24. 湯の里

 東北自動車道を降りて新しく開通した国道に入った。塩原の温泉街を過ぎて紅葉で有名な有料道路の前を通り過ぎたが、尻を痛がる秋子とそこを一緒に走った時の光景は、もうほとんど思い出せなくなっていた。


 峠を越えて谷間の道に下りると、国道の番号がいつの間にかあの頃走っていた道の番号に変わっていた。


 さっきの交差点から変わったのだろうか? だが道は直進だった、だとすれば脇から繋がったあの道がかつてバイクで走った日光から続く道なのだろうか? 新しい道が古い道に自然に繋がって、それまでメインロードだった道が脇道扱いになる。時の流れを否応なく感じる。


 特徴的なアーチ型の陸橋は記憶のまま残っていた、それをくぐって懐かしい峠道に入る。


 白タクの運転手に絡まれた駅を過ぎて峠を目指したが、あるはずの場所にあの赤いテントは見当たらなかった。代わりにあったのは知っていれば元は赤かっただろうと想像できる程度の白く色あせたテントだ。


 黄色かったカタカナ文字も色が飛んで、インパクトがあるはずのあの名前も「ア ラン   」としか読めなくなっていた。


 路肩に車を停めて、人けの無い店をしばらく見つめていた。入り口の脇に立っていた日本蕎麦屋みたいな看板も今は見当たらない、そんなわけはないのに違う店だろうかと何度も見直した。初めて見た時にこの店に感じた鮮烈な違和感も、今は片鱗すら見当たらない。


 峠を越えてしばらく走ると右手に郵便局が見えた、白い板張りの大正ロマン風の建物だった郵便局は、山小屋に似せた綺麗な茶色い建物に姿を変えていた。


 表にはATMがあることを示す緑色の看板がある、あの頃ATMはまだ都会の郵便局にしかなかった、通帳と印鑑さえあればここでも金はおろせたはずだが、そんな大切な物をキャンプツーリングにはもってこれないから、田舎に来た時は金を使うたびに財布の中身を数え直すのが癖になっていた。その癖も忘れてずいぶん経つ。


 郵便局の角を曲がって、路肩に車を停めた。横浜の家を出てからまだ四時間と少ししか経っていない。あの頃は東京からでも最低七時間はかかっていたのだから、狐につままれたような気分だ。


 サービスエリアで買った旅行ガイドを開いて、載っている宿の先頭から順に携帯電話で電話をかけた。一軒目と二軒目には平日の営業はしていないと断られたが、三軒目の民宿が急な話なのに夕食も出してくれると言うので、そのまま予約をして宿に向かった。


「さっき電話しました波多野です」


「ああ、お一人さまですねぇ。ようこそいらっしゃいましたぁ、どうぞぉ」


 五十代に見える話しやすそうな女将だった。試しに訊いてみた。


「この辺の共同浴場って昔のままですか?」


「はぁ、五年前の大水で河原の二つは流されましたけどねぇ、一つは建て替えて綺麗になって、男女別ですから観光のお客さんも入りやすくなってますよぅ」


「あの、川端の湯は?」


「あぁらぁ、お客さん、よぉくご存じでぇ。あれは大丈夫だったんですよぉ、川っぺりですけど少し高いですからねぇ。お風呂だけはいつだったかしらねぇ、作り直したと思いましたけど」


「二十年以上も前なんですけど、しばらくかよっていた事があるんです」


「あぁらまあ、そうですかぁ。あぁりがたいことでぇ、びっくりしたわぁ」


 あの頃は毎回空き缶に入れる百円玉と、ジュース代ぐらいしかこの里にはお金を落していない。ありがたいと言われても、こめかみの辺りがむず痒くなる。


 息子の輝彦が大学を卒業した日の晩だった。まだ化粧を落としていない詩織と、リビングで水割りを飲んでいたとき、詩織が突然つぶやくように言った。


「私、自分の人生が欲しいの」


 詩織が何を言っているのか、すぐには理解出来なかった。


「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ」


 やっと意味が分かって出た言葉がこれだった。だがそう言った口の中に、俊彦は覚えのある苦味を感じていた。


 聞いていたとしても、同じことだった――。


 もし詩織がもっと早く不満を言ってくれていたとしても、俊彦は真剣に聞きはしなかっただろう、その場はそれらしい神妙な顔を作って「わかった。いま忙しいから後で話そう」とでも言って、一人だけの寝室に消えたのではないか?。


 詩織は輝彦の世話をしながら会社の経理を懸命にこなしていた。俊彦もその頃はまだ生きていた先代も、詩織が商学部を出ていた事を唯一の言い訳にして、さも当然のように詩織に仕事を押し付けていた。


 詩織の我慢強さに頼り切って、俊彦は一度として彼女の心の内を知ろうとはしなかった。俊彦は先代がしたように従業員の生活を第一に考えてきたつもりだっだ、だが一番身近な人を顧みなかった。


 宿では久しぶりに仕事を気にしない静かな夜を過ごせた。平日に家に戻るのはいつも深夜だったから、いつの頃からか寝室も夫婦で別にしていた。


 詩織と話すのも出勤前と夕食後のごく短い時間だけになっていたが、経営者が誰よりも遅くまで仕事をするのは当たり前で、義務なのだとさえ思っていた。


 翌日、川端の湯に行ってみる事にした。今も午後が空いているのかと訊くと、チェックアウトの後になるのに、女将は宿の駐車場に車を置いていけばいいと言ってくれた。女将は自転車を貸すとも言ってくれたが、俊彦は丁重に断って歩くことにした。


 速足な部類の俊彦でも湯小屋までは七、八分ほどかかった。あの頃秋子が言っていた通りだ、いくら秘湯がブームとは言っても、温泉が引かれている宿に泊まりながら、ここまで入りに来る客はそう多くはないだろう。


 小屋の外観は驚くほど変わっていなかった。ただよく見ると屋根の色が違っていた。塗り直してもこれだけ古びて見えるのだから、やはり長い時が過ぎたのだ。


 入り口の引き戸を開けると懐かしい湯の香りがした、見覚えのあるコンクリートの浴槽もあった。だが何か違和感がある、脇を見ると脱いだ服を入れる木棚の端に、人が一人入れる程度の木の囲いが作られていた。最近はこうした湯小屋へも男女別の脱衣所を作るように指導がされているとは聞いていたが、その結果がこれだろうか。


 明治政府が外国人の目を気にして発布した裸体禁止令は、時代が三度変わっても名前を変えて法律の中に生きている。

 かつてのおおらかな温泉文化を知る人たちは、そろそろこの世から消える。わずかに残された遠い昔の生活の残り香も、こうして徐々に消されていく。


 服を脱いでかけ湯をする。あの頃は何か所か割れていた浴槽の縁が、今はどこも割れていない。女将が言った通り造りかえられたらしい。だがそれでも十分に古びて見えた。


 湯に浸かって足を延ばすと、秋子と一緒にここに浸かった頃の思い出が、白い湯気のスクリーンに映画のように浮かんで見えた。まるであの頃の記憶が湯に溶け込んでいて、肌を通して染み込んでくるようだった。


 扉の向こうで自転車が止まる音、引き戸を開けて覗き込む秋子の笑顔、かけ湯をする白い背中、長くて甘いキス……。


 拭っても拭っても涙が溢れてくる。どこにこれだけの水分があったのかと思うほど、涙はあふれ続けた。捨ててしまった愛がどれほど大きなものだったか、自分が無くしてしまった時の重さを、この湯は教えてくれた。


 癖のない透明な湯が肌から染み込んで、体が溶けて消えてしまうんじゃないかと思った。あんなに好きだったのに、あんなに大切だったのに、どうして、どうして……。


 いつの間にか来ないはずの人を待っていた。あの時、もう来ないと思って諦めようとすると秋子は来てくれた。それからはアトランティスに寄ると次の日には必ずここに来てくれるようになった。秋子は学校を早退してまで来てくれた。帰りは辛い上り坂なのに、少しでも長く俊彦と一緒にいるために、秋子は自転車を”ぶっ飛ばして”来てくれた。


 宿に戻ると、女将が庭の草取りをしていた。


「駐車場ありがとうございました。帰ります」


「お風呂どうでしたぁ、昔と変わってましたぁ?」


「違うところもあるにはあるんですけど、かなりそのままでした」


「そうですかぁ、地元の者しか入らんとこにゃ、お金をかけないんですよぉ、あっはっは」


 それでいいんです――。


 そう言いかけたが口には出さなかった。里のことは里の人たちが決める。余所者の出る幕はない。

 豪快に笑う女将は話好きのようだった、思いきって訊いてみた。


「高原駅に行く峠の途中に、昔からやってるラーメン屋さんがありますよね、赤いテントの」


「ああ、サトさんとこ。アット……アットランテ?」


 女将は秋子の母親を知っているようだ。そういえばあそこに店を開く前、秋子たち家族の家はこの近所にあったはずだ。


「あそこって今もやってるんですか? 帰りに寄ろうと思ってたんですけど、来るとき見たら閉まってたみたいで」


「ああ、サトさんとこはねぇ、三年ぐらい前かねぇ、お父さんが倒れちゃってねぇ。今はサトさんと娘さんだけだから、お昼と夜しか開けてないんですよ」


「え、あっちゃんが?」


「あれま、お客さんアッコちゃん知ってるのぉ? そりゃぁまぁたまた、あの娘あたしの中学の後輩なのよぉ。まあそれ言ったらここらの子らはみんな後輩だけどねぇ、あっはっは」


 一押しすればまだ話してくれそうだ。


「あの、秋子さんたちは、昔この近くに住んでたんですよね? 秋子さんはたしかご結婚……」


 秋子のその後の事は知らない。だがそれはおくびにも出さずに言った。


「ああ、お客さんは知らないのねぇ……」


 明るい女将が一瞬黙って目を伏せた。


「アッコちゃんの旦那さんねぇ……あの大水で亡くなっちゃってねぇ」


 この胸の動揺は何だろう。秋子が結婚していたことか、それとも夫を亡くしていたことか――。


「五年前の大水でねぇ。東京……あ、お客さんは横浜でしたっけね。そちらでもすごかったんじゃないですか? こっちは直撃だったから、ものすごい雨が二週間も続いてねぇ。あちこちで橋が流されて道路も崩れちゃって。アッコちゃんの旦那さんも役場の人だったから、村中見回ってるうちに車ごと流されちゃって。あれぁ、ほんとうに可哀そうだったわぁ。それに今度はお父さんでしょう? サトさんも歳だから、アッコちゃんが役場の嘱託やりながら、お店を手伝ってるのよ」


 女将に別れを告げて車を出した、だがそのまま帰る気にはなれなかった。秋子は元気だろうか? 辛い生活を送っているのではないか? だがもしそうだったとして何だと言うのだ、とっくに他人になった男に、いまさら何ができる。


 暗くなるまで待って、アトランティスが見える路肩に車を停めた。夜の営業が始まると、すぐに最初の車が駐車場に滑り込んだ。ダッシュボードから双眼鏡を取り出して目にあてた、休み時間に公園で野鳥を観ることが最近の唯一の趣味だから、車にはいつでも積んである。


 店を覗くと奥から白い三角巾を被った女性が現れた。髪が白くて最初は誰だかわからなかったが、よく見ると秋子の母親に違いなかった。


 何組か客が訪れた後だった、お盆を持って厨房の暖簾を分けてくる若い女が見えた。


「あっちゃん!」


 あの頃と同じ白い三角巾と臙脂色のエプロン。エプロンの下には黒いセーラーの襟も見える。もう一度丁寧に双眼鏡のピントを合わせたが、それは何度見直しても、あの頃の秋子だった。

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