第39話 幕間の番外:巴と信仁の後日談の後日談06

 深紅の190-2.3E16は、夕暮れの中央道を高井戸インターチェンジで降り、一度環八に入ってから五日市通り~吉祥寺通りと繋いで市街地を上石神井に向けて北上する。石神井川を渡って左折、すぐに早田はやた学院学生寮が見えてくる。

 正門横の車寄せに190が入るやいなや、左の前後ドアが開いて信仁しんじともえが飛び出してくる。トランクから自分たちの荷物を取り出し、挨拶も早々に二人並んで小走りに正門から学生寮に消えてゆく。

「……仲、いいわねぇ……さてと。どっかでなんか食べて帰る?」

「あ!じゃあアタシ『しゃぶ温』!」

「え~?あたし『きんぐ』の方がいいな」

「じゃんけんでもして決めときなさい、とりあえず出すわよ」

 姉の心配などどこへやら、たらふく肉を食う事しか頭にない孫二人に苦笑しつつ、まどかはクラッチを踏んでギヤをリバースに入れた。


 学生寮の食事は、基本的に数が決まっている。

 通常授業期間は在席生徒数に若干の+αを見込んでいる――平日の朝食と夕食は、食べても食べなくても寮費に組み込まれている――が、休日で食事を摂る生徒数が読めない時は、自己申告制の予約が必要になる。つまり、朝食なら前日の夕食時、夕食なら直前の昼食時に備え付けの端末での登録が必要になる。なお、休日分の会計はICカード化された生徒証により、月末締め翌月払いでまとめて請求される。

 無論、必ずしもその時点で登録出来ない事もあるから、直前申告でも対応してもらえる事もあるが、どれくらい前まで受付けてもらえるか、そもそも可能かどうかはその時になってみないとわからない。

 まどかによる突然の呼び出しによって一泊の外泊を余儀なくされた信仁と巴は、当然のことながら本日の夕飯の予約は出来ていない。そのため、円のベンツを降りた二人は、体に染みついた学生生活から半ば本能的に夕飯の予約に走っていた。

 荷物の多い信仁を玄関ロビーに残し、一泊分の着替えその他しか入ってない自分のボストンバッグを信仁に預けて食堂に走った巴は、しばらくして渋い顔で戻って来た。

「いや~……流石にこの時間はキツかったわね」

 寮の食堂の夕飯時間は18時から20時、今はその開始時間の45分前である。

「ダメ?」

「……あんたの分、大盛で頼んどいたわよ」

 俯いた渋い顔を一転させて朗らかに微笑みながら、巴が信仁に答えた。

「サンキューですあねさん、ちなみにメニューは?」

「ハンバーグ定食」

「あー……」

 学生の人数が少ない時、ハンバーグ定食は寮の夕飯の定番メニューの一つである。米を除く他の全てが冷凍あるいはレトルト食品で構成されるため、数の調整が付けやすいのがその理由だ。勿論、味も決して悪くはない。

「じゃあ、とにかく荷物置いてきやしょう」

「そうね。じゃあ、6時に食堂?」

「了解っす」


 在校生徒数千二百人ほど、その全員が、多少の時間差はあれど一斉にやって来る食堂はそれなりの大きさがある。混雑を避けるため、平日は1年生から三十分毎に交代制――勿論、厳密ではなく、他学年に混ざっても肩身が狭い以上のデメリットはないし、最後の三十分は制限無し――という暗黙の原則があるが、生徒数の減る休日は特にその縛りはなく、特に終業式卒業式を昨日終えたこの日は、卒業生でまだ寮に残っているのは巴を含めて男女合わせても十指に満たず、在校生であっても地方出身者は短い春休みを有効活用すべくとっとと里帰りしており、これまた普段の1割にも満たず、広い食堂は閑散としていた。

「なんか、変な感じ……寮に誰も居ないって」

 巴は、何の事はない自分も大盛にしていた定食の箸を休めて、ため息交じりにそう呟く。

「別に今までだって。姐さん割と休みも寮に居たっしょ?」

 地方出身者と違い、元々都内在住の巴も信仁も、季節の休みでも寮に居る事が多かった。何しろ、実家が築地の信仁でもここから家まで電車で一時間弱、東村山の巴に至っては歩く時間を含めても三十分かからない。自然、寮は自宅の自分の部屋の延長、みたいな感覚がある。

 大盛の上にさらに一山盛り重ねた――ハンバーグ定食は大盛にすると肉が二枚に米が大盛になる、たらふく肉が食いたい巴は、余分な米を信仁に押しつけていた――どんぶり飯をかき込む手を休めて聞いた信仁に、巴は答える。

「居たけどさ……何て言うか……ほら、夏休みとか、終わればみんな帰ってくるじゃん?人は居なくても、気配は残ってるって言うか。なんか、声が響くのよ」

「ああ、そういう事か……」

 気配の正体とは、音であったり、匂いであったり、温度であったりする事も多い。明確には認識出来ず、しかし体のセンサは何か存在を伝える、人狼ひとおおかみであるが故に人一倍そのあたりに鋭敏である巴の感覚は、寮の自室以外の多くが既に空き部屋になっている事を、扉を開けずとも肌感覚で感じ取っていた。

 その感覚自体は、信仁も理解は出来る。しかし、在校生であり、隣接する部屋が帰省中とは言え空き部屋になっているわけではない信仁には、今現在その感覚は実感としてはなかった。

「まーちゃんも里帰りしちゃってるし……」

 巴がまーちゃん呼びする、巴と同室で一学年下の横井真籬城よこい まがき――学年が違う生徒が同室になる事は珍しいが、真籬城には実は一年休学扱いで、入学年度は巴と同じである――は、従兄弟である横井寿三郎よこい じゅざぶろう共々里帰りしている、欧州に。

「……あたしも、明日には出るんだよなって思って、さ」

 ちょっとだけ寂しげに、巴は微笑む。

「……したら、これが寮の最後の晩餐っすか?」

「まー、そういう事ね。そうね、だったらもう少し張りのある晩メシが良かったかな?ステーキ丼かなんか」

 軽く混ぜっ返した信仁に、今度は曇りなく微笑んだ巴が乗っかる。

「ねーっすよそんなメニュー。でも、そうっすね、パーティってわけにも行かないっすけど、菓子なら少し買い込んであるから、姐さん、後で俺の部屋来ます?」

「あんたの部屋ぁ?」

 学生寮の女子寮は男子禁制、男子寮もまた然り。だが、女子寮のそれが鉄の掟であるのに対し、男子寮のそれは有名無実化している部分があり、単純に臭くて汚いから女子が行きたがらないだけ、という身も蓋もないオチもまことしやかに囁かれていた。

 それでも、これから夜だというのに男子の部屋に行く事に一抹の不安と不信を感じて眉をひそめた巴に、声をひそめて信仁が囁く。

「……一人で酒盛りしたってつまんないでしょ?ツマミも良いのがありますぜ」

「!」

 この後の行動を見抜かれた巴が、目を見開く。

「何驚いてんスか。残りものの酒、あんだけ鞄に詰め込んでて、俺が気が付かないわけないでしょうが」

 見られてなかったはずなのに。巴は、臍を噛む。今日の昼前、夕べの宴会で里の皆が飲み残したビールやらワンカップやら水割り缶やらを、円の許可の元、姉妹でしこたま鞄に詰め込んでいたのを、確かに銃の後片付けしていた信仁は見ていなかった、その場に居なかったはずなのに。

 先ほど、一時的に信仁に預けた自分のボストンバッグの、一泊の日用品&着替えにしては妙に重い&妙にゴツゴツする手応えから信仁が正解を類推するに至った事を、巴はまだ気付いていなかった。

「ここだけの話、寿三郎の奴、大体寝る前にワイン一杯飲むんすよ。だもんで、ツマミも常備してあって。俺は飲まないの奴も知ってるから、そのへんあいつノーガードなんスけどね。丸い氷作るのとかも有りまっせ」

 欧州生まれ欧州育ちの寿三郎にとって、ワインは水と同じ。巴は、寿三郎本人がそんな事を言っていたのを思い出した。

「まったく……まあ、言えた義理じゃないか。じゃあ、後で行くけど……変な事すんなよ?」

「『変な事』なんてしませんて。あ、点呼だけ上手い事やってくだせえ」

「あいよ」

 消灯時間の各室点呼は、生徒会執行部風紀委員の学生寮における仕事の一つである。元部長、並びに現副部長の二人に、その点については死角はなかった。


「そういやあねさん、卒業旅行行くって言ってませんでした?」

 自室で、勉強机のOAチェアに座った信仁が、半分ほど減ったペプシのペットボトル片手に巴に聞く。

「ん?うん、美羅みら結奈ゆなと三人で、二泊三日で京都大阪。明日の昼に東京駅集合なのに、明日の朝荷物まとめて部屋引き払って家帰って、それから荷物作り直して……もう、婆ちゃんのせいで予定狂いまくりよ」

勉強机を背にする信仁に向かい合う格好で、二段ベッドの下段に腰掛けた巴が、缶の水割りを開けたグラス片手に愚痴る。人気のない大浴場で長湯をした後の上気した肌から、甘いボディソープがほのかに香る。机の上のPCのモニタは、ネット配信の毒にも薬にもならないBGM代わりの番組が、小さめの音で流れている。

 元生徒会主計部会計委員長の鏡美羅かがみ みら、同じく元生徒会法務部書記委員長の紐緒結奈ひもお ゆな、これに元生徒会執行部風紀委員長の清滝巴きよたき ともえを足した三人は、公私ともに仲がよく、誰が呼んだか「スリーアネーゴス」の異名を持つ先代の生徒会の重鎮であり、その威光は三人揃えば生徒会長をも上回るとされる。

「うわ……くれぐれも、西の方で騒ぎ起こさんといて下さい」

「ちょっと。あたし達をなんだと思ってるのよ?」

「そりゃ、姐さんとウチの元部長と学院の女王っすから」

 サイドテーブル代わりに引っ張り出した袖机の上にペプシを置き、代わりにポテチを鷲掴みにしながら信仁が言う。

 これで何か起こらなければむしろおかしい、信仁の口調はそんな意図が見え見えだ。実際、信仁の属する――信仁は射撃部と兼部している――科学部の先代部長である結奈も、家庭科部先代部長にして近隣の学校のミスコン荒しと歌われ、今現在実際に読モを兼業している美羅も、尾ひれの付くような与太話には事欠かない。

「三人とも、見てくれだけならバッチリなんスけどね、スリーアネーゴスは中身が酷いから」

 自称、巴の腰巾着としてしょっちゅう傍に居た関係上、信仁はその三人が揃うと何が起きるかをよく知っている。

「早田のワルサーグロッキーに言われたかないわよ」

 その腰巾着コンビがどれほどとんでもないかを身に染みて知っている巴も、即座に切り返す。切り返して、袖机の紙皿の上の高そうなサラミ――寿三郎のツマミを失敬した――に爪楊枝を立てる。現生徒会執行部風紀委員長にして科学部部長の寿三郎と、副委員長で副部長の信仁も、学校内外を問わず「早田のワルサーグロッキー」で名が通っている、身長差はオリジナルと逆だが。

「やあ、ドロンジョ様にそう言われるとは光栄の極み」

「褒めてないわよ!そもそもそれ止めてよ!」

 その凸凹コンビと一緒に居る事が多い関係上、巴がそう呼ばれる事もままある。なお、本来ならそのポジションはマージョだが、インパクトの強さから周囲に誤認識されたまま今に至っており、また逆に事情を知る一部有識者はマージョ=結奈として区別して使ってもいる。

「たくもー……」

 唇をとがらせ、巴は部屋着のパーカーのポケットからタバコを取り出した。一度、信仁を見て、信仁が軽く頷いたのを確かめた後、キャメルの細巻きを一本咥える。

「……いつから吸ってるんす?それ」

 紙マッチで器用に片手でタバコに火を点ける巴を見ながら、信仁が聞く。

「……タバコ、嫌いじゃなかったわよね?」

 紫煙を一息吐いてから、巴は聞き返す。

「いやま、ウチは俺以外家族全員吸うんで、俺は吸う気ないけど嫌いじゃないっすよ」

「そう……あたしは、中二の時から、か」

「うわ、不良」

「うさい」

「で?」

「……あたしんちの隣に、その頃住んでたお兄さんの彼女さんがね、吸ってたの。その人がカッコ良くってね……その頃あたし、ちょっとやさぐれててさ、両親の事もあったし、妹達の事もあったし、自分の事もあったし。何しろさ、急に一晩で髪の毛この色よ?中一で学校入ってすぐでそれは結構キツくってさ、クラスメートとか父兄とか担任とか、一年くらい頑張って耐えてたけど、やっぱギスギスしちゃってたのよ。その頃にさ、お兄さん、前と変わらずに接してくれててさ。あたしがもっと小さい時から隣に居たから、それがすっごく嬉しくて、まあ心の支えだったのよね。でも、お兄さん、病気で急に死んじゃってさ」

 一息、巴は紫煙を吸って間を取る。

「学生じゃなかったと思うけど、何してる人だったのか、いくつだったのか、あたしもガキだったし、実は知らないのよ。彼女さんもしょっちゅう来てたけど、結婚してる風でもなかったわよね。でさ、お兄さんが亡くなる少し前、彼女さんに連れられて喫茶店に行って、少し話したのよ」

 巴は、右手の指にタバコを挟んだまま、丸い氷の浮かぶグラスに手を伸ばす。

「今思うと、進行性の、急性の血液ガンか何かだったみたい。ホントに急でさ。でね、彼女さんがね、言ったのよ。あたしは、あの人と過ごした日々は忘れない。楽しかった事は絶対忘れない。けど、ここで足踏みする気もない。だから、前に進むために、あの人を忘れる。矛盾してるけど、あたしの中ではそれが正しいって決めたんだって。それを巴ちゃんに聞いて欲しかった、あの人を好きな巴ちゃんに、って」

 グラスに残っていた水割りを、巴は一気に空ける。

「それだけ言って、彼女さんはお店出てったの。かっこいいって思った。多分、その後の泣き顔をあたしに見せたくなかったんだと思う。飲みかけのコーヒーと、火の付いたタバコがそのまま残ってて、その時、始めて吸ったの、それを。そうすれば、彼女さんみたいに強く、カッコ良くなれるかもって」

 苦笑して、軽く吸った紫煙を吐いてから、巴は続ける。

「妹達の手前、突っぱってたからね、その頃のあたし。その時の彼女さんが、その頃からあたしの理想になってるの……今でも覚えてる、その時、彼女さんが店から出てく時の、カタナの音……そう言えば、誰かの後ろ乗ったのって、あの時、お店に連れてかれる時だけだったっけ」

 遠い目で、巴は言う。

「そう、彼女さんはカタナ乗ってた……あのね、あたしのCBXはね、実はそのお兄さんの形見なの。免許取ったら乗らせてくれるって約束だったけど、約束守れそうにないから、迷惑じゃなきゃ僕の代わりに乗ってやってくれって」

 軽くため息をつき、言葉を切った巴は、ちょっとだけ悪そうな顔になって信仁に流し目をくれてから、続ける。

「多分、あれがあたしの初恋……どうよ?妬ける?」

 たまにはこれくらい。いつも割とからかわれる事が多い巴の、信仁への仕返し。酒が入って多少舌が軽くなっている巴は、普段なら滅多に言わなそうなそんな事を、口にした。

「……妬けるさ、そりゃ」

 OAチェアから腰を上げた信仁は、残っていたペプシをラッパ飲みしてから、巴の隣に腰を下ろす。

「けどそりゃ、昔の話だ。それと姐さん、忘れてるぜ」

「何?」

 間近で信仁の目を見ながら、巴は聞き返す。

「ついこないだ、俺の後ろ、乗っただろ?」

「……そうね、そうだったわね」

 言われて、巴はその時の事を思い出す。思い出して、グラスを置いて、巴はタバコをもみ消し、空になった水割りの空き缶の中に落とし、目を伏せる。

「……もう、変な事思い出させるから……」

 伏せた目を上げる。気怠げに垂れた目が、潤んでいる。

「……寂しくなっちゃったじゃない……今日でここも最後なんて……思ってもみなかった……みんな、居ないし……」

「……そうか。だから、みんな卒業すると『せーの!』で出てくんだな。一人だと、寂しくなっちまうから。卒業式って、そういう事なのか」

「そういう事、なのかな……もう、全部婆ちゃんのせいだ」

 こんな事なら。もっと早く、打ち明けておけばよかった。もっと早く、受け入れておけば、認めていればよかった。そんな思いが、巴の中で渦巻く。この程度のアルコールで酔うはずはないのに、急に体の芯がカッカしてくる。

 がさりと、荒々しく、巴は頭を抱き寄せられたのを感じる。その荒々しさが、妙に心地よい。巴は、目を閉じる。

「俺は、居るよ。今も、これからも、ずっとな」

 信仁の声が、頭の上から聞こえる。

「約束だからね?」

 信仁の胴に腕を回しながら、巴は聞く。

「ああ、約束だ」

 いつもと同じ、飄々とした声。いや、少しだけ、熱量が違う気もする。

 その違和感に、巴は薄目を開け、信仁を見上げる。

 そこに、いつも通りの、いや、いつもより強い瞳を見つけて、安心して巴は再び目を閉じる。

 重なった唇を、重なった体を、巴はごく自然に受け入れた。


 -※-※-※-※-


「……姐さん」

「……何……」

「ふと思ったんだけど」

「?」

これ・・ってさ、やっぱ、跡形もなくすぐ治っちゃったりするのかな?」

「え?これ……って、え?な、知らないわよバカ!」

「……そうか。よし、じゃあ確認しよう。これは科学だ、手貸してくれ姐さん」

「え!?ちょ、ま、や!し、ん!……」


 仲良き事は、美しき哉。


------------------------

今回のお話しには直接関係ないんですが、この話のプロットを思いついた時に書いた落書きが出てきたので、https://www.pixiv.net/artworks/92409993に投稿しました。

ホントの落書きで、ルーズリーフにアタリだけ付けたコンテですが、よろしければご覧下さい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

何の取り柄もない営業系新入社員の俺が、舌先三寸でバケモノ達の相手をするはめになるなんて。(第二.五部)幕間 あるいは新年会の宴の席にて。 二式大型七面鳥 @s-turkey

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ