6. 東京

「ようお前、目の下すげえクマじゃねえか。パンダかよ、あひゃひゃひゃひゃ」


 時間ギリギリで教室に駆け込むと、後ろから肩を叩かれた。癇に障る下品な笑い声にうんざりしながら振り返ると、突き出された指が頬を突いた。大学生にもなってこんな幼稚な悪戯をする奴を俊彦は一人しか知らない。


 いちいち相手にするのが面倒で、俊彦が片手を上げて無視しようとすると、時間が無いというのに山崎はわざわざ前に回り込んで両手を脇に広げて大げさに驚いた顔をしてみせた。この阿呆ヅラを一度思い切りぶん殴ってみたい、どうしてこんな奴と大学まで一緒なのだろう。


「昨日、遅くまで飲んでたんだ」空いている席を探しながら適当に答えると、山崎は「なぁんだよお前、俺以外に友達なんていねぇだろう? 一人で飲んだのかよ、ダッセー!」ともっと癇に障る事を平気で言った。


 そもそもこいつとは高校が同じだっただけで、友達になった記憶なんていくら探しても見つからないのだが。


「本当は夜中にコキまくったんだろう? 新作かあ? 俺にも貸せよ、なあ! なあ!」


 相変わらずデリカシーというものを母親の腹に忘れてきたような男だ。目の輝きが異様で鼻息が荒い、こんなのを野に放っておいて良いのだろうか?。だが悔しいことに前半はこいつの言う通りだ。だがもしあれがビデオだったとしても、お前にだけは絶対に貸さない、お前なんかにあのは汚させない。


 昨日、俊彦がアパートに着いたのは空の端が白み始めた頃だった。荷物をバイクに積んだまま部屋に入ると、上着を脱ぎ捨てて布団に倒れ込んだ。少しも沈まない万年床でも、自分の匂いがする布団は心地良かった。


 やはりあそこまで日帰りは厳しい、帰りは疲れが出て途中で何度も休みながらやっと朝までにたどり着けたのだ。途中までしか無いとはいえ高速道路を使えば少しは楽になるかもしれないが、バイクのローンを親に肩代わりしてもらっている身で、そんな事はさすがにできない。


 天井が自分に向けて何度も繰り返し落ちてくるように見える。長くバイクを運転した後はいつもこうなるが、今日はそれに加えて天井が少し回っている。相当疲れているらしい。


 寝てしまおうと目をつぶると、すぐに湯小屋の彼女の姿が頭に浮かんだ。こぼれ落ちる二つの白い房を思い出すと、かえって目が冴えた。


 胸の苦さはまだそのまま残っていた。早く吐き出したくて頑張って帰ってきたのに、いざ部屋に着くと躊躇する。股の間の疼きが辛くて根元の袋を両手で握り込むと、軽い痛みが苦味を少しだけ軽くしてくれた。


『十五でねえやは嫁に行き』そう歌われた時代もあったが今は違う。ただあの娘だってもうすぐ結婚できる歳なのだ、男がこんな気持ちになってもおかしくはない、なら何を躊躇するのか? だがあんなに透き通った瞳を持った娘を、この橫縞な気持ちのはけ口にして良いのだろうか。


 高校生になった頃、周りの同級生たちは同じ学校の女の子か、その頃人気だったアイドルのグラビアを愛用していた。歳は昼間の彼女とたいして変わらない。


 今は大人向けの雑誌ですら彼女と同じ年頃の女の子の水着写真を競うように載せている。どんなに芸術的で美しい写真でも、女の肌さえ出ていれば男は実用に使ってしまえる。別に自分だけがおかしなことをするわけじゃない。


 そう理屈では納得できても何故か踏み出せない。股の痛みも湧き上がる欲望をそれ以上消すことは出来ないらしい、握りつぶしそうな恐怖を感じて手を離した。


 自由になった手があらぬ場所にいきそうで、思わず自分の肩を抱きしめた。どうしてこんな欲望に振り回されなければいけないのか、こんな我慢を続けていたら、いつかは本当に気が狂うかもしれない。


 もし来世というものがあるのなら、もう男には生まれたくない、いっそ性別が無さそうなアメーバか何かがいい。何も分からないまま生まれて、分からないまま死ぬ。そんな生き方が冗談では無く羨ましく思えた。


 布団の上を転がった。特に意味や意志があるわけでもなく、苦しくて転がりまわる事しかできなかった。このまま我慢すれば朝まで眠れないだろう、目から涙が溢れた。


 生産性の無い漏精を我慢するだけのことが何でここまで苦しくなくてはいけないのか、死ねるものなら今すぐ死んでしまいたいとさえ思った、ただそれができる勇気は無かった。


 辛さにもだえて布団から転がり出た。いつの間にか畳にそこを強く押し付けていて、気づくと慌てて腰を浮かせた。


 部屋の隅に茶色い瓶が見えた。一度試したが飲めずに放っておいたウイスキーだった。開けると鼻の奥がつんとした。キャップに少しだけとって舌先で舐めると、今度は飲めそうな気がした。流しに持って行って水で割って一口飲んだ、喉の辺りが暖かくなって少しだけ気持ちが楽になった。


 眠れるかもしれない――。


 そう思って二杯目を口にしたが興奮は収まらない。もう一口飲むと、また少しだけ気持ちが軽くなったが、それでも彼女は頭から消えてくれない。


「綺麗だ……」


 ふと口をついて出た。自分の口からそんな台詞が出るとは思わなかった。いっそ窓を開けて街に向かって叫んでしまおうか――。そう考えはじめた時、突然畳が下から盛り上がってきて、部屋の柱が斜めにかしいだ。


「うぅわっ、大変だ!」


 必死に逃げようとしたが揺れが酷くて立ち上がれない。脚をとられてどこかに体を強くぶつけた気がする。最後にアパート全体がゆっくりと横倒しに倒れた。


 目が覚めたのは昼前だった。アパートは無事で、俊彦は自分の部屋の布団の上に大の字になって寝ていた。見回すと、沢山の丸まったティッシュペーパーが布団を囲むように散らばっていた。寒いと思ったら下半身に何も着けていない、穿いていたはずのものは壁際に全部放り投げられていた。


 すぐ横にティッシュペーパーの箱が転がっていた、出かける前に開けたばかりだったのに、中身が三分の一ほど減っている。何が起きたのかは分かった、でもその量を見て俊彦は背筋が寒くなった。


 二日酔いで頭が痛いと嘘をついて山崎を振りほどいた。顔がよほど真に迫っていたのか、いつもはしつこい山崎が珍しくそれ以上は絡んでこなかった。


 周りに誰もいない席に座ると、また彼女が頭の中に現れた。昨夜酷使したらしい部分が机の下でズキズキと痛んだ、教授の声がお経のようだ。眠気とともに昨日の夜自分がしたらしい事がぼんやりと思い出されてきた、獣に支配された自分が恥ずかしくて、その日は寝るまで強い自己嫌悪にさいなまれた。


 十二月の初めに急な休講日があった。前日の夜、俊彦はバイクに飛び乗った。今年はまだ雪が少ない、ここ数日は向こうも晴れが続いているらしいから、道は乾いているはずだ。


 長袖の肌着の上に寝間着にしていたスウェットを二枚重ねて、その上に持っている防寒着をすべて着込んだ。日光の辺りを過ぎて山道に入った辺りで寒さに耐えられなくなった。ドライブインやコンビニに何度も寄って、缶入りのしるこや黄色い缶の甘いコーヒーを買って飲んだ。


 コンビニで貰ったレジ袋を首に巻いたり、靴下の上に被せて風が入らないようにして、震えながらゆっくりと走った。薄暗い峠の手前でラーメン屋を通り過ぎた。赤いテントは思った通り闇に溶け込んでいて、知らなければ気がつかなかっただろう。


 峠を越えても道路は乾いていた。里の入り口を曲がってしばらく走ると、前に降った雪がいくらか両端に寄せられていた。林道に入ってからもしばらく雪は無かったが、四、五キロほども走った辺りで周囲の山に雪が見え始めた。


 その少し先で道にも雪が現れた、タイヤを滑らせながら、いつもの河原に入って雪の上にテントを張った。ガソリンコンロで飯を炊いて朝飯を済ませ、一度仮眠しようと思ったが、移動の興奮が収まらず眠れないまま前と同じ時間に着くように里へ降りた。


 一時間以上待ったが湯小屋には誰も現れなかった。今は温泉場ですらどこの家にも内風呂がある、考えてみれば年頃の彼女がいつも湯小屋を使うとは限らない。あの日はたまたま大きな風呂に入りたかっただけなのかもしれない。


 テントに帰ると着替えも含めて持ってきた服を全部重ねて着た。日が沈むとまもなく頬を刺すような冷たさを感じた。冷凍庫の中はきっとこんな感じなのかもしれない、ヘッドランプの灯りに照らされた息が綿菓子のように見えた。


 早い夕食を済ませると寒くてたまらなくてシュラフに潜った。ホームセンターで買ってきた二千円のシュラフをいつものシュラフの中に入れて二重にしてみたが、特に違いは感じられなかった。


 その晩は足の指先がたまらなく痛くてずっと動かし続けていた。何もしなくても上下の歯がガチガチと当たる、空気に触れている顔が冷たくて、シュラフの中に頭まで潜って体を丸くした。夜が更けると声を出さないと耐えられなくなって、「いてーよお、いてーよお」と言い続けた。


 足の指先が痛みも感じなくなってきた頃、息継ぎのためにシュラフから顔を出したら、テントの外が薄明るくなっていた。涙が出るほど嬉しくて、小便に行こうとテントのジッパーを開けたが、外の冷気が強すぎて諦めてまたシュラフに潜った。


 日が当たり始めるとテントの中は急に暖かくなった。小便に行こうとしたが、外に置いていたブーツがカチカチに凍っていて足が入らない。尿意に耐えられずバリバリ、バリバリと音をさせてブーツを無理矢理開いて足を突っ込むと、中はまるで氷の中に足を突っ込んだように冷たかった。


 溜まった小便を出して飯を食うと少し眠れた。昼ごろ起きてまだ冷たいブーツを履くと、昨日と同じ時間に湯小屋まで降りた。湯に浸かると足の指先が赤くなりズキズキと痛みだした。


 揉みながら待っていたが彼女は現れなかった。帰りはアトランティスに寄ってチャーシュー麺を頼んだ。残念賞のつもりで奮発したのに、味は少ししょっぱすぎる気がした。


 東京へ戻って一週間ほど経った頃、その冬初めての強い寒波が東北地方の上空を覆った。山里はそれきり雪に閉ざされてしまった。

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