4−5

 イヌイさんはプールのあちこちを自由に泳ぎ周り、僕は半分溺れながら水面を叩いた。何十分、何時間とそうしていたかわからない。時間の感覚がまるで消えていた。プラグインが掻き立てる罪悪感は、認知できないほどに薄まっていた。

 僕は疲れて、体中の力を抜いて仰向けで水に浮かんだ。イヌイさんも背泳ぎをやめ、同じようにしていた。僕たちは暗い水面に揺れる漂流物となった。

「謝らなければいけないことがあるんだ」と、僕は真っ暗な夜空を見上げながら言った。

「許さない」水音の向こうで、イヌイさんが言った。

「まだ何も言ってないんだけど」

「大体わかるよ。許さない。深く傷ついた」

「ごめん」僕は言った。

「謝ろうと思ったのは、君の気持ち? それとも、?」

 少し考えるけど、答えは出なかった。

「ごめん」僕は繰り返した。それから、「でも、自分の意思だと信じてる」

「自分の意思だと信じてる」イヌイさんがなぞるように言った。「そうだよね。そうするしかないもんね」

 穏やかに水を押すような音がした。さざ波が、浮かんでいる僕を揺らした。

 闇の中でイヌイさんが浮かぶのをやめ、立っているのが見えた。僕もプールの底に足をついた。

「わかった、許すよ」彼女は言った。蒼い瞳が、すぼめた肩が、笑みを浮かべた顔が、段々と見えるようになってきた。

 水面に、仄かな光があった。

 光の粒が浮かんでいた。すぐにそれが、空にあるものの反射だと気づいた。

 見上げると、真っ暗だった空いっぱいに星が広がっていた。大きさも色も眩しさも様々な、一つとして同じもののない星々が、空の隅々にまで敷き詰められていた。

 それらは僕の視界を、意識を満たした。僕は呆けたように口を開けたままだった。いや実際、呆けていたのだ。こんな光景が今まで頭の上に広がっていたことに。それに全く気づかなかった事実に。

 気づこうともしなかった自分に。

 イヌイさんが、濡れた手を差し出してきた。水を滴らせる白い手は、星の光を受けて輝いて見えた。

「仲直り」

「あ、うん」

 その手を取ろうとして、彼女の手から腕、肩から顔へと目で辿った。

 光を湛えた瞳。輝く唇。

 濡れたままのイヌイさんを見ていると、心臓を誰かに握られているような苦しさを覚えた。嫌ではないけれど、ずっと感じていたくもないような感覚。だけどなくなってほしくないとも思う——自分でも上手く整理がつけられなかった。

 ただ、靄のように滞留する気持ちを形にしたいという思いはあった。だから僕は言った。

「あの、イヌイさん」

 そこから先が続かない。頭の中の引き出しを片っ端から開けて言葉を探していると、先にイヌイさんが微笑んだ。

「そっちの方がいいよ」

 彼女の手が、僕の胸を押した。抵抗する間もないまま、僕は水面に、仰向けで倒れた。

 抵抗する気持ちは起きなかった。何か問いたいとも思わなかった。ただ、たゆたう水に体を預けた。

 水音に包まれながら、途方もない星空を眺めた。

 いつまでも。

 いつまでも。

 そうしていたいと、心の底から思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る