第20話 牛丼屋の傀儡

40代半ばで独身である私は一人でご飯を食べることが非常に多くて、何年か前までは同僚や友達らと食事をする機会も多かったのだが、多くは退社したり結婚したりして、自然と減ってしまった。20年以上一人で暮らしていると、自然と足はいつものお店へと向いてしまう。残業で深夜になり疲れている私はいつも牛丼屋のチェーン店『牛の家』に向かう。ここは店主なのかアルバイトなのか知らないが、50代後半くらいのおじさんが一人で切り盛りしている。ワンオペとかいうやつだ。牛丼だけでなく、親子丼に豚丼にカレーライス、季節限定のうな重などもあったりする。深夜でも若者たちが大勢入ってきて、一気に注文を課されても、おじさんは怯むことなく全ての注文を一人で処理していく。私はいつもこの風景に感動してしまう。私はほぼ週五日くらいのベースで来ているのだが、このおじさんの私に対する微妙な距離感が心地よく、かと言って無愛想なわけでもなく、自然な空気感が気に入っていた。世間話一つしないが、元来無口である私にはちょうど良い塩梅なのだ。仕事を終えて深夜2時に、いつもの『牛の家』に入ると、客は私一人、おじさん店員も一人で、店内は二人しかいない状態ではあったが、かといって間を気にするでもなく、おじさん店員は軽快な手さばきで皿を洗っていてカチャカチャいう音が心地よく感じた。私は週五日来ていながらも、お馴染みのメニューなどなく、毎回違うものを頼んでいた。『お決まりになりましたら、呼んでください』とお茶を置いてくれた後、おじさん店員は笑顔を見せて厨房へと消えた。決めた!本日は牛丼特盛つゆだく半熟玉子をトッピングしよう。『すみませーん』と声をかけると『あいよー』というおじさん店員の威勢の良いかけ声がこだました。おじさんとは一切話はしないけど、この人ならば心を許していいと勝手に決めていたし、許してもらえるならラインの交換をしたいとも思っていた。もしかしたらおじさんはガラケー派かな?って思ったりしたけど、会社の人に電話するのにiPhoneSEを使用していたので私は意味もなく安堵した。注文をするとおじさんは、オリンピックを目指してるのかと思われるくらいに軽快な動きで牛丼を用意してくれた。カウンターに置かれた牛丼を目にした瞬間に、私は目を見開く程に驚いた。いつもの量よりもかなり大きくボリュームもあった。私はおじさんに驚いた表情を見せると、おじさんは少し照れたような顔で『ちょっとしたサービス、いつもありがとうね』と言われた。想定外のおじさんの親切に私は思わず涙ぐんでしまった。何故かおじさんもうっすらと瞳に涙を浮かべていた。涙腺がお互いによく似ているのだろうか?『お兄さんは、サラリーマン?』今まで此処に来ていながらもまともに世間話をしたこともないので、おじさんの唐突な質問に、私は紅生姜を落としてしまいそうになった。『はあ、まあ…』と私はおじさんに対し、作り笑顔で曖昧な回答をした。『大変だね、良かったらこのスープもどうぞ』と今までに見たことのない色合いのスープを出された。断るのも野暮だと思い、出されたスープを両手で受け取った。スープは緑色をしており、ドロドロてしていて臭いもキツかったが、一口飲んでみると、身体中がほんのりと温かくなった。『美味しい、ありがとうございます』私はおじさんに素直に御礼を述べた。

『人間はさ、空に鳥、海川に魚、山に獣がいることに感謝しなきゃいけないね。でないと人間が人間を標的にする世の中になっちゃうもんね』急に怖いことを言い出したなと思いつつも、私はおじさんの話は聞きたくて箸を置いて先を促した。『お兄さんはツキノワドンというのはご存知?』『ツキノワ丼?ですか?初耳ですね』私は聞いたことない丼の名前を再び繰り返しつぶやいた『ツキノワ丼…』おじさん店員は、笑顔で手刀を振り回し、私のつぶやいた言葉を否定した。『違う違う、違うよお兄さん、ツキノワドンは丼ぶりじゃなくて、何ていうかなあ神様のような存在?熊のようであり、はたまた大型生物のようであり、とにかく謎の生物』なんか月刊ムーが気に入りそうなネタだなあと思いつつ、私は紅生姜をたっぷりかけた牛丼をかっ込んだ。『このところね、北海道やら東北の方でやたら行方不明者とか取り沙汰されてるじゃない。それもツキノワドンの仕業じゃないかとか言われてるの』私はおじさんのオネエ口調も気になったが、何より牛丼食べながら聞く内容じゃないよなあと、すっかり冷めきった牛丼を眺めながら大きくため息をついた。『さながら初代GODZILLAのようであり、超越的であり、超自然的な存在として、畏敬の念を抱かれるような存在。猛り狂う山の神というところでしょうか』おじさんの鼻息は荒く、まるで何かに取り憑かれたように語られていた。『何かの象徴みたいな漠然としたものですか?』いやいやとおじさん店員は首を振った。『ツキノワドンはいます!必ず存在しています』まるで某細胞が必ずあると言っていたリケジョのような言い方に、私は思わず吹き出してしまった。『しいて言えば「2001年宇宙の旅」のモノリスのような存在ですね。見てました?「2001年宇宙の旅」』『いえ、私はそんなに映画に興味はないので…確かスタンリー・キューブリック監督の作品でした?』『面白いですよ~ある知的生命体が作った種族探知機なんです』初代GODZILLAでもあり、モノリスでもある?いったいどんな存在なんだろうと考えていたら段々と眠気に襲われてきた。フシュッフシュッという声が地下から聞こえてきた気がした。ドカンドカンと何かが地下で暴れているような音もして床がギシギシと響いた。強烈な眠気のせいなのか荒ぶる獣の咆哮のようなものまで聞こえてきた。私は冷めきった牛丼を前にして深い眠りに陥った。どれだけ眠っていたのだろうか…目が覚めると私は牢獄のような薄暗い部屋にいて、灯がないのか、部屋全体が漆黒に包まれていて、両腕には手錠がかけられていた。ギチギチギチギチと不快な音が眼前から聴こえてきた。目を凝らすと檻のようなものがあり、その中に何かがいる。真っ暗な檻の中に…ブシュッ ブシュッ ブシュッ という異音と共に鼻息のようなものが降りかかる。それは鼻をつまみたくなるほど強烈に嫌な臭いを放っていた。途端に意識がどんよりと醒めて、身体がズシンと重みを増した気がした。壁を背にしたまま私は凍りついた。息を殺して耳を澄ます。ブシュッブシュッブシュッブシュッ暗闇の中で鼻息はいっそう荒くなる。目の前にいる生物らしきものは一体何なのだ。何故私は手錠に繋がれているのだろうか?身体が震えるような孤独と恐怖で、まんじりとも出来なかった。ぽたり、ぽたりと何かが滴る音がする。この手前にいる不気味な生物の唾液なのだろうか。足元の液体がネバついていて、甘ったるい匂いを放っている。カツンカツンという階段を降りてくるような音が響いてギイイという音と共に扉が開いた。同時に目を刺すほどの強烈なまばゆい光に思わず瞳を閉じた。ぼんやりとした表情で見上げると、眼前には牛丼屋のおじさん店員と、見たことのないような巨大な毛皮で覆われた5メートル超の熊のような化け物が檻の中で暴れ回っていた。『お兄さん、すみませんねえ、いつもウチの店をご利用くださっているのに、誠に申し訳ありませんねえ、本当に』私は何が申し訳ないのか全く理解出来なかった。怪物は大きな口を開けると、グオオオオと吠え、二本の大きな牙はゴルフクラブより長く見えた。おじさんは宥めるように檻を開けたとたんに怪物は飛び出してきた。怪物は巨大な手を伸ばし、私の身体をむんずと鷲掴みにし、荒々しく振り回し、高々と持ち上げて、強かに叩きつけた。気を失いそうな痛みで呆然とし天井を見上げると、怪物の口の中がくっきりと見えた。『すみません、すみません、ツキノワドンは牛だけでは物足りず、年に数回は生きた人間を与えないと、私が犠牲になるのです。本当に本当に申し訳ない。お兄さん、人柱になってください』おじさんがコック帽をとると、すだれのような薄い髪があらわになり、海藻のようにユラユラとしていた。この怪物が言っていたGODZILLAやモノリスのようなものか、おじさんはこの怪物に生の人間をこそこそと隠れ食いをさせていたのだ。意識は未だに虚構と現実を行きつ戻りつし、やり切れないほどの倦怠感に襲われていた。怪物が大きく口を開いたとき、漆黒の虚無に落ちてそのまま私は闇に飲み込まれた。

        完

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