26. うつろい

 ちりん、ちりん、


 俊彦の後ろで鈴が鳴った、振り返ると戸口に誰かが立っていた。秋子だった。


「……忘れちゃった、とって来る」


 秋子は振り返ったまま動けなくなっている俊彦を厳しい目で一瞥すると、そのすぐ脇を速歩で通り抜けた。頬や顎の下があの頃より少しふっくらとしていて、目尻にはあの頃無かった皺がわずかに見える。

 秋子は厨房の暖簾をくぐり抜けるとき、一度立ち止まった、そして振り返りもせずに「帰って! 帰って! 帰って!」と大声で叫んだ。声が裏返るほど激しい叫びだった。


 俊彦は逃げるようにアトランティスを飛び出した。言葉に出来ない動揺が頭の中を支配して、車を走らせている間もずっと心臓の動悸は収まらなかった。

 気づくと車は山里に入っていた、脇道を見つけ車を停めるとシートを倒して低い天井を見つめた。息が落ち着くのを待って携帯電話を取り出した。


「ああ、この間のお客さん。ええ、空いてますよ。ええ、ええ、御夕食も簡単なもので良ければ出せますけど」


「すいません、今夜一泊お願いします。それで申し訳ないんですけど、もう近くまで来ていますので、先に車だけ停めさせてもらえませんか? お風呂に行っておきたいんです」


「ええ、ええ、いいですよぅ、どうぞどうぞ。ひと声かけてもらえれば、お部屋に荷物も置けますから」


「ありがとうございます。荷物らしいものも無いんで、停めたらそのままお風呂に行ってます。何時までに戻ればいいですか?」


「六時半から御夕食でよければ、いつでも大丈夫ですよぅ」


 宿に車を停めると、タオルだけを持って逃げるように歩き始めた。まだ誰もいない湯に浸かると、戸を開けて小屋の中を確かめる秋子の姿が、湯気のスクリーンに浮かんだ。そんな事はもう二度とないというのに。


 泣いて腫れた目元にタオルを当てて、湯気を胸いっぱいに吸い込んだ。透明な湯からまたあの頃の記憶が肌に染み込んでくるような気がして、心が思い出で満たされる前に湯小屋を出た。


 行くあてもなく里を歩いていると、すぐ近くの山に見覚えのある道を見つけた。道路わきの自動販売機で缶コーヒーを買って歩いて行くと、山側に石でできた細い階段が見えた。

 登ってみるとやはりあった、歌舞伎舞台だ。広場の入口に看板があって県の文化財だと書いてある、見た目は本当に記憶のままだった。

 あの頃二人で座ったのと同じ舞台の端に一人で座って、缶コーヒーを開けた。あの時はホットだったけれど今日はアイスだ。


 僅かな石階段を上っただけで干上がった喉を冷たいコーヒーが潤していく。いつの間にか耳の中であの晩の歌舞伎の音が鳴っていた。ほどなくあの日見たすべての光景が蘇った、裸電球と松明に照らされた秋子の白塗りの顔、美しい装束が透けていく幻影までが、俊彦の目の奥で忠実に再現された。


 どうして、こんな事になった。どうして……。


 後悔など無駄な事だとわかっていても思いは勝手に沸いてくる。俊彦はこうべをたれて、日が暮れるまでじっとそこに座っていた。


 翌朝は女将の声で起こされた。昨夜は民宿の一家総出の歓待だった、女将が急な飛び込みの俊彦に夕食を用意できたのは、一家の夕食に混ぜてもらえたからだった。


 この前は少し顔を見せただけだった宿の親父は、昼間は農業と土木をやっていると言った。同じ土木会社で働いているという三十代の息子は、食べながら手酌で日本酒を飲むのだが、その量が半端じゃない。明日の朝が早いからと息子が引っ込むと、親父が台所にいる女将に言った。


「ヤスヨォ、あれだあれ、あれもってきてくれっかぁ!」


 女将が新しい一升瓶をもって現れた。親父は辺り前のように俊彦にそれを勧めた。


「こいつぁ、とっておきなんだよ。あいつぁまだ酒の飲み方ってもんを知んねぐてよぅ、どんないい酒でも水みたいに飲んじまうんだ。もったいねぇからあいつがいるときゃ隠しとぐんだぁ。がはは」


「は、はあ……」


「こんなもん金なんがとんねぇがらあ、遠慮なく呑んでやぁ」


 もとより飲みたい気分だったから、ありがたく頂いた。酒の勢いで話し込んでわかったが、親父も女将も見た目はだいぶ年上に見えたが、実際の歳は俊彦と五つも違わなかった。若い頃の親父は春先によく崩れる林道の復旧工事もやっていたそうだ。


「じゃあ、僕もオヤジさんの隣をバイクで通ってたかもしれないなぁ」


「あの頃はほんとバイクが多かったがらなぁ。ほれぇ、あいつらこう、ピースってやっただろ? たまに面白がって返してやったりな」


「工事の人がですか! あっははは。そう言えばあの頃の工事の人は、工事中のところでもよく通してくれた」


「まあ路肩だけ崩れたところなんかはバイクなら通れっからな、今じゃあ無理かもしんねぇけど。最近いちいち細けぇ事にうるせぇ奴がいるからなぁ、あれだあれ、なんとかちゃんねるとか、エス……エスエム?」


「え? ああ、エスエヌエス?」


「そのなんだ、エスエムエム。何か書かれると役場とか会社が気にすんだよぉ。俺らぁ『そんなん、たいしたごたぁねぇよ!』って言ってんだけどな。まぁったくキンタマがちいせぇってぇか」


「やぁだもう、お客さんの前でお父さんったら!」


「あ? ああ、そうだぁな。ちっせえのは、つまんねぇ奴らの”ケツメド”だな。がっはっは!」


 一人で大笑いする親父の肩に女将が笑いながら鋭いスパイクを一発食らわせた。俊彦が話を戻す。


「一度、残ってる道幅が三十センチも無かった事があって。手前で迷ってたら工事のおじさんが『いいよ、行けよ行けよ』って言うんですよ、あんまりニコニコしてるから断れなくて、スピード上げて一気に走り抜けました。あっれはさすがに怖かった」


「あはは、お客さんもそんなことしてたのぉ」


「一応、若かったですからねぇ」


「まあな、あの頃ならやりそうだ、そりゃたぶん、俺の知ってるじっちゃんだろうなあ」


「誰よ?」


「おら、南橋の亀爺。あの爺さんなら……」


「あぁっははは! やりそうやりそう。あの人昔からなんでも『いいよ、いいよ』だもんねぇ。それで他人の借金まで被って田んぼ売っちゃって、もう奥さんカンカンで」


 女将が加わると、話題がどんどん広がっていく。


 訊くと親父と女将は二人ともここの生まれで、学校ではバレーボール部の先輩後輩の間柄だったそうだ。


 中学生の頃からなんとなく付き合い始めた二人は、女将が高校を卒業するのを待って結婚した。すぐに子供が生まれたので二人とも他所の土地で暮らした事が無く、お客から他所の話を聞きたくて民宿を営んでいるらしい。


 あの日、平日に急な一人客を受け入れてくれたのも、商売だけが目的ではないからのようだった。


 三人で飲んでいると、一本目の酒はすぐになくなった。親父は「これもいい酒だ」と言いながら、今度は自分で別の一升瓶を持ってきて、俊彦と女将のコップに注いだ。


 見たことのないラベルだから訊くと、地元にしか出回らない酒だという。勧められるまま常温で飲んだら、これが実にうまい。こじつければ軽いとかさっぱりとかいろいろ理屈は付けられそうだが、けして薄いわけではなく、口当たりはピリッと辛いが、遅れて口の中に旨味が広がり、飲み下すと香りが鼻に抜ける。


 一口含むだけでイワナやヤマメが跳ねる清流が頭に浮かぶような酒をこんな時に勧められたら、飲みすぎないほうがおかしい。


 夜中の二時を過ぎた辺りで、酔いが回って寝てしまいそうになった時、頭の中にふすまの向こうで包丁を研ぐ山姥(やまんば)の姿が浮かんだ。旅人に食事を振舞って寝入ったら喰ってしまうと言う昔話のあれだ。


 顔を見ると案の定女将だった。喰われてはかなわないと、朦朧としたまま部屋まで這って帰った事はなんとなく憶えている。


「お客さぁん、後でまぁたお風呂さ寄るんでしょぅ? 車置いてっていいからねぇ!」


 宿を発つ時、昨晩あれだけ飲んでいながら健康そのものみたいな血色をした山姥が、またそう言ってくれた。


 林道へ車を走らせると、川沿いに一軒の湯小屋が見えた。大水で流されたと聞いていたが、ほとんど記憶のままの姿なのには驚かされた。


 流された小屋の一つは男女別の新しい小屋に立て直されたが、残るもう一つは元の姿に復元されたというから、こっちがそうなのだろう。だがここまでそのままだとは思わなかった。


 かつての風情を残す古い作りの湯小屋は、各家が当たり前に内湯を持つ今となっては、懐古趣味の都会の客を温泉に呼ぶためのものなのだと思う。だがこの湯小屋の姿にはそれだけではない、愛着のある里の姿を残そうという思いがあるような気がした。


 女の子の三人組と会ったあの湯小屋はどうなったのだろうか。気にしながら走るうちに最後の集落が見えた。おかしい、ここに来る前に必ずあの小屋の前を通るはずだ。小屋のたもとにある小さな赤い橋もなかった、いったいどういうことだ?。


 最後の集落を抜けて林道に入った。砂利道だった林道はところどころ断続的に舗装されていて、工事はまだ続いているようだった。しばらく走ってもオフロードバイクには一台も出会わない。あの頃なら平日でもゼロという事は無かったのに。


 おかしな事は続いた。あの頃、キャンプ客やツーリングライダーで賑わった河原の入り口が、どれも盛り土で塞がれている。麓のキャンプ場にでも行けと言うことだろうか? だが下で見たそれらしい施設は草に埋もれて使われているようには見えなかった。


 作るだけ作ったがうまくいかずに放置される。田舎でよく見かける開発が、知らぬ間にここにも押し寄せていたということなのか。


 それ以上見るのが辛くなって、途中で引き返した。里に下りてわかったが、宿から林道までの道は新しく造られたバイパス道路だった。林道の先にある山が何年か前に国立公園に編入されたことは知っていた、林道が県道に格上げされたのも、舗装が進んでいるのも、もしかしたらそのせいなのかもしれない。


 バイパス道路は元は確か田んぼだった辺りをまっすぐに突っ切っていた、温泉場の中心部の細い道を迂回する格好だ。


 車で二、三度行き来して、やっと旧道の入り口を示す小さな看板を見つけた。もしあの頃も道がこうだったら、この看板には気づかずに通り過ぎていただろう。そしたら俊彦は里の湯に浸かる事もなく、秋子とは出会わなったかもしれない。


 脇道に入るとほどなく温泉場の赤い橋が見えた、通るときよく見ると手すりは赤ではなく錆び付いた茶色だった。


 三人組の女の子と出会った近くの湯小屋は雰囲気こそうまく残していたが、男女別の新しい建物に建て替えられていた。メインロードの座を譲った通りは、あの頃以上にひっそりとしていた。


 古いものは押しのけられ、新しいものがまるで昔からそこにあったかのように入れ替わる――。


 来る時に通ったあの新しい国道と同じだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る