15. アキコとナツコ
年賀状の時期も終わった一月の十日、初めて秋子に手紙を出した。
差出人の名前は西野奈津子にした、俊彦ははじめ”夏子”を提案したが、「秋子と夏子じゃ、怪しまれるからやめて」と秋子に却下された。俊彦がそれでも「漢字を変えるから」と強引に押し切ったのは、その名前の響きがどうにも気に入っていたからだった。
奈津子の設定は、秋子が中学のテニス大会で知り合って、その後東京に引っ越した同い年の高校生ということにした。二人は手紙で一月の終わりに会うことを決めた。
冬山登山者風の恰好をして、東京から五時間ほど揺られて山里に一番近い駅で電車を降りると、改札を出た辺りで紺色のジャンパーを着た中年の男が一人近づいてきた。
もしかして知り合いかもと一度は考えてしまったほど、その男は憎からぬ笑みをたたえていた。
「お兄さん、バスより安いよ。好きな場所で降ろしたるから」
男はジャンパーのポケットに両手をつっこんだままそう言った。遠目にいかにも好ましく見えた笑みは、近くで見ると口角が不自然に吊りあがった卑下た笑いにも思えた。
男の言った料金は確かに安い、だが客が揃うまであの車の中で待っていてくれと言う。男が指さした先には白いワゴン車が三台、エンジンがかかったまま停まっていた。待合室を見るとこの男とよく似た雰囲気の男が二人、石油ストーブの前で煙草をくゆらせていた。
嫌な予感がする。男の誘いを丁寧に断ってバス乗り場に向かおうとすると、すぐに後ろで遠慮の無い舌打ちの音がした。
バス乗り場のベンチにザックを降ろすと、見た目を大きくしただけで、たいした物は入っていないのに、月に降りたように身軽になった。
硬くて冷たいベンチに腰を下ろしたとき気がついた、さっきの男はたぶん白タクの運転手だ。スキーブームのおかげでスキー場の近くの駅に大勢いると聞いていたが、まさかこんな田舎にまでいるとは思わなかった。
雪国のバスは暖房がよく効いている、タイヤチェーンの振動もまるで健康器具のように心地いい。疲れた体が眠気に誘われ始めた頃、アトランティスの前を通り過ぎた。高い目線から見ると真っ赤なテントは余計に目立った。
うとうとしながら一時間近く揺られて郵便局前のバス停でバスを降りた。湯小屋まではまだ三キロほどもある、しばらく待てば里の奥まで往復するバスが来るはずだ、だがそんなものに乗って話し好きのおばさんにでも捕まっては困る。
冬山登山者風の恰好で来たのは正解だった。まず暖かいし、女の子に会いに来たとは間違っても思われない。湯小屋に寄るのを見られても登山者ならごく自然だし、万が一秋子と一緒にいるのを見られても偶然で通せるだろう。川端の湯は温泉場の外れだから、幸いここからなら他のどの湯小屋よりも近い。
歩き出しは寒かったのにすぐに暑くなって上着を脱いだ。小屋の前で止まったとたん汗が冷え始めて、急いで湯に浸かった。待ち合わせの時間まではまだ小一時間もあった。
十五分か二十分ぐらい経っただろうか、小屋の前の道をディーゼルエンジンのガラガラという音が通り過ぎていった。そのまま十分もぼうっとしていたら、何の前触れもなく小屋の戸が開いて、秋子が顔をのぞかせた。約束の時間よりもずいぶん早い。
「早いねえ」
「そうでしょう、そうでしょう」
得意そうに笑う秋子はもう制服を脱ぎはじめていた、真冬なのに首筋に汗がにじんでいる。
「歩いたの?」
「いっこ前のバス停から」
この小屋の前にもバス停はある、だが他に何もないここで降りたら、湯小屋が目的だと誰の目にも分かってしまう。秋子はかけ湯をして湯に浸かった。
「泊まれないのが残念だよ」
「やっぱり今日帰るんですか?」
「うん。スキー客が多くて宿が空いてなかったし、この辺で泊まったら、僕らの事がバレちゃうかもしれないし」
それは近隣の村や町ならどこでも同じだった。この辺りに高校は二つしかない、路線バスが走る範囲なら、どこへ行っても秋子の学校の生徒や父兄に見られてしまうかもしれない。
自分がしていることが秋子に相当なリスクを負わせている事を、俊彦はあらためて意識しないわけにはいかなかった。
湯の中で長いキスを何度も交わした。最後に裸のままもう一度しっかりと抱き合った。キスをしながら秋子の丸い尻を掴んで撫でた、秋子も俊彦の尻に手を回しながら舌を絡めた。俊彦が秋子の尻を少し深く掴んだ。押しつぶしたような声をあげた秋子の爪が、俊彦の尻に強く食い込んだ。
これ以上は酷だ――。
秋子の尻から手を放し肩を抱いた。最後のキスを交わすと、二人は里の人たちが来る前に時間をずらして湯小屋を出た。たった二時間の逢瀬のために俊彦はずいぶん時間と金をかけた、だがそれを少しも惜しいとは思わなかった。
三月に入ると、山里にも春の気配が感じられるようになった。バスに揺られながら「バイクでも十分来れたな」と少し後悔したが、残雪で埋もれた林道はバイクでは入れない、今日は歩いて林道に入って、どこかに近い場所にテントを張るつもりだった。
郵便局前のバス停でバスを降りた。乾いた舗装道路を三キロほど歩いて川端の湯を通り過ぎた。遠くに見える山はまだ真っ白だが、雪山登山者風の格好で里を歩くと暑くて仕方が無い。
アラスカで履かれているソレルというゴワゴワとした大きなブーツは、十二月にバイクでここに来るために買ったものだったが、長い舗装道路を歩くのにも硬い登山靴よりは向いているようだった。
温泉場の中心にある赤い橋も、なるべく目立たないように、でも精いっぱいスピードを上げて通り過ぎた。
道路の右に沿うように続く用水路には、溢れんばかりの雪解け水が勢いよく流れていた。春の日差しに照らされてキラキラと光る流れを眺めながら歩いていると、最後の集落にさしかかった。
一つの民家の窓になぜか遠く群馬が地盤の元総理大臣のポスターが貼ってあった。こんな山の中にも都会と変わらないポスターがある事が不思議でならなかった。少し先の別の民家にはさっきの元総理の党と対立する党のポスターが貼ってあった。二十戸もなさそうな狭い集落の中で、この人たちはどう折り合いをつけて暮らしているのだろう。
百メートルほどで集落を抜けた。正面に高さ一メートルほどの雪の壁が現れた。その前で雪が十メートルほどの綺麗な円形にのけられている、ここで除雪車がターンしたのだ。
この時期にここから先に入る者は滅多にいないらしい、この先の山に登ろうにも、登山口までは雪に埋もれた林道を十キロ以上も歩かなければならない。たまにスノーモービルで走る好事家もいるらしいが、今日はその轍も見当たらない。
目立たずにテントが張れればどこでもいい、できればなるべく里に近い方がいい。昼間の日差しで融け、夜には冷えて固まるを繰り返した雪は、アスファルトのように硬かった。五百メートル程歩いた辺りで道の脇に雪の小山を見つけた。裏に回ると丁度テントが一張り張れそうだった。
荷物の大半をテントに残して、里に向けて引き返した。ここからあの湯小屋までは五キロほどもある、だがもうすぐ秋子に会えると思うと頬が緩んだ。
集落の手前まで戻った辺りで、林道を歩いてくる人影が見えた。紺色のジャケットのフードを目深にかぶって、脚には黒い長靴を履いている。躓いたら危ないだろうにポケットに両手を突っ込んで、体を左右に大きく揺らす姿は、まるで飲み屋から帰る酔っ払い親父のようだ。
雪しかない道だから隠れようが無い、相手はまだ俊彦に気付いていないようだ。十五メートルまで近づいたところで俊彦は足元の雪を蹴ってみた。顔を上げた相手のフードの中で、大きな目が見開かれた。
秋子は雪の上を時々足を滑らせながら走ってきた、五メートルほど前でポケットから手を出して前に差し出した、そしてそのまま捨て身で飛びついてきた。
勢いで俊彦は雪の上に尻餅をついた。俊彦がもし驚いて少しでも身を引いていたら、彼女は固く締まった雪に顔から突っ込んでいただろう。秋子は俊彦の胸に甘える猫のように何度もおでこを擦り付けながら、「あっつい~!」と言った。秋子の頬は赤く、こめかみに汗がにじんでいた。
「小屋で会うはずだったじゃん。行き違いになったら、どうすんの?」
俊彦がそう言うと、秋子は弾んだ声で答えた。
「大丈夫、一本道だもん!」
「バスは?」
「知ってる人が乗ってこなきゃ大丈夫!」
「それ、まずいじゃん……」
「だからぁ、ずううっとフードかぶってたのぉ! でも晴れるとあっついですね、さすがに」
秋子にこんなリスクを負わせてはいけない、でも来てくれたことが嬉しくてたまらない。
辺りは真っ白で見た目は真冬と変わらない、だが日が当たるテントの中は閉め切ると暑いぐらいだ。マットの上にシュラフを広げて秋子を後ろから抱きかかえた、セーターに手を入れると肉まんの真ん中にまだ控えめな突起があった。弄ぶと秋子は身を硬くして叫ぶように口を開けたが声は出さなかった。俊彦が先に服を脱ぐと秋子が急に振り返った。
「私がしてあげる!」
秋子は俊彦のそれを遠慮なく握った。手つきがぎこちないが、それがかえって嬉しかった。
「意外と難しいんですね、本では簡単そうだったのに」
彼女なりに試行錯誤はしているようだ、ただ少し痛かったので手を添えてやり方を教えた。そろそろいいかなと思って手を離してみると、秋子は何を思ったのか勢いよく手を動かした。
俊彦は間を置かずに果てた。秋子は自分の口元についたものを人差し指で拭うと、いたずらっぽい目つきのまま舐めて見せた。
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