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 その日はどうやって帰ったのか、よく覚えていない。びしょ濡れのまま帰ったはずだし、両親は前以上に心配して大騒ぎになったはずだけど、大した記憶が残っていない。特に何も感じなかったか、人生で度々起こる些事の一つとして処理されてしまったかのどちらかだろう。

 それよりも、イヌイさんとの別れ際のことの方を覚えている。といって、こちらも大して劇的なものではなく、その平凡さ故に印象に残っている。

「じゃあ、また」

「うん、また」

 校門の前で、僕たちはそんな風にして別れた。水気を含んだ自分の足音を聞きながら、僕は次の日もイヌイさんは学校に来るような気がしていた。

 もちろんそんなことはなく、翌日から僕の隣は空席になった。夏休みが来て、二学期になると席替えがあって、空いた机は教室から運び出された。それでイヌイさんのいた痕跡は完全に消滅した。

 僕たちが掃除したプールは、夏休みの間はもちろん二学期になっても使われた。九月でも暑さが収まらないので、体育の授業が全て水泳になったのだ。

 プールにはロープが渡され、六つのコースに区切られていた。それぞれのコースにはクラスメイトたちが何人かずつに分かれて並び、教師の吹くホイッスルに合わせて水に飛び込んでいく。クロールで水を跳ねながら、反対側の岸まで泳いでいって水から上がる。何かを大量生産している工場のような規則正しさがそこにはあった。

 僕の番がやってきた。

 飛び込み台から見下ろす水面は日射しを受け、鱗状の光を揺らしていた。それは、あの夜とは何もかもが違う水面だった。イヌイさんもいなければ、自由に泳ぎ回る余地もない。星だって映っていない。

 だけど、僕は知っている。

 僕たちの頭の上には、夜と昼とを問わず数え切れないほどの星が浮かんでいることを。

 目をつぶると、あの時の星空が見えた。僕を包んだ水音や、イヌイさんの笑みも蘇ってきた。

 笛が鳴る。

 僕は瞼を上げた。


〈了〉

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おりこうさん 佐藤ムニエル @ts0821

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