18. 夜の森

 月灯りに浮かんだ男の輪郭は、薄暗がりのせいかこの辺りの小山にも負けず、常識で割り引いたとしても大相撲の力士ほどはあった。紺色の浴衣がまくれ上がった裾からはガニ股で毛だらけの両足が生えている。


「お、おめぇ、歩くの、早ぇなあ。はぁ、はぁ」


 走ったのか息が荒い、広い口腔に反響する声はウシガエルのように太かった。こんな男は村に一人だけしかいない、タクゾーだ。


 この先は広場で行き止まりだ、踵を返した秋子はタクゾーの脇を走り抜けようとしたが、タクゾーの太い腕がそれを阻んだ。


「男と会うんだろう?」


 タクゾーの言葉に秋子は目を剥いた。


「知ってるんだぞ、お前ら風呂で会ってるだろう」


「覗いたのねっ、酷い!」


 秋子は怒りの表情を露わにして叫んだ。タクゾーが苦虫をかみつぶしたような顔をして何かを言おうとしたとき、秋子がタクゾーの腕を押しのけた。


「待て!」


 タクゾーの声にかまわず秋子は全力で走った。浴衣の裾がはだけ、激しく前後する脚が月灯りに照らされて青白く瞬く。


ガツッ。


 草に下駄をとられた。秋子は下駄を捨てて裸足で走った、だがすぐに大きな手が秋子の腕を掴んだ。


「嫌! 嫌ああ!」


 秋子が叫んでもタクゾーは力を抜かなかった。大男の太い腕は細身の女の体など難なく抱きかかえる。


「やめて! 嫌! あんたなんか! 絶対に嫌ぁ!」


 森に連れ込まれ、深い落ち葉の上に降ろされた秋子は、ありったけの憎悪を込めて、自分に覆いかぶさろうとするタクゾーを罵った。タクゾーはそれを遮るように叫ぶ。


「黙れ! 黙れ!」


 大きな手が秋子の口を塞いだ。タクゾーの浴衣が腰までめくれ上がった、前合わせの間から”すりこぎ棒”のようなものが突き出た。秋子は悲鳴ともとれる大きなうめき声をあげた。


「んあああ! んあああああ!」


「静かにしろよ! 静かにしろって!」


 タクゾーの三白眼と釣り上がった太い眉は、忿怒の相を極めた仁王を思わせた。秋子はやっとすり抜けた右手でタクゾーの腕に思い切り爪を立てた、食い込んだ爪の先から血が滲む。


「このぉ! 静かにぃ、しろよぉ!」


 タクゾーはその手を力ずくで剝がして、地面に押さえつけた。


「くっそう、そんなに……そんなに嫌がる事ねえじゃねぇかよぅ!」


 泣きだしそうにも聞こえる声だった。タクゾーの姿勢が一瞬崩れると、秋子はタクゾーの股を蹴り上げた。


「うごっ、うう!」


 森中に低い声が響いた。だが一撃は急所を外していた、走り出した秋子の浴衣の端をタクゾーの太い指がかろうじて掴んだ、浴衣は秋子の体から抜け、腰の帯に絡んだ。


「嫌!、嫌ぁ!」


 浴衣を引かれ、秋子の体はタクゾーの懐に引き戻された。タクゾーは激しくばたつく秋子の体を羽交い絞めにすると、彼女の両足を膝から抱えて高々と持ち上げた。


「嫌っ、嫌よぉ!」


「黙れよ! 黙れって!」


 秋子はもう一度落ち葉の上に降ろされた、タクゾーは大の字にした秋子の手足を、自分の両手と膝でまるで蝶の標本でも作るように押さえつけた。大男に乗られて観念したのか、秋子は叫ぶのをやめた。代りに激しい憎悪の籠もった目でタクゾーを睨みつけた。タクゾーは息を切らせながら言った。


「ハァ、ハァ、落ち着けよ。お、俺、お前に酷ぇことなんてしねぇよ」


「嘘! だって……」


 秋子が視線を前に落とした。自分の前合わせから突き出たものに気づくと、タクゾーは慌ててそれを浴衣で隠した。


「こ、これは……、だって、仕方ねえだろう、それじゃあ」


 タクゾーも視線を落とした、秋子の浴衣は脱げて、背中で帯に絡まっているだけだった。気づいた秋子はタクゾーの手を振りほどいて慌てて前を隠した。


「逃げないか? 俺の話を聞いてくれるか?」


 タクゾーがそう言うと、秋子は無言で頷いた。タクゾーは秋子の体の上から離れた。


「俺はすけべえだけど、悪党じゃねえ。女をったりなんかしねえ」


「覗きは……するくせに」


 小さな声で秋子が言う、タクゾーはばつが悪そうな顔を見せながら続けた。


「二軒沢に行くんだろう? やめとけ、ガキどもが後で酒飲みに来るって言ってた」


「え?」


「その……、ひゃ、百貫岩がいいんじゃねえかな。あそこならまず誰もこねえし、上に上がっちまえばどっからも見えねぇし」


 タクゾーの意外な言葉に、秋子は目を見開いたまま固まっている。


「俺もたまに行くんだ。山も里も全部見えて、すげえいい眺めなんだ。この近くじゃあそこ以上はねえよ」


「覗きの……?」


「馬鹿言うなよぉ、あんなとこから風呂ん中まで見えるわけがねぇだろう。ほんと酷えな、お前。でもまあ……仕方ねぇか、はっは」


 タクゾーは一度心外そうな顔を作ると、すぐ諦めたように微笑んだ。


「お前に見せたかったんだ」


 秋子は無言でタクゾーの目を警戒するように見つめた。


「俺、羨ましくてよ、湯小屋あたりの男が。奴らガキの頃から女の裸見慣れてっから平気なんだ。俺なんか中学の水泳の時、女の方見ただけで勃っちまってよ。それっきりあだ名は……」


 そこまで言ってタクゾーは顔を伏せて黙ってしまった。秋子が自分の目を覗くように見ているのを見て、タクゾーは顔を上げて言った。


「デ……デカチン」


 秋子は身じろぎもせずタクゾーを見つめている、タクゾーは安心したように軽く息をついて続けた。


「その後俺の身体が大きくなったからだろうな、あいつら俺の前では言わなくなったけど、影で言ってんのは知ってた。あいつらにしたら軽い気持ちだったんだろうけどよ、分かるだろ? 言われるほうはたまんねぇよ。信じねぇかもしんねぇけど、俺あの頃けっこう真面目でよ、そのあだ名が嫌で仕方なくてな……」


 タクゾーが遠くを見つめるような目をする。


「あいつらうまくやりやがって、高校卒業したとたんに結婚した奴までいる。俺なんて今でも女とろくに話せねえってぇのに。そりゃそうだろ、デカ……とか呼ばれてる奴に女が寄ってくるわけがねぇ。俺らぁよぉ、悔しくてよぉ。不公平じゃねえか同じ村なのに、ちょっと離れたところに生まれただけでよぉ、チッキショウ!」


「でも……覗きは良くないよ」


 浴衣を直しながら秋子が言った、タクゾーは秋子の目を見ずに言った。


「そんなこと分かってるよ、でもどうしても悔しくてな。悔しくて辛くて……やってらんなくてよぉ。俺だって、俺だって女と話しぐらいしたかったんだよ、なのにデカ……なんて言われてたらよぉ、いつ女にもそういわれて笑われるか、怖くてよお。おまけにこんな体だから何もしてねぇのに怖がられてばっかで、チッキショウ、チッキショウ……」


 タクゾーが大きな背中を震わせた。低く太い嗚咽が鈴虫の鳴き声をかき消しながら、森の樹々に吸い込まれていく。


「せ、せめてあの頃見られなかった分は取り返そうって思ったんだ、いまさら何言われたって痛くも痒くもねぇし、どうせ俺なんて、俺なんて、うお、うおぉぉ」


 秋子の脳裏にさっき見た”すりこぎ棒”が蘇った。子供は残酷だ、もし子供の頃からああだったなら囃し立てられるのも無理はないような気がした。それがたとえ羨望からくる”からかい”だったとしても、真面目な子供だったタクゾーにはとても受け流せるものではなかったのだろう。


 だがそこまで苦しんだのに、タクゾーがその並外れた腕力に頼ったという話を、秋子は一度も聞いた事がなかった。


 話を聞いて貰えたからだろうか、泣きやんだタクゾーはまるで憑き物が落ちたような穏やかな顔をしていた。


「安心しろ」


「え?」


「俺来週、福島に行くんだ。村長のツテでよ、あっちの役場を紹介された。どうせ厄介払いだろうけどよ、県庁所在地だかんな、俺んだって面白れぇ事の一つぐれぇはあるだろ。公務員様は給料もいいし、馬鹿にもされねぇ。これで心残りもねえし」


 タクゾーは自分の両手を見ながら、そこに残された感触を確認しているようだった。子供のように邪気のない笑顔が月灯りに照らされると、秋子はこの男にもこんな顔が出来るのかと、驚きながらその顔を見つめた。


「お前たちのことは誰にも言ってねえし、この先も言わねえよ、誓ってもいい。ただ俺はお前に嫌われたまま出て行くのが嫌だったんだ、最後に一つぐらいは……何かしてやりたかった」


 タクゾーが何かを差し出した。途中で脱げた秋子の下駄だった。


「拾って、くれたんだ」


「俺ぁ、あっちで生まれ変わるんだ。ぜってぇいい女、見つけてやる、お前みてぇな。いや、お前みてぇなのは……無理かもしんねえけど」


 タクゾーが少し遠慮しながら片手を差し出した、秋子はその手をゆっくりととった。


「……怪我してないよな?」


「うん。大丈夫」


「あんまり暴れるから怪我しないように抱えたんだけど、俺じゃあ気持ち悪かったかもしんねぇな。もっと早く声かけりゃあ良かったんだろうけど、俺だって分かったら逃げられると思ってたら、ここまでついて来ちまった。すまねえ事したな」


 秋子が浴衣を着なおそうと帯をほどくと、肩にかけていた浴衣が滑って落ちた。秋子は「あっ」と小さな声をあげたが、そのまましばらく立っていた。


「あ、あの、後ろも……向いてくれねぇかな?」


 恐る恐る、タクゾーが声をかけた。月灯りに青く光る秋子の裸身を、タクゾーは名残惜しそうにじっと見つめた。


 しばらくすると、タクゾーは秋子の浴衣を拾いあげた。生地についた落ち葉を丁寧に払い、皺を伸ばし、秋子の肩にかけた。秋子が袖を通して前を向くと、タクゾーは秋子の前にゆっくりと跪ずいた。


「ここを出て上に五十メートルぐらいでコンクリの橋があるだろう? その脇によく見ると獣道みたいなのがあるから、それを十五分位上がると……」


 ひとしきり説明をした後、タクゾーは秋子の浴衣の前を合わせて帯を差し出した。秋子がそれを結ぶとタクゾーは彼女の腹に頭を押し付け、すすり泣くような声で言った。


「ありがとうな。俺、一生の思い出にするから。元気で……な。ずっと、ずっと、元気でな」

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