25. 慟哭

「社長、急にどうしたんだ?」


 皆が帰った後の事務室で、ぶっきらぼうに声を掛けてきたのは佐橋だった。社長の俊彦にこんな物言いが出来るのは、あの頃の先輩たちしかいない。


 八十歳を迎える前に一度退職した佐橋は、再雇用の職人頭として今も工場に立っている。職人頭を譲ってもらえなかった輝邦は佐橋の後任として専務になった、輝邦は職人よりも経営のほうが性に合っていたらしく、それ以来工場には出ずに経営に専念している。


「すみません。急に休んでしまって」


 俊彦は弟子だった頃と同じ口調で答えた。他に誰もいないと気持ちはどうしてもあの頃に戻ってしまう、それだけ佐橋の指導は体に染みついていた。仕事を休んで山里に行った理由を、俊彦は会社にも家族にも旅行としか伝えていなかった。


「俺はいいが部下たちが困るだろう、社長にはシャンとしてもらわんとな。まあお前もずいぶん働いてるから、息抜きぐらいはかまわんけどな」


「僕がいなくても大丈夫ですよ。輝邦さんがいますから」


 お世辞ではない、輝邦は銀行や取引先の受けがすこぶるいい。気が短い父親と若い弟子たちの間を長く取り持ってきたせいか、愛想笑いか地なのか、たぶん本人も分からなくなってしまっただろう笑顔が、どんな相手の心も解きほぐしてしまうらしい。


 ここ一番の駆け引きをしなければならない時、俊彦はどうしても身構えてしまうが輝邦は笑顔を絶やさない。どんな難題を吹っかけられても笑顔を崩さない相手には、大抵の人が根負けするようで、輝邦が相手をすると、頓挫していたはずの案件もいつの間にかまとまってしまう事が多かった。


 輝邦は職人としての腕は佐橋に一生かなわなかったかもしれないが、会社経営にはおそらく俊彦や佐橋よりも向いている。一方で俊彦は職人には向いていたかもしれないが、経営に向いているとは自分でも思えなかった。


 両方をうまくこなしていた先代の偉大さを、俊彦は会社を継いでから痛いほど思い知らされた。会社が今の規模になれたのも、先代が生前に残してくれたもののおかげが大きかった。


 その先代は俊彦が工場に入って七年目の冬、突然死んだ。父親と同じ脳卒中だったが、先代は父親と違って一度目を生き残る事ができなかった。


 次の土曜日も俊彦は車に乗って家を出た。月曜日はあらかじめ休みをとった。修行時代からの癖で滅多に休みをとらなかったから、二週続けて休みを取ると知った役員たちは健康の心配をしたようだ。

 東北に顧客になってくれそうな会社があるから見に行くだけだと咄嗟に出まかせを言うと、営業担当の役員が、それなら休みをとる必要はない、一緒に行くと言いだした。


「いや、実はそっちはついでみたいなもので、本当は田舎で珍しい鳥でも見てこようかと思って。半分以上は骨休めなんで自分の休みで行きますよ」とできるだけ軽い調子で言ってみると、かつては強引に飲み代を置いていった役員も、しぶしぶだが帯同を諦めてくれた。


 最初の夜は山里の手前にあるスキー場のホテルに泊まった。スキー場のホテルだから夏は空いているだろうと思ったが、予約には少し手間取った。


 あの頃、スキー場のホテルは冬だけで一年分の売り上げを稼いでいた、雪がない時期は夜になっても部屋の灯りが点かないから、客がいないことはすぐにわかった。


 あのスキーブームはいったいどこへ行ったのだろう、日本中の若者が、ディーゼルエンジンの四輪駆動車に乗って全国のスキー場に押し寄せていた。山には昼も夜もユーミンの歌声がこだまして、リフト乗り場では数百人が列をなしていた。


 高くて美味しくないと評判だったゲレンデのレストランがいつも満席で、スキー場のある山は夜になるとナイター照明で山全体がクリスマスツリーのように輝いていた。休みの前日はナイターが終わると花火が打ち上げられ、近くのホテルは恋人たちでどこも満室だった。


 それがまるで夢から醒めるように消えてしまった。スキー客のいなくなったスキー場とホテルは、生き延びるために雪の無い時期も本気で稼がなければならなくなった。


 ホテルの駐車場に車を入れると、すぐ近くの空中を人が飛んでいった。ワイヤーを使った流行のアクティビティーだとパンフレットには書いてあった。

 ホテルには開業時からあると言うローマ風の大浴場の他に、最近人気がある露天の岩風呂が作られていた。夕食のビュッフェはカニが食べ放題だった、どの港からも遠い山の中なのに。


 翌朝ホテルをチェックアウトすると山里へ向かう道に出た、アトランティスはその途中にある。ランチタイムまで待って前と同じ路肩に車を停めた、店には日曜でも六割がた客が入っていた。双眼鏡で覗くと、お盆を持った女性が厨房の暖簾をくぐって出てくるのが見えた。


「あっちゃん!」


 思わず声が出た、記憶よりも少しふっくらとしている。しかし秋子だ、今の秋子だ、絶対に間違いない。


 秋子が動いている。歩いている。笑って……お辞儀をしている。


 そんな当たり前の事がいちいち信じられなかった、俊彦は秋子の動きの一つ一つを魅入られたように見つめた。短いランチタイムが終わって店先の暖簾が仕舞われると、秋子は駐車場に駐められていた白い軽自動車に乗って、山里の方角へと走り去った。追いかけようと思ったが考え直した。

 秋子の車が見えなくなってすぐ、俊彦はアトランティスの駐車場に車を入れた。引き戸を引いて奥に向かって声を掛けた。


「ごめんください!」


 少し間をあけて覚えのあるサンダルの音がした。厨房の暖簾を分けて出てきたのは秋子の母親だった。髪は全体が白く眉にも白いものが目立っている、あの頃四十代ぐらいに見えたのだから今は七十歳近くだろうか。腰はまだ伸びているがあの頃よりもだいぶ痩せている。彼女は言った。


「ごめんなさい、五時半までお休みなんですよ」


「あの、ご無沙汰しています。僕のこと分かりますか?」


 俊彦がそう言うと、秋子の母親は、俊彦の顔をしばらく見た後、突然両目を見開いた。


「ああっ、あなた!」


「本当にご無沙汰しています。前を通りましたので、懐かしくてご挨拶だけと思って」


「あ、あら、あらそうなの。それはご丁寧に。ど、どうぞ」


 何故だろう、様子がおかしい。仲の良くなかった同級生に同窓会で親しげに話しかけられた時のような歯切れの悪さと白々しさ。


 母親は冷水を持ってきて言った。


「ごめんなさいね、秋子なら、さっき役所に出かけたばかりなんですよ」


 俊彦の顔から一気に血の気が引いた。


 知ってるのか?――。


 そうでなければ、母親が真っ先に秋子の名前を出すはずがない。あの頃、俊彦は秋子の母親に二人の関係を悟られないように、店では最後まで秋子にそっけなく振舞い通したつもりだった。


 舌が口の中に張り付いた、出された水を一口含んでも、口の中の乾きは変わらなかった。

 娘が母親に自分の恋の話をどれだけするものなのか、男親の俊彦にはわからない。だが冷静に考えれば二人はけして円満に別れたわけではなかった、秋子から見たらあれは俊彦が一方的に秋子を捨てたようなものではなかったか?


 二人の時間が美しい思い出になっているのは、俊彦の方だけかもしれなかった。秋子にとってあれは辛く腹立たしい思い出なのではないか。

 もしそうなら、秋子は憎い男との出来事を、腹立ちまぎれに母親に話したかもしれない。なぜこんな簡単な事に今まで気がつかなかったのだろう。

 黙り込んでいる俊彦を見て、母親は口を開いた。


「本当は何しにいらしたんですか?」


 全身の汗が引くほど冷たい口調だった。いったいどこから、何から言えばいいのか、言いたいことはあるのに言葉が出ない。苦し紛れに口から出たのは、店主の事だった。


「ご主人がお倒れになったとか」


「ええ、でも秋子が手伝ってくれるので、店は閉めずに済みました」


 母親は俊彦の目をまっすぐに見つめたままそう言うと、少し間をとってからこうも言った。


「失礼ですけど、あなたは娘を……弄んで、捨てたんじゃないですか? それがなんで今さら……」


「いえ、僕たちはけしてそんな関係じゃありません!」


 それだけは即答できた。だが母親の反応は俊彦の期待とは違っていた。


「女と裸で抱き合っておいて、愛情が無かったと言うのですか!」


 憎しみのこもった強い口調だった、見開いた目が赤かった。そんな顔ができる人だとは思っていなくて、勢いに押されるように俊彦は腰を引いた。


「誤解しないでください、娘に聞いたんじゃありませんよ。あの娘はあなたの事を一言も言いませんでした。ただあの娘が結婚して家を出た後、押し入れにいろいろ置いていきましてね。あの娘、片付けは得意じゃ無いから崩れちゃって、拾い集めていたら目についたんですよ、あの頃あの娘が文通していた手紙が」


 そうか、あれを――。


「あの頃、毎月待ちきれなさそうにポストを覗きに行っていたあの娘が、急に文通をやめたんです。それから急に元気がなくなって、学校から帰ると部屋でふさぎ込んで……。外に出る事もあまりなくなりましてね。私、相手のお嬢さんと喧嘩でもしたのかと思ってたんですよ。役場に勤めだしてからは朝と夜しか会いませんでしたから、昼間あの娘がどう過ごしていたのかは知りませんでしたけど、やっぱりそれまでとはどこか違って、性格も変わってしまって。

 特別活発なわけではなかったですよ、でも真面目で勉強も出来る、私たちには自慢の娘だったんです。それがあんなに変わってしまうなんて……。文通の相手がどんな娘なのか、親が興味をもってもおかしくはないでしょう?。だから悪いとは思ったけれど読ませてもらったんです。そしたらまさか、相手があのバイクの大学生だったなんて……」


「でも、僕たちは本当に、その、そういう関係にはならなかったんです。僕は確かに彼女を愛していました、彼女も僕を愛してくれていたと思います。でも僕は……僕は横浜で家業を継がなければならなかった、家から離れられない理由があったんです。それで僕が迷っている間に彼女はここで就職を決めて……」


「あの子のせいだと言うんですか!」


「いえ、違います!」


「さあ、どうでしょうか。あなたからの手紙には、確かに別れるとかそういう事は書いていませんでした。最後まで仲は良かったみたいでしたけど、あなたからの手紙が急に終わっているように見えるのは、私が見つけられなかったからでしょうか?」


「……いえ、違います」


 そこまでは言えた、だがその先を継ぐには少し時間がかかった。


「僕が……返事を出さなかったんです」


 母親は眉をひそめた。


「なぜです。愛してたって言ったじゃないですか」


「書けなかったんです。なんて書けばいいのか、どうしてもわからなくて。そうしているうちに時間が過ぎて……。僕は秋子さんを愛していました、信じて貰えないのかもしれません、でもそれだけははっきりと言えます。でもこの土地が好きで離れたくないと思っている彼女をここから引き離す事が、僕にはどうしても出来なかった。それにあの頃の僕はまだ家業の見習いにもなっていませんでした。大学を卒業して長い職人修行をして、従業員の生活を支えられる人間にならなくてはいけなかった。もしあの時、彼女が僕の家に来てくれると言ったとしても、あの頃の僕には秋子さんを支える力は……残念ですけど……無かったと思います。それに」


 そこまで言って俊彦は黙り込んだ。長い沈黙の間、母親は俊彦を睨んだまま一言も発しなかった。その視線にいたたまれなくなったように俊彦は言った。


「僕は、彼女を変えてしまう事が怖かった」


 もしあのとき秋子が里を捨てて都会に来てくれたとしても、彼女はあのままでいてくれただろうか。彼女が都会の人間に変わってしまったら、好きになった女性がこの世界から消えてしまうとしたら……。

 だが今ならわかる。生きていれば誰だって誰かと関わって変わって行く、その中でも寄り添って一緒に変わっていく約束を交わした者こそが夫婦なのだと。それがあの頃の俊彦にはまだわかっていなかった。


「僕は目を輝かせて里の自慢話をする秋子さんが大好きでした。好きで好きで、たまらなかった……」


 膝の上でそろえた手の甲に涙が落ちた、俊彦は頭を抱えて叫んだ。


「僕はあっ、あのままの彼女でいて欲しかったんです! 僕と一緒ではだめなのなら、せめて彼女が好きな人を見つけるまでは、そのままの彼女でいて欲しかった。それが彼女のためになるんだと僕は信じ込んでいたんです。だから好きなのに、あんなに好きだったのに、身を引くなんて馬鹿な、馬鹿なことを。僕は! 僕は!」


 俊彦は頭を抱えて泣いた、社長まで務めた大の大人が他人の前で大声をあげて泣き続けた。あの時どうすることもできなかった自分の愚かさが憎くて、次々に湧き上がる、けして取り戻す事ができない日々への激しい悔恨が、俊彦の心臓を今にも押しつぶそうとしていた。


 思い切り泣いて涙もつき始めた頃、顔をあげると目の前にいる母親が、まるで俊彦がそこにいないかのように、真っ直ぐ店の外を見つめていた。

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