第31話 列車


 ロシアに滞在したのはたった半日だった。大公とのやり取りを終えた以上、ロシアに留まる理由はなかった。


 帰りの切符を買って、夕方には蒸気機関車に乗っていた。


 蒸気機関車の客席は三等級制になっている。サロメは当然のように一等車の切符を持っていた。二等車は座っているだけでも腰が痛くなるし、三等車にいたっては屋根がついているだけマシというありさまなのだ。今回はサロメがお金を持っていて良かったと心底思った。


 一等車だけは完全な個室になっていた。車両同士を行き来することはできず、外に繋がる扉があるだけだ。走り出してしまえば誰も入ってこれなくなる。ついに人目もなくなり、ようやく落ち着いた二人は、椅子に腰かけるやいなや大きく息を吐いた。


「またあの長旅が始まるんですね」

「ひとまずポーランドね。帰りだし、どうせならゆっくり観光でもしましょうか。毎日毎日、狭い部屋の中に閉じ込められるのはもううんざりよ」

「一等車でも狭いものは狭いですからね……」


 リザは腕を伸ばしながら答えた。


 馬車と同じ造りになっている一等車は、歩き回ることもできないくらい狭い空間だ。向かい合ったソファと寝台、あとは小さいテーブルがあるだけで、座っていることしかできない。結局腰は痛くなってしまうし、身体も鈍る。降りて観光という彼女の案には手を上げて賛成した。


 まずはロシアからポーランドへ。


 リザが水を飲もうと手を伸ばしたところで、ガタンと車両が揺れた。リザは反射的にてをっひこめた。けたたましい音とともに外の景色がゆっくりと流れ始めた。


「動きだしたみたいですよ」

「ようやくこの豪雪ともお別れだわ」

「とは言っても、ロシアから出るにはだいぶかかりますよ。ええと、終点のワルシャワ駅まで二十日くらいですかね」


 リザは机の端に置かれていた路線図を眺めながら言った。途中にはいくつもの駅があって、道のりは遠かった。


 二人は向かい合ったまま座っていた。


 何にもならないような会話を続けて、飽きてきたら口を閉ざす。ぼうっと窓の外を見たり、目を閉じてうとうとしてみたり、また思いついたら話しかける。それが二人の過ごし方だ。


 雪に覆われた地平線の向こうで太陽が沈んでいく。白銀に反射して燃えるような明るさだった。リザはしばらく目が離せなくて窓ガラスに片手を付けていた。やがて日も沈みきって部屋は薄暗くなってきた。


「……暗くなってきたわね。ランプを付けて」


 サロメは本を取り出して、真ん中のあたりを開いた。リザが覗き込むようにして表紙を見れば、タイトルは見慣れない文字だった。


「……ドイツ語?」

「残念。オランダ語よ」


 サロメは顔を上げないまま返した。


「まだ満足に話せないけれどね」

「読めるだけでも十分ですよ。サロメって何か国語読めるんですか?」

「内緒」


 彼女はくすくすと笑った。秘密にするようなことでもないのに、彼女がそう言って微笑むことは少なくなかった。リザはくっつけていた膝の上に手を置いて、軽く身を乗り出す。


「そんなにたくさん、どうやって勉強したんですか?」

「読んで勉強したものも多いけれど、ちゃんと話せる言葉は、人と話しているうちに覚えたわね。会話をしているうちに何となく掴むのよ。発音とか、言い回しとか」

「人って?」

「私を愛してくれた人たち」


 サロメは身体を横に倒して、壁にももたれかかった。すっと目を細める。


「最初に覚えたのは英語だったわ。家を飛び出して、行く当てもなかった私を拾ってくれた伯爵が教えてくれたの。教養を身に付けなさいって、何度も私を叱ってね。思えば、ちゃんと習った言葉はこれだけね。次はイタリア語だったかしら。新しい恋人がイタリア人だったから必死に覚えたわよ、とても大変だった。確かその次がロシア語で――」

「ちょっと、ちょっと待ってください」

「なあに」

「家を飛び出したって、初めて聞いたんですけど」


 リザは目を見開いていた。サロメは「ああ」と何でもないことのように呟いた。


「私は田舎の貧しい農民の生まれよ。私が十五歳のとき、どうにも上手くいかなくなって、人の家に預けられることになって――まあ売られたのよね。それで、その途中に逃げてきちゃったのよ」


 サロメは口を開けて笑った。彼女の声は不思議と軽やかだったし、心から愉快そうに喉を鳴らしていた。少しも笑えない過去なのに、ひとしきり笑い終えた彼女は目元を拭った。


「お金が欲しいって思ったわ」


 列車が大きく揺れる。


「たくさんのお金が欲しかったのよ、私。持っていないものはお金で全部買えることを知っていたから。それにお金がなくて幸せにもなれなかったから。それでドゥミモンデーヌになって、人から奪って生きていこうと決めたのよ。……他人を蹴落としながら生きていくことは少しも怖くなかったわ。何も成せずに死んでいくことの方が、ずっと怖かったの」


 彼女は目を伏せる。リザの口は自然と動いていた。


「だったらサロメは、今幸せですか?」


 サロメは視線だけを上げた。


「そうねえ――」


 短い沈黙の後、彼女は穏やかに首を傾けた。しかし彼女の言葉はぷつんと途絶える。列車が揺れたかと思えば、スピードを落とし始めたのだ。次の駅に着く合図だ。


 何となく続きを口にしづらくなって、二人は振動に身を任せていた。


 蒸気の吹きあがる音を鳴らしながら、機関車は駅の前でゆっくりと止まった。リザは少しだけ腰を浮かせて、扉に付けられている小窓を見た。駅には二、三人の人影があるだけだった。


 機関車が完全に動きを止めると、人影が動き始めた。それぞれの切符を片手に決められた車両へと向かう。


 そのうちの一人が一等車の並ぶ車両へと歩いてきた。目が合うと気まずいような気がして、リザはすっと目を逸らした。


 少し目を離していただけだが、サロメは本をかばんの中にしまって、両手は品よく膝の上で重ねていた。視線は真っ直ぐ前だ。澄ました顔で座っている彼女が何だかおかしく思えて、リザは眉を下げた。


 サロメは最初からいい家の生まれで、最初から恵まれていて、最初から勝負はついているのだと思っていた。それが当たり前だとも。だがそれは真実ではなかった。胸の奥が痛いような、心地いいような気がした。


 ただの勢いで、あなたに憧れています、なんて言葉を口走りそうになって唇をぴくりと動かす。それではまるで愛の告白のようだ。


「……サロメ、でも、私」


 うわ言のように呟いた言葉が、床へと落ちていく。


 外へと繋がっている鉄の扉が音を立てたのだ。一人でにノブが動いた。誰が扉を触っているのか確かめようと、リザが立ち上がったが、小窓を覗きこむよりも先に扉が開いた。


「こんばんは」


 駅の明かりが差し込んだ。帽子を片手で押さえながら一礼した男は、ドアから手を離して微笑みかけた。


 ロシアにいるはずのない人物が、まるで亡霊のように目の前に立っている。リザはぱくぱくと唇を動かしてからようやく声を絞り出した。


「……オリヴィエさん!」

「どうも。お会いするのはしばらくぶりですね。お二人とも、お元気そうで何よりです」


 オリヴィエは少しだけ身をかがめて、室内を覗きこんだ。


 フランスとの関係が悪化し始めているロシアで、軍服を身にまとうわけにはいかなかったのか、彼は差しさわりのなさそうなコートを着ていた。くすんだ色の柔らかな生地のせいか、いつも以上に優しげに見えた。


 サロメは座ったまま腕を組んだ。むすっとした顔で言う。


「ほらね、監視していたでしょ?」


 彼は困ったように目を細めた。


「付きっきりでの監視はしていませんよ。せいぜい帰りの列車に合わせられるくらいです」

「要は出入りを見張っていたってことじゃない!」

「あ、そろそろ列車が駅を出るみたいです。お邪魔しますね」

「誰も許可していないのに、勝手に入ってこないでくれる!?」


 サロメは抗議したが、何のことやらと身体を滑りこませてくる。汽笛が鳴るのとほぼ同時に彼が扉を閉めた。列車が動き始めると、大きく揺れたので、立ったままのリザが態勢を崩した。だが同じように立っているはずのオリヴィエが片手で支えた。


「大丈夫ですか?」

「あ……ありがとうございます」

「しばらく揺れますから、座った方がいいですね」


 リザは置きっぱなしにしていた鞄を掴むと、さっとサロメの隣に腰かけた。二人並んで座っているのを見た彼は正面に腰を下ろした。オリヴィエと向かい合うような形になって、真っ先に口を開いたのはサロメだった。


「で、ロシアにまで足を運んでくださって、何のご用かしら?」


 彼女の声は刺々しい。オリヴィエは宥めるように、声量を落とした。


「まずは作戦が成功か失敗かをお聞きしたいんですけど。聞くまでもないことですかね?」

「愚問だわ」

「そうですか。なら良かったです」


 軽く頷いただけで、それ以上訊くようなことはなかった。


 オリヴィエはソファに浅く腰かけたままでにこにこと穏やかなままだ。彼が結果を訊くためだけにわざわざやって来たとは思えなくて、リザはわずかに首を傾げた。


 サロメも同じく疑問だったのだろう、怪訝そうに眉をひそめた。


「あなた、暇なの? ロシアまで旅行なんて羨ましい限りだわ」


 オリヴィエは嫌な顔一つしなかった。


「仕事ですから」

「仕事?」

「俺のするべきことをするために、遠路はるばるやって来たわけです」


 窓の外は暗い。流れゆく景色が目の端に映る。


 オリヴィエは笑みを崩すことなく、コートの中に手を差し入れた。内側を探って何かを引っ張り出してきた。まるで煙草でも取りだすかのような自然な仕草だ。角ばった手のゆったりとした動きをリザはぼうっと見ているだけだった。


 だから反応できなかったのだ。


 彼の手の内が一瞬きらめいたのは、見えていたはずなのに。


「――あ」


 声だけが零れていた。手首を一瞬持ち上げて、しかしそれ以上動くこともできなかった。リザは固まっている。目の前で起こっていることを止めなければならない、と頭では分かっていたのに、身体はついていかない。


 自分はオリヴィエ・アランという男を勘違いしていたのだと、それだけは遅れて理解した。


 オリヴィエはナイフを握りしめていた。


 どこにでもありそうな調理用のナイフだ。左手で柄を掴むと彼は素早く立ち上がった。一歩大きく踏み出してサロメのドレスの裾を踏みつける。サロメの身体が前にぐんっと引っ張られるのと同時に、彼は躊躇することなく腕を振り下ろしていた。


 ちらりと見えた彼の目は、見たこともないくらいに冷ややかで――。

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