湯の華 ～湯小屋の乙女～

17. 歌舞伎の夜

　次の日は少し遠出をした。二人を乗せたバイクは山に挟まれた田舎道を、下郷という里を目指して走った。

　里に着くと俊彦はバイクを山に向かわせた、古い家並みに挟まれた細い道を抜けると、突然田んぼの真ん中には不釣り合いな広い道が現れた。最近田舎で目立つようになった広域農道というやつだが、そんな立派な道も少し進んだだけで唐突に消え、元の細い山道に戻った。

　この先では以前から道路工事が行われていいる、将来はトンネルで山の向こうの中通り地方に抜けられるようになるらしい。

　東北自動車道や新幹線が走る中通りとこの小さな里が冬でも通れる道路でつながれば、下会津の暮らしはきっと大きく変わるだろう、ただ今のところここから中通りへ行くには、大きく回り道をするか、これから向かう林道を通るしか無い。

　林道の登りは右側が崖のように切れ落ちていて、滑って落ちればおしまいの緊張感が峠の手前まで続く。日当たりが良い区間は乾いた路面から砂煙が巻きあがり、どこか遠い外国でも走っているような気分を少しだけ味わえる。

　路面の一部が山岳林道としても悪い部類に入るからか地元の車は滅多に見ない。大都市から遠く、テントが張れる河原も無いせいか、この道は林道好きのツーリングライダーの間でもあまり知られていない。

　脇が崖のせいか、腹に捕まる秋子の手には緊張が感じられた。車もバイクも一台もすれ違わないまま峠を越え、Ｙ字路に出た。

　ここで左に曲がれば冬にはワカサギ釣りで賑わう湖とスキー場の脇に出る。右に行けば自衛隊の演習地に沿うように走り那須連山の麓の甲子高原に出る。分岐でバイクを停めて後ろの秋子に言った。

「この先しばらく行くと、すごく荒れたところがあるから、しっかり掴まっててね。本当にガタボコだからね」

「おっけー！」

　秋子が俊彦の目の前に片手を突き出した、立てた親指の反り方がいかにも浮かれていて、さっきまでの緊張感はすっかり消えている。断崖区間が終わったから安心したのだろうが、本当はこの先のほうが路面は酷いのに――。

　こんな時の秋子は良くも悪くも楽天的だから何を言っても無駄だ。俊彦は言葉で念を押す代わりに後ろ手に秋子のデニムパンツのベルトを掴んで、思いきり自分の背中に引き寄せた。後ろから「お゛うっ！」という変な声が聞こえて、背中でまた肉まんがつぶれた。

　右の道に入ってしばらく下ると路面の色が急に濃くなった、ここからしばらくは山から染み出た水が道の土を洗い流して、大きな丸石がいくつもむき出しになっている。

　泥や砂利には強いオフロードタイヤも濡れた丸石の上ではよく滑る。乗ってもすぐに滑り落ちてしまうから、そのたびにオフロードバイクの長いサスペンションが縮んで伸びて、何度も繰り返すとバイクはロデオマシーンのように前後に大きく跳ねはじめた。後ろから「ひっ！」とか、「へっ！」とか、おかしな悲鳴が聞こえてくる。

「くちぃ、閉じろお！」

　舌を噛まないように気にしながら俊彦が叫んだ。荒れた区間をなんとか一息で抜けて、平坦になった道を少し進むと、眼下にトタンや瓦の屋根が見えてきた。

　後ろが妙に静かなのが気になってバイクを停めると、秋子はバイクを勝手に飛び降りて「やだこんなの、もう！」と何度も繰り返し言いながら、両手でお尻をさすった。デニムの下に仕込んだ万能ブルマーも、この道の凸凹には勝てなかったらしい。

　那須岳まで走ってロープウェイに乗り、帰りは秋子の希望……と言うか般若みたいになった顔が怖くて、わざわざ塩原まで下って山越えの有料道路で帰った。紅葉の名所らしいが細くてくねくねと曲がる道は林道を舗装しただけとしか思えない、でもこれが今のところは一番都合が良い舗装道路だ。

　次の日、テントに入っても秋子は服を脱ごうとしなかった。「だって……お尻、絶対赤いもん」秋子はそう言って恨めしそうな目で俊彦を見上げた。俊彦がキスをしようとすると顔をそむける、そんなに怒らせてしまったのだろうかと不安を顔に出した俊彦に、秋子は小さな声で言った。

「その……服を着たままキスするのって、なんか恥ずかしくありません？　まだ明るいし」

　裸でキスするほうが恥ずかしくないか？――

　一度はそう思ったが、確かに抱き合っても素肌の擦れ合う音がしないのは、どこか落ち着かない。たぶん世の中の大抵の男女は服を着たまま出会う、だが俊彦と秋子は違った。もしかしたら二人が一緒にいる時は服を着ていないほうが気持ちが落ち着くのかもしれない。

　秋子があまりお尻を気にするものだから、デニムの上からさすってあげると彼女は言った。

「手つきが、やぁらしぃです」

　裸の時は言われた事ないのに……。

　結局、秋子の機嫌と尻が落ち着くにはその日一日が必要だった。日が山に沈んで薄暗くなり始めてから、二人で河原を歩いた。名残惜しくなった俊彦が肩を抱き寄せると、今度の秋子は素直に唇を寄せた。

　最後の日も遠出をする事にした。朝カーブで会った秋子は何か含みのあるような顔をしていた。

「トシさん。実はですねぇ」

　彼女はそこまで言って黙った。やけに思わせぶりだ、まさかまだ怒っているとか？。

「実は昨日の夜、うちに電話がありまして、私……また歌舞伎に出る事になったんです！」

　秋子が俊彦の目を上目遣いに見た。目じりには笑みが、目頭には少し不安のようなものも見えた。

「えっ、だってあれもう来週じゃん」

「今年の娘（こ）が一昨日、盲腸になっちゃって。他のやったことがある娘は部活があるから無理だし、私が頼まれちゃったんです。あの……トシさんは、やったほうがいいと思いますか？」

　素人歌舞伎とはいえ里の歌舞伎は江戸時代から続く本格的なものだと聞いている、三年もブランクのある秋子がこんな急に演じられるのだろうか？。

「やったら、観に来てくれます？」

　秋子がすがるような目をして言う、卒業研究はすでに始まっている、今までほど簡単には時間が作れない。でも出会った時、秋子は最後の歌舞伎を終えた後だった。もう一生見られないと思っていたものが見られる、そのためなら。

「行く、絶対に行くよ！」

「やった！　それなら私、頑張っちゃうもんね」

　二人を乗せたバイクは会津若松を過ぎ、磐梯山の脇を抜けて檜原湖に出た。観光客が多い五色沼を避けて、静かな雰囲気のある秋元湖に寄ると、俊彦は砂利道を横切っている綺麗な水流をわざと突っ切ってみせた。前輪が壁のように大きな水しぶきをあげると、俊彦の体を盾にしたいのか秋子が思い切り抱き着いてきた。

　細いが力強い腕の感触に俊彦の心は震え、この時間が永遠に続けばいいのにと思いながら、潔く頭から水しぶきを浴びた。「きゃあ！」後ろで秋子が叫ぶ、「ひっどぉい！　あっははは」とすぐに笑い始める。この笑い声をずっと傍らで聞けたなら……。

　磐梯吾妻レークラインから磐梯吾妻スカイラインにつなぐと、標高が上がるごとに涼しさを増す風が二人の全身をくまなく洗った。バイクは浄土平まで休まずに走った。

　有料道路をこんなに贅沢に使ったのは初めてで、昼食はレストハウスで一番安いラーメンを頼んだ。レストハウスの向いにそびえる禿山は吾妻小富士と言うそうだ、日本中あちこちにある「なんとか富士」の中でもかなり本物に近い気がする、「大きなミニチュア」と言ったらおかしいだろうか。

　表の貼り紙には「若い方は五分で登れます」と書いてあった。いくらミニチュアでもこんな山が五分で登れるわけがない、どうせ客寄せの嘘だろうと思いながら食事の後に二人で登ってみたら、本当に五分ぴったりで山頂に着いた。

　舞い上がった恋人同士が登る時間を、貼り紙を書いた人はどうやって測ったのだろう。山頂は誰でも一目で火口だとわかるお鉢になっていた。

「凄い、本当に富士山みたい。行ったことないけど」秋子がはしゃぎ気味に言った。

「本当に富士山みたいだ、行ったことないけど」俊彦もはしゃいでいた。

　俊彦がコンパクトカメラを持った片手を伸ばして二人とお鉢が収まるように写真を撮った、顔が真ん中で切れたりしていないだろうか、現像するのが待ち遠しい。山を下りようとした俊彦の手を秋子が後ろから強引に掴んだ、秋子はお鉢に向かって大声で叫んだ。

「私、頑張るもんねぇぇぇ！」

　近くに人がいて少し恥ずかしかった。

　そこから折り返して帰りは猪苗代湖に寄った。貸しボートの上から覗く湖は奇妙なほど澄んでいて、湖底の砂の粒まで数えられそうだった。

　西の空が赤く染まるのを見ていたら、秋子のおなかがグゥと鳴った、岸に戻ると係員が一人だけ残っていて、二人が最後の客のようだった。土産物屋の食堂はもうみんな閉まっていて、近くを探して一軒だけ開いていたラーメン屋に入った。昼がラーメンだった事を思い出して、餃子定食とカレーライスを頼んで二人で半分ずつ分ける事にした。

　餃子には見慣れないたれがついてきた、舐めると酢味噌だった。二人とも餃子を酢味噌で食べたことがなくて恐々口に運んだが、これが意外に美味い。

　不穏な気配を感じて顔を上げると、秋子の瞳がキラキラと輝いていた。三年も付き合えばわかる、これは悪だくみをしている顔だ。「うちの店でも出してやろう」そう思っているに違いない。俊彦は堪えきれず声をあげて笑った。

　周囲が暗くなり始めると、背中を覆う暖かさを楽しみながら秋子を家まで送り届けた。すっかり暗くなったカーブで最後のキスを交わすと、秋子が小さな声で言った。

「絶対、頑張っちゃうんだから。観に来てくださいよ、絶対ですよ」

　一日中遊んだくせに彼女は軽い足取りで走っていった。ガラムマサラが効いたカレーの香りと酢味噌の甘酸っぱさが口の中に残った。

　歌舞伎の日は前夜遅くにいつものテント場に着いた。昼すぎに起きて飯を食うと、夕方まで待って里に下りた。

　里の道にはいつもは見かけないナンバーの車が何台も駐まっていた。栃木、埼玉、東京、新潟……中にはずっと遠くの珍しいナンバーの車もあった。空いている場所を探してなんとかバイクを駐めた。

　日が傾くと急に辺りは涼しくなった、いつもなら家々に電気がつき始め、里は静けさに包まれ始める頃なのに、今日は里中が慌ただしい。舞台は昼すぎから始まっているはずだが、大勢の見物客が集まる本番は夜になってからだそうだ。秋子の出番は空が暗くなる七時頃からだと聞いている。

　舞台のある山に歩いていくと、すぐ隣の家から、大きな声が聞こえた。

「アッコぉ、こっちゃこぉ。着せたるからぁ！」

「ヤスアネェ、まぁだ早いべェよ、今着たらトイレ行けなくなっちゃうぅ！」

　聞き覚えがある声だが少し訛っている。そうか、里の人が相手だとこんななのか――。

　三年も付き合っていてまだ知らない秋子がいる。自分が知っている秋子はいったい彼女のどれほどなのだろう、俊彦はせめてそれが自分以外の誰にも見せない姿であることを願った。

　日暮れ、すっかり早くなったな――。

　夏の始まりの日の長さを憶えていると、終わりの短さがとても切なく感じるものだ。暑苦しさから逃れられる安堵と、もう秋かというもの悲しさが混ざってやるせない気持ちになる。もしかしたら今年の夏にやり残した大切な事があったのではないか……。この時季は子供のころから毎年同じことを考える。

　西の空の紅みがすっかりなくなって、涼しさに夏の虫が飛ぶのを諦めたころ、舞台を照らす灯りは目映（まばゆ）さを増した。

　秋子が出演する「寿式（ことぶきしき）三番叟（さんばそう）」が始まった。歌舞伎と聞いて想像していたものとは違って、台詞が殆ど無い踊りだった。古式ゆかしい装束を着けた二人の少年と共に、金色と緑の着物を着てお姫様か何かのような姿になった秋子が舞台に現れた。

　裸電球と篝火（かがりび）に照らされた柔らかい輪郭と形のいい鼻は、濃い白塗りを施していても秋子のものだとすぐにわかった。

　天頂は満月に照らされて淡白（あわじろ）く光り、空と山の境はすっかり群青色に落ち込んでいる。ゴザが敷かれた二、三百人ほどの広場には、湯小屋を移る前に見知った顔もちらほらとあった。端の木に体をもたれた俊彦は、山崎から借りた望遠レンズ付のカメラを構えた。

　三味線や鼓、笛の音に合わせて秋子が舞う。歌舞伎には明るくないから、見守る二人や奥にいる一人がどんな役なのかもわからない。奥にいる一人の装束は年寄りのように見えるが演じているのは中学生だと思う。

　ファインダー越しに見た秋子の顔には自信がみなぎっていた。とても急な代役とは思えない。これほどの踊りを僅か五日でよく憶えたものだ。いやたぶん違う、秋子は覚えていたのだ、三年も前に舞った踊りを。

　少しの迷いもない動きがそれを物語っている、普通ならよほど研鑽を積まなければこんな綺麗な動きはできないはずだ。彼女が急な代役に選ばれた理由が、ただ暇だったからではない事は明らかだった。

　現代では滅多に見ることがない白塗りの化粧も、他の若い演者には慣れない仮面を着けたような据わりの悪さがあるが、秋子を見る観客は皆、本物の歌舞伎役者を見るように見惚れている。

　美しい衣装ですら秋子の美しさには及ばない、舞台の上で彼女の衣装が徐々に透けてゆく、衣装が消え裸になっても彼女の舞は衰えない、むしろ美しさを増したようにさえ見える。間違いない、精霊だ。秋子はこの里の山に住む精霊なのだ。

　精霊は人の世の虚飾をまとわずに俊彦の前に現れた、一目で魅入られた俊彦は、長い冬の間も、雪が溶け春が来ても、変わらず彼女の事を考え続けた。再び会えた時、精霊は服を着て人の姿を借りていた。あの時の驚きと喜びを、俊彦はきっと一生忘れないだろう。

　観客席に、歯が無い口をぽかんと開けた爺（じい）がいた。白くなりかけた瞳に篝火の炎を輝かせていた。俊彦にはそれが命の灯りに思えた、年に一度の歌舞伎を見られた爺の歓びが、レンズを通して伝わってくる。この爺の一年は、俊彦たちのどの位の日々と釣り合うのだろう。

　二十分ほど舞って秋子は舞台を降りた。待ち合わせの時間にはまだかなり間がある。演目の終わりまで見てから出ればたぶん丁度良いぐらいだろう。

　舞台を降りた秋子は、楽屋になっている家に戻って装束を脱いだ。裸の体につっかけだけをひっかけて幕の張られた通路を走ると、すぐ脇の湯小屋に入って化粧を落とした。まだ湯気があがる素肌に木棚に置いていた浴衣を巻くと、人目を気にしながら小屋を出た。

　下駄の音を気にしながら山の方向に向かうと、時おり舞台へ向かう人たちと出会う。秋子はそのたびに浴衣の胸元を閉じて物影に隠れた。家が無くなったところで小走りになった、ここまで来れば下駄の音に気付く者はいない。

　林道に続く道の脇に森がある、俊彦とはその中の広場で待ち合わせる事になっていた。森には軽トラックの轍が残った砂利道があり、それを五、六分ほど歩くと沢に突き当たる。

　だいぶ前まではそこに古家が二軒ほどあったが、今は家の痕跡も消え広場が残っているだけだった。こんな日なら人が来る事はないと思い、秋子が待ち合わせの場所に選んだ。

　狭い砂利道を歩いていると鈴虫の鳴く声が聞こえた、同じ方から僅かに沢の音も聞こえた。里のしきたりでは歌舞伎が終わると秋になる、秋子にとっては今夜が今年の夏の思い出を作る最後の機会だった。

　満月の灯りは他の灯りを必要としない、だがそれほどの満月でも高い樹々に遮られると、森の道を半分ほどしか照らすことができない。通りの明るさに慣れた目には影は暗がりにしか見えないから、影の中を歩けば誰にも見られずに移動できる。人目を忍んで移動するにはうってつけの道だ。

　下駄の歯が砂利を噛む音が森に響く。他には木の葉が風に吹かれてカサカサと擦れる音、沢の流れ、そして鈴虫の鳴き声しか聞こえない。

「おい！」

　突然後ろから呼び止められた。驚いて飛び上がった秋子が振り返ると、暗がりの中に下駄を両手に持った男が立っていた。