第19話 音の亡き世界で

10年前、世界から突然音が無くなった、人々は慌てふためき、世の中は大混乱に陥った。手話や読心術を学ぶ人たちも増えたが、アナログな私は未だに筆談であるが故に、いつも大量の紙を持ち歩いている。私はプロのJAZZベーシストで、色んなアーティストの公演をサポートしてきた。世界から音が無くなっても、音楽というカテゴリーは存在し、音楽系の番組では、音符をテロップに流すようになったが、音符を読める人間など、極めてマイノリティな少数派で、大半の人間は、音楽を奏でる者たちのバックにいる音筆家たちが、紙に音を畫き表現しているのを目の当たりにして楽しんだ振りをしているだけだ。事実、世界から音が消えてから、音楽を愛するアーティストや評論家、ミュージシャン、作曲家、編曲家、音楽インストラクターなどは、ほとんど姿を消した。筆談をする者が増えてきたことで紙の値段もだいぶ高騰し、普段から糊口をしのぐ生活を送っていた私は、出来るだけ文字を小さく書き、紙の表裏を使い込んだ。今宵のライブハウスでのLIVEでも、アルトサックス奏者の音筆家が姿を見せないことで、バンド内で喧嘩が勃発した。音符が読めない人が大多数の中、音を筆力で表現できる音筆家の存在は誠に貴重なのである。ただでさえ紙の高騰で嘆いているのに、紙に悪口を書いて罵り合うのは無駄な浪費でしかない。音が無くなってからは、人々は紙に書いて議論するよりも殴り合う傾向の方が増えた。私にしても音が無くなったからといって、手話や読心術、口語などのコミュニケーションツールを覚えようとする気はまるでなく、書いては消して使っているA4のコピー用紙や、裏面の白いチラシを持ち歩いている毎日である。今朝もクルマでライブハウスに向かう際に大渋滞に巻き込まれた。どうやら先頭にいるトラックのドライバーが居眠り運転をしていたようで、クラクションを鳴らせないので誰も起こすことが出来ずに、運転手が目覚めるのを呆然と待っていたが、起きる気配もなく、私は仕方なくUターンして家に戻り、重いウッドベースを背負いながら最寄り駅へと向かった。電車内では次の駅のアナウンス等が無いため、私は目標の駅を見落として、結果的に大幅に遅刻した。リハーサルに参加出来ず、他のメンバーたちは怒り狂い、暴言の嵐を紙に書き込んでいた。私は即座に土下座したのだが、収まりがつかないのか、頭の上から蹴りが飛んできて、腹部も数名に蹴られた。髪の毛も引っ張られ、顔面を数発殴られた。議論する余地すらも無かったというよりもディベートで使う紙など生産性が悪いだけなので、皆が皆、暴力的になっているだけであった。音のない静けさは、平和ではなく、構造的暴力を生むだけの荒れた世界だったのだ。私はケースからウッドベースを取り出し、弦を指で掻き鳴らし、ベース特有の重低音をライブハウスに響かせたつもりであったが、音筆家が素人のせいか紙に書かれた音が頼りない。『ボン ボボン ボン ボン』違う、私の音はそうでない。ドウン ドドウン ドウンドウンだ!私は目配せをして、若い音筆家に音の違いを伝えたが、彼は理解出来なかったようだ。今日は未熟な音筆家ばかりのようで、ドラム担当やギター担当、ピアノ担当の音筆家はどれも音が柔らかすぎて、オーディエンスに音が伝わっていない。ただでさえアルトサックス奏者の脱退で音の厚みが無くなっているのに、これではコメディーバンドである。客からは紙に書かれた野次が飛ぶ。私の足元に『下手くそ』と書かれた紙が舞い落ちてきた。客は皆、私達の演奏を見ながら、A4用紙に好き勝手に書いていたが、そのほとんどは暴言であった。私はこの退廃した世の中で弾き続けることにほとほと嫌気がさし、気がつくと隣りにいるベース担当の音筆家の顔面を思い切り殴っていた。音筆家は鼻血を出して大の字に横たわっていた。オーディエンスやバンドメンバーたちは何が起きたのか分からず、ただおろおろしていた。私はウッドベースのネックを両腕で抱え込み、大きな斧を振り回すかのように客席へ向かい、ウッドベースが完全に粉砕されるまで客達をひたすら殴り続けた。それにしても世界は相変わらず嫌になるほど静かだ。私は血まみれの壊れたウッドベースを抱えて散歩に出かけることにした。あちらこちらからパトカーのパトライトの光がチカチカと光っているのが見えた。それはとても眩くて美しい光だった。

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