第三章③

 椿は“向こう”へ行く準備を万全に整えた。何があっても対応できるよう、何一つ抜かりなく。

「じゃあ、行ってくる……」

 椿はそう言って鳥居をくぐった。

「と、父さん……あれ……大丈夫ですよね……」

 陽行にそう尋ねる鷹斗。

「あいつなら……椿なら大丈夫だ。何があっても、あいつの名前が守ってくれる……」

 そう答える陽行。しかしその顔には心配の色が表れていた。


「この辺りか……ここが一番多いな……」

 夕暮れ時、時計の針は午後六時を指していた。

 鳥居をくぐる前とは格段に暗さが違う。この場所だけが、ここに生える木が、異様な暗さを纏っていた。

 椿は抱えていたバッグを下ろし、チャックを開ける。

 ろうそくを取り出し火を点ける。暗くどんよりとした空気の中に明かりが照らされている。そして次々に道具を取り出し、並べていった。半紙、線香、そして数珠。

「よし……やるか……」

 そう一声発し、椿は数珠とろうそくを手に、目を閉じ、唱えた。意識が遠退くような不思議な感覚に身が包まれる。体が浮いている。すうっと体が上に引かれたと思えば、すとんと足からどこかに着地した。ふわふわとしていて、真っすぐ立てない。倒れ込みそうになった瞬間、小さな子供が椿の体を支えていた。

「お前……誰だ?」

「ぼくは……」

 子供がそこまで言いかけた時、どこからともなく、聞いた声が聴こえてきた。この声知ってる……。椿は走った。

「由衣っ!」

 ふいに口から出たのは彼女の名前だった。そうだ……あの声は由衣の声だ……。

「由衣っ!おいっ!どこにいるんだ!?」

 何度も何度も声を張り上げる。彼女の名前を口に、暗闇の中、走る。

「椿さ~ん!」

 聞こえた……!

「由衣っ!どこだ!」

「ここです!ここにいます!」

 声が聞こえてくるほうに顔を向けるも、彼女の姿はどこにも見当たらない。辺りを見回す。

「どこだ……どこにいるんだ……」

「ここですって!ほらっ!」

 聞こえた。けれどその声は上からだった……。

 顔を上げる。はそこにいた。

「ゆ、由衣……!お前……」

 は深い闇のように真っ黒だった。体は宙に浮き、ガムのように粘着質に張り付き、血を流す。目は赤く血走りながらも、こちらをじっと見つめていた。

「お前……由衣じゃないな……」 

 直感的にそう感じた。由衣なら、彼女の部分が残るはずだ。こいつにはそれがない。

「お前は誰だっ!」

 そう尋ねるも返答がない。当たり前だ。素直に自分の名を名乗るわけがない。名前は一番短い呪……名付けられてから一生、死ぬまでへばりつく。名付けられて初めて人生が始まる。終わるときにも名があり、死んでからも付いて回る。名と言うのは最高の贈り物であり、最悪の贈り物なのだ。

「名乗れっ!お前の名はなんだ!」

 はじっと見てくる。何かを訴えようとしている。黒い闇の中に、横たわる由衣の姿が見えた。

「お前は何者なんだ……。由衣、絶対に助けてやるからな……」

 それの正体を知ろうと、椿は数珠を手に、唱えた。

「汝、名を語れ……急急如律令きゅうきゅうにょりつりょうっ!」

 そう発した瞬間、目の前のは悶え始めた。心なしか、が身に纏う深く暗い闇も薄くなった。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前っ!邪気退散っ!今すぐ由衣を放せっ!」

 椿はそう唱え、手に持っていた数珠をに向けた。

〈ゔぉぉぉぉぉぉ……〉

 耳を塞ぎたくなるほどの重低音が響く。それと共に、何かが体を貫くような、痛みにも似た感覚が椿の体を襲った。

「くっ……」

 重力が増したような重さが体中に纏わりつく。

 体が熱く、何かがべっとりと、腹部にへばりついている。椿は右手でそっと下腹部に触れた。その手には血が付いていた。

「まさか……」

 椿は服を捲り上げ、下腹部を確認した。すると、血が付いている下腹部にはがあった。

「お前……俺の体に傷を付けたのか……。何てことしてくれたんだ……。こうなったら相手が誰であろうと手加減しねえからなっ!」

 椿はそう叫ぶと、を探り始めた。

 これの正体……一体何者なんだ……由衣でないことは確かだ。あいつの気配は何もない……。こいつは由衣の声を使ってる、ということは一度でもあいつに接触したことがあるということだ。

「由衣に関すること……」

 椿は彼女にまつわる何かを探る。記憶を辿り、由衣と出会った時からの出来事を思い出していた。

 初めて会ったのは彼女が椿に依頼したとき……。あれは解決した。その後からは彼女を助手にし、様々な事件を相手にしてきた。行方不明事件、児童誘拐事件、交通事故、どれも椿の能力ちからが必要なものだ。

 今回は由衣自身が神隠しに遭った。つまり、神隠しに関係が……その時、ふと彼の頭の中で何かが繋がった。

「待てよ……あの時、あいつは夢を見てた……。でもあれは、こっくりさんをしてる美咲ちゃんの夢だ……五円玉が指した文字……確か“あのよだ”だった。あのよ……かっ!それで今、あいつがいるのが……」

 そう、由衣がいるのはあの世だった……。

「これで繋がったか……最初から繋がってたんだ……。こうなるのが嫌で、あいつを巻き込むのが嫌で……」

 椿は後悔する。しかし今、目の前にいるを何とかしなければならない。

 と由衣の繋がりを何としても見つけなければ……。必死に繋がりを探す。けれど自らの腹部から流れ出る血が、思考を妨げる。

「くそ……」

「自分がやられるなんてまだまだ甘いな」

 どこからか声が聞こえる。振り返ると陽行が立っていた。

「父さん……どうして……」

「お前に渡していたお守り、あれにはお前の思考全てを私に伝えられるようにしてあったんだ。だからここに来てからのこと、全て私は理解している。……椿、助けようか?」

 椿は「助けてくれてもいいけど……?」と素っ気なく答える。その意図を汲み取った陽行は手を伸ばし、椿を立たせた。そして「彼女のとの繋がりだろう?だったらあるんじゃないのか?一つだけ。いつもそこにあって、彼女をよく知ってるもの……」

 椿ははっとした。

「まさか……でもそんな……」

 彼はそう呟くと、を見た。すると、は徐々に本性を現し始めた。重低音の唸り声を上げながら、形を変えていく。少しずつ全容が見えてくる。

 目の前に現れたを見て、椿は言葉を失った―――。

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