5. 峠の店

 火照った体を冷ましてから湯小屋を出た。夕陽の残り火に背中を焦がされながら、XLRのアクセルを開けた。


 街道の両脇には紫がかった秋桜コスモスが植えられていて、夕方のあかみを増した風がたくさんの花を一斉に揺らしていた。田んぼの間に見える細い道を、白いヘルメットを被った中学生たちが自転車に乗って帰って行くのが見えた。


「赤とんぼ」の歌のフレイズが頭に浮かんだ。カラスが二羽飛んできて、いいタイミングで鳴き捨てていった。まるで童謡の世界に迷い込んだようで、画面の中の中学生たちが実際よりもずっと子供に見えてくる。


「あの娘だって同じなんだぞ」


 ヘルメットの中で俊彦は自分にそう言い聞かせた。


 中学に入学して、詰め襟の窮屈さにも慣れはじめた頃だった。俊彦と同じ年頃の女の子のヌード写真集が発売された。当時人気があった深夜のテレビ番組で紹介されると、それはたちまち書店のレジの前の棚に平積みで置かれるほどになった。


 どこかの学校の保護者団体が書店に抗議をした事がニュースになると、写真集は余計に売れた。だが普段はクラスの女子を肴に妄想を語り合っている同級生たちが、その写真集のことはまるでこの世に存在しないかのように話題にしなかった。

 これほどの騒ぎになっているものを彼らが知らないはずはなく、それはとても奇妙な光景だった。


 高校生になってその写真集のことも忘れかけていた頃、今度は同じ娘が主演の映画が作られた。ある朝登校すると、一人の同級生の机の周りに人だかりが出来ていた。山崎という男子生徒がその娘の写真集を学校に持ってきたのだ。


 中学までは長野で暮らしていたという山崎にはまだ友達がいなかった。男子の反応が良かったからだろう、山崎はそれからも会社員のお兄さんのコレクションを勝手に持ち出しては、たびたび学校に持って来るようになった。

 朝、山崎の机の周りに男子が群がっていれば”新作公開”の日だ、だが俊彦はその輪に加わらなかった。他にも数人、輪に加わらない者がいたが、彼らは皆クリスチャンだった。


 ある日、俊彦は群がる男子たちの後ろを通り過ぎるふりをして、それを盗み見た。たったそれだけの事で胸の中に”苦味”が広がった。それは父親が買っている週刊誌のグラビアを盗み見るときには感じない、得体の知れない苦味だった。

 お兄さんの趣味なのだろう、山崎が持ってくる本のモデルはだいたいが若く、苦味を感じるのは同級生の女子を意識してしまうせいかもしれなかった。


 その時と似た苦味がいま胸の中にある。中学生の頃、彼女の写真集の話題を避けていた同級生たちも、もしかしたらこんな苦みを感じていたのかも知れない。だが彼らは高校生になった頃にはそれを失っていた、なのに俊彦は大学生にもなった今もそれを持っている。


 幼稚園から小学校まではミッション系の学校に通っていた。家から近くて教育環境が優れている学校。選んだ理由はそれだけで、家族にクリスチャンはいなかった。


 だが上級生になった頃、何かと言えば一人で祈りを捧げるようになった息子を見て、両親は老舗和菓子屋のせがれが西洋の習慣に染まりすぎることに初めて不安を抱いたらしい。中学校はその系列ではなく公立の学校に通うことになった。


 横浜は日本の中でもいち早く西洋文化を受け入れた特別な街の一つだ。街には余所の土地では滅多に見かけないらしい西洋風の教会がいくつも建っていて、通りで外国人を見かける事もそれほど珍しくは無かった。そんな土地柄のせいか、公立の中学校に入ってもクラスには何人かクリスチャンの子供がいた。


 信者では無い俊彦は彼らと特に親しいわけではなかったが、周りの男子たちが女の子のきわどい噂話を初めると、その環からなんとなく距離をとってしまうのは彼らと変わらなかった。


 高校は多摩川を渡って東京側にある私立校に通った。公立の高校よりも自由な校風だったが、進学とスポーツに力を入れていて、特に野球部への肩入れは他の運動部の父兄からクレームが入るほどあからさまだった。


 その高校では生徒は全員何かの部に入らなければいけなかった、俊彦は経験のあるサッカー部を選んだが、実際に入部してみると部員たちの興味はボールを蹴ることよりも、ピッチの周りを走る女子陸上部員の脚にばかり向けられていた。中には彼女たちを肴に前の晩にこなした回数を毎朝報告する奴までいた。


 誰も聞きもしないのにわざわざ報告するぐらいだから、彼はよほど自信があったのかもしれない、だが彼が報告する回数はいつも俊彦より少なかった。自分は他の男より特別に欲望が強いのではないかと俊彦が疑い始めたのは、それがきっかけだった。


 仲間たちの前では、いつも何も知らないふりをしていた。実際は彼らよりよほど多く漏らしているくせに、彼らが猥談を始めると決まって苦い顔を作って見せた。高校生にもなれば大分無理があるそんなそぶりを、俊彦は卒業まで頑なに続けた。


 あの頃のあの連中のように、どんなことでも笑い話に出来るような性格だったら、今頃は女の子を特別に意識する事もなく、普通に話しが出来るようになっていたかもしれない。こんな得体の知れない苦味だって、味合わなくて済んだのかもしれない。俊彦は時々そう思う。


 大学に入ってまだそれほど経たない頃、駅前の古本屋で参考書を探していたとき、隣の棚にあの女の子のヌード写真集を見つけた。

 その頃は普通の女子高校生を大勢集めたアイドルグループがすごい人気で、名前を聞かなくなっていたその娘の写真集は、棚の隅に置かれていた。


 いつもならレジにはアルバイトの女の子がいるはずの時間だった。でもその日に限って初老の店主がレジに座っていた。店の奥から本の束を動かす音が聞こえる、アルバイトの彼女はそっちにいるのかもしれない。

 咄嗟に参考書の下に写真集を添えた。レジまでの距離がずいぶん長く感じた、心臓が胸の中で跳ね回り、息も乱れていた。


 店主は歳のせいか何か病気でもあるのか手元がおぼつかなかった。わざわざ下に重ねたものを上にするな! いいから早く袋に入れてくれ! 心の中で何度か毒づいた。彼女がレジに戻る前になんとか会計を済ませると、どこにも寄らずに部屋に帰った。


 玄関の扉に鍵をかけると、歩きながら下着ごとズボンを下ろした。ズボンが脚に絡まって畳の上に派手に転んだ。膝が擦れて熱いのも気にせずに、四つん這いで尻を出したまま古本屋の紙袋を滅茶苦茶に破いた。本にかけられていたビニールも力任せに引き裂いた、起き上がる時間もハサミを探す時間も惜しかった。


 同級生の何人かは上京してすぐに風俗店に行ったそうだ。そんな彼らを心の中でさげすみながら、俊彦は彼らの前で「もうそんな事はとっくに経験している」とでも言うような顔をしてみせた。少し前までは逆に何も知らないふりをしていたのに。


 僕はあいつらの誰よりも――。


 おそらくそうに違いないと思っているのに、俊彦には彼らを蔑むことしか出来なかった。もっと早ければ違ったのかも知れない、一度思い切って彼らの輪の中に入っていれば、そこからすべてが変わっていたのかも知れない。だがもう遅い、自分はこういう人間に出来上がってしまった。こんなに欲望が強かったら、今更何があったところで変われるとは思えない。


 気がつけば、必死に手を動かしていた。


「堕落しない、堕落しないぞ! 初めては好きな女の子とするんだ、そしてその娘を一生大切にするんだ!」


 心の中で繰り返しそう叫びながら、今している行為の免罪を誰かに求めていた。苦味は腹から無限にこみ上げてくる、胸を通り越してもう舌先までが苦い。腕の筋肉が悲鳴を上げても俊彦は手を動かし続けた。


 どこも隠さない写真集なのに肝心の所がぼやけて見えない、頬が熱く感じて一旦手を止めて触れてみると、指先に生暖かい水滴が付いた。苦しくて苦しくて気が狂いそうだ、こんなに苦しいのならいっそ死んでしまいたいとさえ思った。子供を作る気もないのに、どうしてこんなに強い欲望が湧かなければいけないのか。


 苦しいっ、苦しいんだ、もう無理だ、無理だよ! 助けて! 誰か助けて!


 悲痛な願いはすぐに欲望にかき消された、再び手を動かしはじめると高まりは突然訪れた。用意が無くてすぐ側に積んでいた古新聞の束に向けて放った、だが実際はそのずっと先の壁まで飛んだ。気がつくと、あれほど激しかった苦痛がまるで初めから無かったかのように消えていた。


 ミラーに映る赤い残照は昼間の終わりを告げている。先行車も無く対向車もたまにしかこない道を走りながら、秋の高原の冷たい空気を俊彦はゆっくりと味わうように吸い込んだ。次にここの空気を味わうのはきっと来年の春になるだろう、もうすぐここにも雪が降る。


 また湯小屋の彼女の事を考えていた、あの美しい姿態が目に焼き付いているうちに、部屋に戻って苦さを吐き出してしまいたかった。苦しみから解放されたい一心でいつもよりも少し余計にアクセルを開けた。


 峠を越えていくつ目かのカーブを曲がったときだった、群青色に落ち込んだ空に赤い光が漏れていた。


 あのテントだ――。


 湯小屋の出会いが衝撃的すぎて、昼間あれほど悩まされた赤いテントの事を俊彦はすっかり忘れていた。

 帰り道からだと店は尾根に隠れてよく見えない。今は暗いから漏れた灯りに気づいたが、いつものようにまだ明るい時間にここを通っていたら気づかずに通り過ぎていただろう。


 逆に東京からこちらに来る時は、まだ空が暗い時間にここを通る。テントの灯りが消えていればこの店の存在には気づかない。今朝はたまたま遅れて周囲が明るくなっていたから赤いテントに気がついた、何度も前を通っているのに今朝までこの店の存在に気づかなかったのは、分かってみればそんな簡単な理由だった。


 店があると知ったとたん体が空腹を思い出した、すぐに耐えられなくなってバイクを駐車場に入れた。夜の山の中に輝くテントに朝方感じた『うさん臭さ』は微塵もない。むしろ砂漠に現れたオアシスのように頼もしくさえ思える。


 砂利敷きの駐車場には、先に白い軽トラックが二台駐まっていた。一台は荷台にホラー映画に使えそうな首の長い草刈り機を積んでいて、もう一台は何に使うものなのか大人二人ぐらいは押し込めそうな、大きな黄色いポリタンクを積んでいた。


 入り口の脇には白い立て看板が置かれていて、癖のある筆文字で「ラーメン、定食、川魚料理」と書かれている。まるで日本蕎麦屋のようなこの看板と、赤いテントに黄色いカタカナで書かれた「アトランティス」の間に統一性はまったく感じられない。店主あるじはよほど頓着しないか常識を越えた感性の持ち主に違いない。


 戸を開けると、ちりん、ちりん、と二回、鈴が鳴った。


「いらっしゃいませぇ、お好きなお席へどうぞぉ!」


 奥から中年のおばさんが現れて、にこやかな笑顔で言った。白い三角巾を被って臙脂色のエプロンをかけたおばさんの言葉は訛りが薄い。なじみのある言葉と柔和な雰囲気の丸顔に、俊彦は古い知り合いに会った時のような安心感を覚えた。


 店のテーブルや椅子はどれも新品と変わらないほど綺麗だった、白いクロスが貼られた壁にも油の染み一つ見当たらない。

 メニューはラーメンが四百五十円、チャーシュー麺が六百円で、来る途中の街道の相場とそれほど変わらなくて安心した。表の看板にあった川魚料理は岩魚や山女やまめを使った御膳でそれぞれ二千円を越えていたが、これはたぶん観光客向けだろう。


 旅先で初めて入る店では冒険をしないと決めている、特に慣れないご当地料理は絶対に頼まない。もし好みに合わないまずい物を食べさせられたら、どんな美しい思い出も一気に吹き飛んでしまう。ラーメン屋ならはじめは無難なラーメンがいい、店で一番安いメニューなのはたまたまだ。


 ラーメンで有名な喜多方よりだいぶ関東に近いせいか、出されたラーメンは喜多方よりも麺が細く、東京や横浜で食べ慣れたものに似ていた。スープも強めの中華だしが俊彦の好みに合っていた。


 長い峠道の間で他に食事ができる店は、うどんか蕎麦を出す店しかない。そのどれもが特産品の販売所がオマケでやっているようなものだから、夕方の四時か五時には閉まってしまう。


 駅が遠く移動は車が辺り前の土地柄だから、こんな辺鄙な山の上でもラーメン店にとっては案外悪くない場所なのかもしれない。

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