16. 最終学年

 四月に入り林道の入り口の雪が消え始めた頃、俊彦は大学四年生に、秋子は高校三年生になっていた。


「あっちゃんさ、僕と会うようになってから成績落ちてない?」


 ずっと気になっていた。ただあまりしつこく言うと怒られそうな気がしてなるべく訊かないようにしていた。秋子は軽く笑みを浮かべて答えた。


「私、成績は学年で一番ですよ。一度だけ二番になりましたけど、あれは体調が悪かったんで。早退しても怒られないように、結構頑張ってるんですよ」


 早退の件はずっと心配していたが、そういうことだったのか。だったら言ってくれればいいのにと思ったが、成績の事を自慢するみたいで嫌だったのかもしれない。ただその割に、顔には「褒めて褒めて!」と書いてあるのが可愛い。


 この辺りの高校生は卒業すると大半が家業を継ぐか就職する。大学進学を目指す子供は中学を終えると進学校のある会津若松に出ていってしまうらしい。


 だが県内の進学率が上がってきた最近は、地元の高校からも毎年何人かが進学しているという。それなら秋子も進学できるはずだが、彼女はそれを考えていない。理由は……分かっている。


「あっちゃん、将来やりたい事とかある?」


「なんですか急に」


 それっきり秋子は黙ってしまった。前に同じ事を訊いた時には「何かないといけませんか?」と酷く不機嫌な顔をされた。もしかしたら進路指導の教師にも同じことを訊かれていたのかもしれない。


 社会に出れば学歴なんて関係ないと言う人もいる、だが本当に学歴が無い人は、けしてそんな事は言わない。


 俊彦の実家の古参の職人に大学卒はいない、職人頭で役員でもある佐橋も中学卒業だ。だが彼らは子や孫を大学に入れている、自分の子や孫が大学に合格した時の彼らの顔を、俊彦は何度も見てきた。皆ほっとしたような、満足気な顔だった。


 彼らは自分の仕事に強い誇りを持っている、だがそれと子の将来を思う親の顔は矛盾しない。


 俊彦は以前、秋子に話して聞かせた事がある、高卒では履歴書すら受け取ってもらえない仕事がある、どんなに能力が高くても、昇進は大卒よりずっと下で頭打ちになり、給料も大きく劣る。それが世の中だと。


 だが秋子の考えは変わらなかった。その頑なさに苛ついたこともある。確かにこの山里は素晴らしい、千年近く前から湧き出ている湯も、周囲の山々も。だが長い人生を豊かに過ごすために若い頃のたった四年間を都会で過ごす事が、なぜそれほど嫌なのか。都会で生まれ育った俊彦には、初め理解ができなかった。


 だがこの里と秋子を知るうち、それは自分の思い上がりだと気が付いた。


 はじめから安寧を得られる故郷に生まれ幸せを感じて生きている人々に、そこから離れて広い世界で競えと言う事がどれだけ尊大で暴力的な態度であるか、幸せは競争して勝ち取るものだと信じて疑わない都会の人々は、なかなか気づかない。


 大学に戻ると山崎を捕まえて訊いた。


「お前中学まで長野だったよな。長野っていい場所か?」


「うんにゃ、山しかねーよ」


「山とか川で遊んだり、いろいろ面白かったんじゃねーの?」


「そりゃあ、そういうことも無くはなかったけどな。でもよぉ、本当に周り中、全部山なんだぜ。信じられっか? 俺こっちに来るまで朝日とか夕日って見たことがなかったんだよ、どっちも山に隠れてっから。お日様は上にあるときしか見えねぇんだ。田舎なんてちょっといたずらしたら次の朝には先公にバレてるし、夏になってもビキニのネーちゃんはいねーし、ほんとうんざりだよ」


「そんなもんか?」


「そんなもんだって」


 同じように山の中に生まれても安寧を得られなかった者もいる。だが秋子は違う。


 その年の梅雨に入る直前だった、秋子といつものカーブで待ち合わせて林道に行く途中、俊彦は人目を気にしながら湯小屋に寄って手早く体を流した。


 いつもの小さな枝沢に着いてテントを張ると、二人は荷物を放り出したままテントに飛び込んだ。俊彦が抱きしめようとすると秋子はその手をすり抜けて俊彦のズボンを剥ぎ取るように降ろした。俊彦が無理に湯に寄った理由を、秋子は秋子なりに理解していた。


 こんなこと、どこで覚えたんだろう?――。


 少し気になった、でも優しく包まれる暖かさの前に不安はすぐに消えた。秋子はむせながらすべてを飲み干した。


「女の子向けの雑誌って、いろんな事が載ってるんですよ。知らなかったでしょう?」


 微笑む秋子の右の口角から残りが少し垂れている。俊彦はそれを紙で拭き取ると、お礼のつもりで秋子の体中の突起を舌で優しく和ませた。


 秋子の高校が夏休みに入る前に、二人はもう一度会うことができた。この後、俊彦には夏のアルバイトがある。残された貴重な数時間を二人はテントの中で裸で過ごした。


 アルバイトが終わり盆に入ると、俊彦は大学のバイク仲間と信州に卒業ツーリングに出かけた。ツーリングから戻ると、アパートには一晩いただけで秋子が待つ山里へバイクを走らせた。


 テントに着くと秋子を滝に誘った。どうせ濡れるからとテントの前でジーンズを脱ぐと、秋子も同じように脱いだ。


 今日は秋子が先を行く、以前より足取りがしっかりしていて、飛び石もふらつく事なく綺麗に飛んでいる。長くテニスを続けたせいか、こんな事でも勘が良いらしい。黒い体操着に包まれた桃のような尻が目の前で弾む、白い太腿に浮く筋肉は、若鮎らしい緊張と色を帯びた優しいたゆみを交互に繰り返した。


 俊彦は出会ったときのことを思い出していた、あのときの秋子は後ろ髪を刈上げ、肌は真っ黒に日焼けして少年のようだった。それが今はまるで嘘のようだ。


 あれからもうすぐ三年になる、この美しい娘の青春を独占した自分の幸運と罪深さを、俊彦はあらためて考えずにはいられなかった。


 滝の淵に着くと秋子を抱き寄せた、愛おしくて仕方が無かった。俊彦は秋子の首筋に夢中で舌を這わせた。


「やあっ、いきなりエッチですよ、トシさん」


 彼女に残された僅かな服を剥ぎ取って、自分も裸になった。手を引いて淵を渡り、滝壺でまた抱き締めると、秋子の豊かな肉まんが俊彦の胸で柔らかく潰れた。


 肉まんに張り付いた二つの桜は、もう出会った頃の蕾みではない。みごとに開花した花の真ん中には硬い雌しべが育っていた。雌しべの先を指先で弾くと、秋子は頬を赤く染めて身をよじった。


 長く深いキスを交わした後、秋子が言った。


「滝の先に行きたかったんじゃないんですか?」


 俊彦は間を置かずに答えた。


「そんなのもうどうでもいい、ずっとこうしていたい」


 秋子の悪戯っぽい笑みが見えた気がした、瞬きをすると彼女は視界から消えていた。一瞬不安がよぎった、この三年間はすべて夢だったのではないかと。


 水の中で何かに吸われて我に返った。見下ろした川面かわもには黒い髪がまるで海辺の海藻のように揺れていた。何かが睾丸を弄んだ瞬間、俊彦は鳥になった。意識が白い光に包まれながら舞い上がり、眼下に緑色に光る山里が広がった。


 水の中から秋子が勢いよく飛び上がった。秋子は初めて会ったあの時のように、濡れた犬みたいに頭を振りながら、空から舞い戻った俊彦に言った。


「死ぬかと思ったあ!」


「あっはは。そりゃあそうだよ、ずいぶん潜ってたじゃん!」


「だってぇ、やり返したかったんだもん。やられっぱなしは嫌!」


「じゃあ、滝のお返しってこと?」


「お返しじゃないもん、仕返しだもん。これでおあいこですからね!」


 髪から清水せいすいを滴らせた秋子が得意げに舌を出す、借りを作るのが嫌いらしい。


 普段の秋子はきっともっと気が強いのだ、二人で会うときは猫を被っているに違いない。でもそれが余計に愛おしくて、俊彦はもう一度を秋子を強く抱きしめてキスをした。変わった味のキスだった。


 次の日はテントの中で昼過ぎまで抱き合っていた。抱き合いながら、時折思い出したようにキスを交わした。秋子の笑顔をこんなに近くで見ていられる、いつでもキスを交わせる。嬉しくなった俊彦はいつものように思ったことをそのまま口した。


「秋子……綺麗だよ」


 歯が浮くような台詞なのに恥ずかしいとは思わなかった、むしろ初めて名前を呼び捨てた事のほうが恥ずかしかった。うつむいてはにかんでいた秋子は、俊彦が同じことを五回も続けると「調子に乗るな」とばかりに俊彦の額に猫パンチを食らわせた。


 日が傾き始めるまで二人はずっと抱き合っていた。外が涼しくなると本流の広い河原を手を繋いで歩いた。


 西日に照らされた秋子の横顔を見ると俊彦は急に胸が苦しくなって、照れ隠しに秋子の小さな手の平を猫の肉球でも弄るように押した。


 ただ手をつないで歩いているだけなのに、抱き合っている時と変わらない幸せを感じられるのは何故だろう、俊彦にはそれが不思議でならなかった。

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