揆の一派によって、社坊ひとつ残さず灰燼と化したという。坊主の身で分を弁えず図に乗った報いよ。


 一向一揆には幾度となく煮湯を飲まされてきた。記憶に新しいのが、昨年の戦であろう。本願寺の内紛は、加賀だけでなく能登や越前をも巻き込み、泥沼の戦況となった。


「山科本願寺の敗北により証如は大坂へと走り申した。その敗報を受け、一向一揆を率いる下間一党は大坂に向かったようにございまする」

「間違いないのか?」

「はっ、真にございます」


 儂の反応を待たずして、高揚を押さえつけているのか震えの帯びた野太い声が筆頭家臣である山川源次郎秀稙の口から放たれる。なんの美味い話かと思うが、順蔵の声に嘘は窺えない。どうやら本当らしい。


 越前金津城の一室は、主従数十名の静かな喜びでようやく満ちた。歓声が聞こえるほど大きいものではない。微かな希望が見えた。誇り高き加賀守護の家柄は、先の戦で完全に失墜した。抵抗する力を完全に失ったのだと、誰もが思っていた。越前の溝江家を頼り、後ろめたさを感じていた。食い扶持も一族郎党数十名となれば馬鹿にはならぬ。


「靖十郎。加賀に赴くのだ。下間一党が不在の今、国を再び奪還する好機を天はお与えになった」


 これは好機だ。儂は嫡男の靖十郎泰俊に向かって泰然と告げる。


「父上は如何なされるのですか」

「儂は残る」

「なりませぬ、加賀は父上なくして統治できませぬ」

「次期当主のお前が左様な弱腰で如何する。儂が行っては、国人も民も統制はできぬ」


 靖十郎は心優しい息子だが、少々覇気に欠ける。名門冨樫家に再び陽の目を照らしうる器には到底及ばない。


「民と向き合うのだ。一向一揆が増長したのは、民を蔑ろにした故の必然。それをゆめゆめ忘れるでないぞ」


 儂も若かった。戦費が嵩む代償を民に押し付け、民心が離れたのを察する事ができなかった。そのせいで民は宗教に身を委ねることなり、それが他の宗派ならまだしも、運の悪いことに一向一揆であった。


 そんな儂が再び統治すれば、要らぬ反感を買う恐れがある。ただでさえ力のない守護家なのだ。慎重に事を進めねばならぬ。靖十郎は確かに武士に相応しくないかもしれぬが、民に寄り添うことはできるであろう。


「……承知致しました」


 渋々といった表情で靖十郎は了承する。この様子では靖十郎に加賀を治めることは叶わぬであろうな。神か仏か、靖十郎に大器を与えてはくれぬだろうか。これが冨樫が飛躍する最後の機会になるやもしれぬのだ。


 そう内心で願い、頭を振る。仏に頼ろうなど、一向一揆に敵意を向ける儂が思うなど滑稽にも程があったわ。年甲斐もなく、微かな希望に少し期待を持ちすぎた。ふっ、ここにきて仏を頼る民の気持ちが分かろうとはな。


『……良いだろう。聞き届けよう』


 頭に響くような声に、儂は眉根を寄せる。歳のせいか、仏が迎えに来ようとしているのはもしれぬな。苦笑しつつも、隣で緊張した様子で脂汗を浮かべる靖十郎に尋ねる。


「靖十郎、何か言うたか?」

「……? いえ」

「ふっ、まあいい。今日は飲む。下間の加賀放棄を肴にな」


 疲れているのだろう。こんな時は酒を飲むに限る。だが今日はいつもの沈んだ空気ではない故、幾分か楽しく飲む事ができそうだ。

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