8. 嘘

「でも私、『可愛げが無い』ってよく言われるんです。男子に」


 秋子が言った、少し不満げだ。


「ああ、それはたぶんあっちゃんが美人だからだよ。美人ってね、完璧すぎて隙が無いって言うか、冷たく見られることがあるから。そんなの気にすることないよ、誰だそんな事言う奴は!」


「じゃあ、トシさんは私とみずきなら、どっちが好みですか?」


「もちろん、あっちゃん!」


 ここで迷ったら終わりだと思い、急いで答えた。


「でも、みずきの胸を見ても、そうなったんですよね? それ」


 秋子はもう、それを躊躇なく指さしてくる。


「あ、いやそれはその……」


「胸が目立つ娘なら誰でもいいんですね?」


「いやその、けしてそんな事は……」


「あーあ、ざんねん。そういう人だったんだぁ、すっごくざんねん!」


 言いながら秋子はまた口を尖らせた。そのくせ目元は笑っているから憎らしい。


「あ、いや、本当にそうじゃなくて。あの、その、あっちゃんは特別! 最高! 本当に凄いんだから」


 みっともない弁解をしながら、ふと思いついた。からかわれっぱなしでは癪だ。


「じゃあ、胸は関係ないって事を見せてあげるよ」


 俊彦がそう言うと、半笑いだった秋子は意外そうな顔をした。こういう切り返しは予想していなかったのだろう。


「胸を隠してその縁ふちに座ってもらえる?」


 そこまで言って俊彦はわざと黙り込んだ。ここの男たちは女の裸を見慣れているから、簡単にはそういう状態にならないのだろう。だからすぐ形が変ってしまう俊彦のものが秋子は気になるのだ。


 だが俊彦だって女のそれの事は良く知らない、それならこれだっておあいこと言うものだろう。


 秋子は顔を赤らめてうつむいていた。赤さは恥ずかしさのせいだけではなさそうだ、彼女もそろそろ湯から上がりたいはずだ。初めて秋子の弱みを見つけた事が、俊彦の中で燻っていた邪な欲望を目覚めさせた。


「あの娘は、あんまり気にしてなかったなぁ」


 みずきを引き合いに出してみた。確かに彼女は無頓着だった、だがあの時は両脇の二人の目が気になって、そんなにじっくりと見たわけではなかった。それにみずきは太腿が太く、肝心の部分は毛と腿に隠れてほとんど見えなかった。だが俊彦はそれを秋子にはわざと言わなかった。


 しばらく待っていると秋子は浴槽の縁に座った。タオルは脇に置いたまま、言われた通り胸を両手で隠している。


 頬の赤味は湯から上がっても変わらなかった、腰の曲線に目を惹かれるが、それはもう大人の女のものとしか思えない。もっとも俊彦はまだそれをよく知らないのだが。


「脚を少し、広げてくれる?」


 俊彦がそう言うと秋子はうつむいて目をつぶった、だが脚が動く気配は無い。そうだろう、そんなにうまくいくとは初めから思っていない。


「彼女は気にしてなかったけどね」


 もう一度みずきを引き合いに出してみた。少し間があって秋子はゆっくりと脚を開き始めた。思った通りだ、秋子の中にはみずきへの対抗心がまだ残っている。細身の太腿が左右に分かれると、薄い茂みの奥にそれが見えた。俊彦は湯の中をそのすぐ前まで移動した。


 こんな綺麗な娘にも、こんなものがついているんだ――。


 高ぶっていた気持ちが冷や水を浴びせられたように冷めてゆく、そこにあったのはギーガーの絵で見るような異形の魔物を思わせる器官だった。


 なぜこんなものに他の男たちは強く惹かれるのだろう、理解が出来ない現実に俊彦の体は力を失っていった。これでは胸では無いと言う事を秋子に証明出来ない、グロテスクなものから目をそらし、秋子の美しい顔を見上げる。


 彼女はまだ目をつぶってうつむいていた、裸をそれほど恥ずかしがりもしない彼女が、これを見られる事がそんなに恥ずかしいのだろうか?。


 しばらくすると秋子が薄目を開けた、俊彦と目が合うと彼女はすぐにまた目をつぶって顔をさらに赤くしたが、脚を閉じる様子はなかった。秋子が気にしているのは俊彦が自分を見つめる視線のようだった、体の部分がどうのと言うわけではなさそうだ。


 恥じらう秋子の顔を見ていると胸の動悸が再び強くなってきた。落ち着いていたはずの体が急に逆の反応を示しはじめた、それは魔物をあばこうとした時よりも強く、簡単には贖えないほどの感情を俊彦に提起していた。予定通りだが不本意に強すぎる感情を扱いかねて、俊彦は立ち上がった。


 その音に秋子がまた薄く目を開けた、だがその目はすぐに大きく見開かれ、秋子は浴槽から飛び出ると、まるで野生の獣のような俊敏さで二メートルも後ろに飛び退いて、体を丸めた。


「ごめん!」


 俊彦はそう言うと慌てて湯の中にしゃがみ込んだ。小刻みに震える秋子の姿を見ると、俊彦のそれは湯の中で再びうなだれていった。


 子供の頃に親に子供らしい小さな嘘をついた事ならある、だが俊彦は今まで悪意を持って誰かを欺した事は無かった。それはいつの頃からか俊彦の密かな自慢となり、信条のようにさえなっていた。しかしたったいまその信条は崩れた、自分の欲望のために、俊彦は秋子を欺した。


 僕はこの娘が……好きだ――。


 確かに女の体に興味はあった、でも相手が他の娘ならこんな卑劣な真似はしなかった。秋子だからだ、相手が秋子だから、そのすべてがどうしても見たくなった。細かく震える秋子を見ていると、後悔の痛みが胸に満ちてくる。


 怖がらせたくない、恐れられたくもない。僕はしてはいけない事をしてしまった、なんて愚かで、なんて馬鹿な――。


 俊彦は秋子の目を見ずに言った。


「ごめん、嘘をついたんだ。本当はみずきさんの、その……それは、そんなにしっかりとは見てない」


 秋子は体を丸めたまま、俊彦の言う事を黙って聞いていた。


「胸ってわけじゃないんだ、どこでもいいし誰でもいい、とにかく女の子の体に魅力を感じれば男の体は勝手にこうなるんだ。裸だけじゃない、服を着ていても。さっきも言ったけど、これは自分でもどうにも出来ない生理現象なんだ。あっちゃんは、たぶん自分で思っているよりもずっと魅力的だよ、だからこれからは男に気を付けたほうがいい、どんなに真面目そうに見えたとしても、男なんてみんなこんなものだから、信用していい奴なんて滅多にいないんだよ」


 もう嘘はつきたくなかった、自分はこの娘にふさわしくない、それが今はっきりとわかった。自分は違うと思いたかった、でも結局は他の男と変わらない獣だった。いやもしかしたら並の獣ではないかもしれない。その証拠に、それはまた湯の中で俊彦の制止を無視して獰猛な野獣の姿に戻ろうとしている。


 秋子はしばらくそのままの姿で俊彦の様子をうかがっていた。体の震えはいつの間にか止まっていた。


 次にアトランティスに寄る時はどんな顔をすれば良いのだろう、いやもうあそこには寄れない、こんな欲望を丸出しにした姿を見せてしまったら――。


 沈黙が続いた。秋子は湯小屋を出ようとはしなかった。それどころかしばらくするとゆっくりと湯に戻った。


「冷えちゃいました」


 秋子は俊彦の顔を見ずにそうつぶやいた。恐れているようには見えない、それどころか照れたような薄笑いを浮かべているように見える。その表情の意味が俊彦には分からなかった、秋子は湯の中で自分の足の指を手でもてあそびはじめた。


「今日帰っちゃうんですか?」


 秋子が言った。少し間まがあって自分に訊いているのだと気づくと、俊彦は慌てて答えた。


「うん。でも本当は昨日帰るつもりだったんだ」


 秋子が不思議そうな目をする。俊彦は続けた。


「本当は十二月と三月にもこっちに来たんだ。もう一度あっちゃんに会いたくて。昨日も同じ時間にここに来て、あっちゃんが来るのを待ってた。お店に寄ったのはその帰り」


 秋子は驚いた顔を見せた。俊彦は胸の中の悲壮を隠しながら、精いっぱいの笑顔を作って言った。


「ほらね、あっちゃんは凄く魅力的なんだ。ただ会いたいだけで、男が遠くから何度も飛んで来るぐらいにね」


 秋子は黙って指を弄んでいる。


 俊彦は立ち上がって浴槽のふちに座った。こんな気持ちなのに、それはもう心臓の鼓動に合わせて上下に脈打っていた。男の体には獣が住み着いている、知性も忍耐も無く、女の体を見ればただ獲物としか思わない飢えた獣が生まれたときから勝手に住み着いていて、体の持ち主がいくら追い出そうとしても、けして出て行こうとはしない。


 もうこれを隠す必要はない、これで秋子に嫌われるのならそのほうがいい。これで秋子が男を警戒するようになってくれるのなら、少しは秋子の役に立てたことになる。


 たった半年でこれほど変わったのだ、これから秋子はどれほど美しく変わって行くのだろう。きっと、いや間違いなくこれからいろんな男が彼女に言い寄ってくる、その中にはいかがわしい本性を隠したろくでなしだっているはずだ、ついさっきの俊彦自身のような。


 俊彦の欲求は強い、もうそれは確かだ。でも理性の強さだって知っている誰にも負けていない自負がある、それなのに結局は欲望に負けた。秋子をそんな男の餌食にはしたくない、それを防げるのなら嫌われてもかまわない。


 本当は秋子を独り占めしたい。だがそれがはたして愛と言えるだろうか? 欲しくてたまらない女を抱きたい……その思いは間違いなく純粋なのに、あまりにも本能的すぎて、それが愛なのか粗野な肉欲なのか、いくら考えても俊彦は答えが出せない。


 今こうしている間にも秋子への想いは膨らみ続けている、秋子を想えば体が自然に反応してしまう、どんなに理性を喚起したところでそれを拒否することは出来ない。そんな男が愛を語るなんて許されて良いのか? 俊彦は拳を強く握りしめて言った。


「若い男って、好きな女の子とそういう事をするためなら何でもするんだよ。さっきみたいな嘘だって平気でつける。大抵の男はそうなんだ。自分で言ってても悲しいけど、僕も……そうなんだと思う」


 その言葉に秋子は目を見開いてこうつぶやいた。


「好きな……」


 しまった――。俊彦の表情がゆがむ。


「あ、ああ、好きじゃない女の子でも同じだよ、同じ。男はそのためなら何でもするんだ。それにあっちゃんは、嘘でもお世辞でもなくて特別魅力的な、なんていうのかな……”いい女”なんだ。僕だって自分は理性が強いほうだと思ってる、でもさっきは嘘をついて君にあんな恰好をさせた、男なんてそんなものなんだ。だからこれからはどんなにいい人に見えても、男を簡単には信じないで欲しい……」


「いい女?」


 秋子がもう一度つぶやいた。彼女は俊彦の瞳をまっすぐに見つめながら、黙り込んでいる俊彦に向かってこう言った。


「私、『好きな女』も、『いい女』も、トシさんに言われるのなら……悪い気はしませんけど」


 心臓が音を立てて跳ねた。顔が熱くなるのがわかった。何て馬鹿なんだ、全部裏目に出てるじゃないか――。


 秋子は続ける。


「トシさんって、まだ一度も私に触れてないじゃないですか、どうしてですか?」


「まだ?」


 思わず訊き返した、今度は秋子が慌てた。


「あ、あああ、そういう意味じゃなくって!」


 ついさっきまで俊彦をあれほど追い詰めていたのに、今は真っ赤な顔をして両手をものすごいスピードで左右に振っている。そんな秋子の姿が可笑しくて、たまらなく愛おしくて、精いっぱいワルっぽく振舞うつもりだったのに、俊彦は頬を緩めてしまった。秋子も少しばつが悪そうに微笑んだ。


「だってトシさん、私に変な事しなかったじゃないですか。私、あの時も今も裸なんですよ? もし私が本当に”いい女”だったとして、トシさんが”大抵の男”なら、トシさんは私にとっくに手を出してなきゃおかしくないですか?」


「え? ああ、まあ……そう言われれば、確かに」


 グゥの音も出ないとは、きっとこういう時に使う言葉なのだろう。


「だから簡単ですよ。トシさんが私に手を出さない理由は、私に魅力が無いか……」


「いや違う! それは違うよ! あっちゃんは魅力的だ、間違いなく最高だ!」


 思わず力を込めて言っていた。言ってすぐに気恥ずかしさにいたたまれなくなった。


「あの、もしそれが本当なら、今度はトシさんが“大抵の男”じゃなくなるんですけど……」


 この娘こも理系なのだろうか? 論理に隙が無くて、反論の余地が一ミリもない――。


 たったいま俊彦を言い負かしたはずの秋子が、なぜか口元を手で押さえて真っ赤な顔をしている。彼女は綺麗に弧を描いた目で俊彦の顔を見た、そして急に吹き出した。


「もう、トシさんたら、さっきから言う事が変ですよぅ、あっははは」


 秋子が目に涙を溜めながら笑っている。


 そうさ、完璧だよ君の論理は。元が僕が言った事だから反論のしようが無い――。


 たぶん秋子は気づいているのだ、俊彦が秋子の事を思って悪者になろうとした事を。指先で涙を拭いながら秋子は言った。


「トシさんはいい男ですよ。私が言うんだから間違いないです……たぶん」


 最後の一言はわざと小声で言ったようだ、小作りな鼻翼が少し横に膨らんでいる。


 心臓が苦しいぐらい高鳴った。女性に「いい男」なんて言われたのは母親以外に記憶が無い。これまで女の子に言われた最高の褒め言葉は「いいひと」だった、女の子の言葉で『どうでもいい男』の事だということは俊彦でさえ知っている。


 だが「いい男」は違う、こんな優しくて美しい娘が自分を男として認めてくれた、初めて認めてくれた娘が恋い焦がれるひとだった。その喜びは俊彦の胸を躍らせ、同時に締め付けた。


 彼女の少し大胆な行動と年齢に惑わされていたかもしれない、秋子はその歳とは思えないほど論理的に人を見ている、俊彦が慣れないワルを演じていることも簡単に見破った。それなのにさっき騙されたのは、いや騙されたフリをしてくれたのは、あの時にはもう俊彦を信用していたからではないか。


 もしかしたら君は、僕の秘めた想いにもすぐに気づいてしまうかもしれない。もし僕が君に本当の気持ちを明かしたら、そのとき君はどう言うのだろうか?。もし君が僕を拒まなかったとしたら……僕は君を奪わずにいられるだろうか?。僕はたぶん君から奪うだけで、何も与えることはできないのに――。


「高校って、反対側なんですよ」秋子がまたつぶやくように言った。


「え?」


「ここって、中学の頃は帰り道だったんですけど、高校は家の向こう側の大きな町にあるんです」


「じゃあもしかして、今日は一度家に帰ってから来たってこと?」


「そうです。家に寄って自転車に乗り換えて来たんです。バスのままでも里の入り口までは来れるんですけど、そこで乗り換えなきゃいけなんですよ。それを待つよりは家から自転車でぶっ飛ばして来たほうが早いんです。ほとんど下り坂だし」


「ぶっ飛ばし……。どのくらいかかるの? ここまで」


「学校からなら二時間……ううん、もっと」


「うわっ、遠いね」


「そうですよ、遠いですよ」


「そうか、あそこから自転車で……」


「帰りはほとんど上り坂です」


 彼女にずいぶん悪い事をしてしまったようだ。


「ごめん、僕が呼んだばっかりに大変なことをさせちゃって」


「そうですよ、大変だったんですよ」


 中学の英語の女性教師を思い出した。英語はあまり得意ではなかったので、彼女の授業は怖かった印象しか残っていない。おかしな感傷に浸っていると、秋子が苛ついたように声のトーンをあげた。


「私、ここまでトシさんに会いに来たんですよ?」


「ごめん。呼んじゃって」


 怒った女性には素直に謝るにかぎる――。これは英語の授業で学んだ処世術だ。言葉だけでは不満だろうと思い、両手を前で合わせて頭を下げた。それなのに秋子はもっとイラついたような顔をして、早口の小声で何かを言った。


「……たかったんです」


 聞き取れずに間抜けな顔をしている俊彦を、秋子は強い目で睨んだ。秋子の耳が赤くなる。ついに噴火するかと思って身構えると、秋子は大きな声で、だがゆっくりと叫んだ。


「会いたかったんですよぅ! もぉ!」


 胸が締め付けられるような気持ちとはこれの事なのだろうか?。冷蔵庫の奧に隠しておいたグレープフルーツを家族に見つからないようにこっそりと絞る、鼻先に甘い香りが漂って最後の一つの切なさとともに、胸の中が幸せな気持ちで一杯になる――。その時と少し感じが似ていた。


 俊彦のはかりごとは、すべて徒労に終わってしまったようだ。さっき自分に問いかけた言葉が、俊彦の中で壊れたレコードのように何度も繰り返された。


「君を奪う事が、僕に許されるのだろうか?」

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