湯の華 ～湯小屋の乙女～

19. 精霊

　タクゾーが去って十分ほど経った頃、通りの方から砂利を踏む音が聞こえた。

　月灯りで俊彦の顔を確認すると、森に隠れていた秋子が顔を出した。秋子は俊彦に酒飲みのワルガキたちのことを話し、百貫岩に誘った。タクゾーのことは言わなかった。

　タクゾーに言われた道の入口はよく探してやっと見つかる程度のものだったが、実際に歩くと木の根が階段のように張り出していて秋子の下駄でも楽に登れた。ゆっくり二十分ほど登ると尾根の上に仰ぎ見るような大きな岩が現れた。

　タクゾーに言われた通り右にまわると岩を縦に割る溝があり、その脇だけ少し傾斜が緩くなっていた。素足になって登ると、岩の上はほとんど平らで広さは六畳間ほどもあった。

「すごいよここ、あっちゃん」

　思わず言葉が出た、右には新潟へと続く山並みが広がっていて、満月に照らされた明るい尾根は、樹々の葉の一枚一枚が風に揺れる様まで見えるようだった。左を見下ろすと人家の灯りがいくつも見える、そのすぐ近くの山の中でひときわ明るく光っている場所がたぶん歌舞伎舞台だろう。

　風には夏の余韻がまだ残っていたが、少し強く吹くだけで秋を感じさせた。時々騒めく樹々の音を聞きながら、二人は岩の上で腹ばいになって、しばらく里の様子を眺めていた。布を通して伝わる冷たい岩の感触と土の香りが心地よい。

　一緒にいられる喜びとともに、帰ればまたしばらく会えなくなる切なさが俊彦の心を惑わせた。遠くの山の樹々がひときわ大きく騒めくと、少し遅れて夏の終わりを告げる風が通り過ぎた。心の澱が堰を切ったように溢れ出た。

「あっちゃん、就職は？」

　俊彦が訊いた、秋子は俊彦の顔を見ようとはしなかった。秋子の瞳には歌舞伎舞台のまばゆい灯りが映っていた。睫（まつげ）の目立つ瞼（まぶた）がそれをゆっくりと覆い、再び瞳に光が戻ったとき、秋子はぽつりとつぶやいた。

「地元……かな」

　やっぱり――。

　そう思ったが俊彦は口には出さなかった。本気で秋子を得たいなら結婚を申し込んで奪い去ればいい。だがまだ菓子職人の見習いにすらなっていない俊彦に、この里が大好きな娘から、そのすべてを奪う決心はつかなかった。

　この三年間、互いの体が溶けるかと思うぐらい里の湯に浸かった、湯の中で二人の心は徐々に一つに重なっていった。湯を通して秋子の裸の心に触れた俊彦は、彼女がどれほどこの山里を愛しているかを、誰よりも深く理解しているつもりだった。

　ここから連れ去れば、今の秋子は消えてしまうかもしれない――。

　秋子への愛おしさが募るほど、それは犯してはいけない原罪とさえ思えた。

　仰向けに寝転ぶと、空高く登った満月が、周りに小さな星を鏤めたシャンデリアのように見えた。電球でも無いものが空の上でこんなに強く光っている、周囲の山々を照らすこれほどの灯りが、ただ太陽を写しただけのものだなんて、にわかには信じられない。かつての村人たちもそう思ったから、満月に神の力を感じたのだろう。

　白い岩の周りは昼間と見まごうほど明るかった。愁いを帯びた秋子の表情がはっきりと見える。手を伸ばして秋子の帯の固い結び目を解いた、仰向けにした秋子の上に覆い被さって、彼女の浴衣の前を開けた。秋子は浴衣の下に何も着けていなかった、湯の助けを借りなくても十分に潤いを帯びた肌が、月明りに青く栄えた。

「綺麗だ……」

　秋子の胸の丘陵は、遠くに見える山並みを思わせた。桜の雌しべが満月の灯りに光った。青い光に照らされた彼女の肌は、徐々にガラスのように透き通っていった。

　やっぱり、精霊なんだ――。

　俊彦の手が秋子の膝を開かせると、大地の躍動がもたらしたような深い皺が浮かび上がった。俊彦は着ていたものをすべて脱いだ。

　秋子の目には覚悟が見えた、だが俊彦はすでに当てていた切っ先をずらし、深い皺に沿って上から強く擦り付けた。

「トシ……さん？」

　秋子の疑問はすぐに小さな喘ぎに変った、時折うるんだ目で俊彦の名前を呼ぶ。俊彦が激しく動くと秋子の喘ぎも激しくなった、まるでこびりついた何かを拭い去ろうとするかのように、俊彦は繰り返しそれを強く擦りつけた。

　二、三度強く頭を振って、俊彦は秋子の名前を叫んだ。いつもより長い痙攣の後、俊彦は力尽きたように仰向けになった。目を開けた秋子が俊彦の萎えた獣を口に含む。呼び戻された獣を制するように秋子はその上に乗った。

　山の精霊はかつてこの里に生きた人々が山に戻った姿だ。年に一度、精霊は月夜見（ツクヨミ）の力を借りて山を下り、美しい娘の姿で歌舞伎を舞う。

　見とれる者の中に獣を宿した若者を見つけると、精霊は若者と目合（まぐわ）い、夜の終わりとともに山へ戻って行く。若者の種は精霊に新しい命を与え、生まれ変わった精霊はまた一年の豊潤を山里にもたらす。

　ここではきっとそれが太古の昔から営々と繰り返されてきたのだ、精霊と麓の人々は、互いのどちらが欠けても生きてゆけない。

　満月のシャンデリアを背に秋子が踊る。俊彦は神輿の担ぎ手になったつもりで、秋子の体を繰り返し高々と夜空に突き上げた。

　――オイサー！　オイサー！　月サァ届ケェ！　オイサー！　オイサー！　月サァ届ケェ！――。

　精霊と獣の宴は、獣の精が尽きるまで続いた。その間、満月は子を見守る母のような顔で、若い二人の素肌を優しく青く照らし続けた