第32話 攻防

「……っ、何を、するのよ!」


 サロメはリザの革鞄をひったくり、顔を庇うように掲げていた。刃は深々と刺さり、革鞄を突き破っていた。切っ先はサロメの瞳のわずか数センチ前で止まっていた。


 沈黙が訪れる。何の前触れもなく攻撃したオリヴィエと、とっさに防いでみせたサロメが無言の攻防を続けていた。


 すぐそばで見ているはずのリザは指を跳ねさせるだけで、ろくに動くことができなかった。脈だけがドクドクと異様に早い。喉が詰まりそうなほど息苦しくて、しかし呼吸の仕方を忘れてしまって、リザは瞳だけを泳がせていた。


「ほら、見なさいよ……。これがこの男の、やり口よ!」


 サロメは口角を上げていた。今にも刃が目をえぐりそうだというのに、彼女はいつも通り不敵に笑ってみせるのだ。


「サ、サロメ!」


 彼女の声でふっと我に返ったリザは、足をもつれさせながら立ち上がった。大きく揺れ続ける列車の中でふらついて倒れそうになる。それでも必死に腕を伸ばして、オリヴィエのコートを両手で掴んだ。


「離れてッ!」


 ほとんど叫び声だった。リザは全力で彼のコートを引っ張った。リザよりはるかに大きい彼を引きはがそうとする。体重をかけて腕を引くが、しかし勢いあまってリザも一緒に真後ろに倒れていった。オリヴィエは身体をひねってリザの手を叩き落とそうとしたが、片足が滑ってバランスを崩した。


「お……っと」


 オリヴィエが目を見開いた。


 固い床へもみくちゃになって倒れていく。真上から落ちてくる影に、リザは思わず目を閉じてしまう。なす術もなかった。


 しかしオリヴィエは空中で態勢を整えた。片足だけで身体を回転させると、リザの背後へ腕を回した。首根っこを摑まえると、勢いのままに床へと引き倒した。


「っ、は、あ!」


 リザは背中から落ちて、背骨を強かに打ち付ける。肺に衝撃を受けて息が漏れた。痺れるような痛みに瞳孔が開くが、うめき声を上げる間もない。


 馬乗りになっているオリヴィエは、にこりとしたままでナイフを振り上げていた。


 上げたはずの声は悲鳴にならなかった。喉がヒュっと鳴っていた。かざされた刃が月明りに眩しい。リザは横に転がろうとするが、首の後ろを掴まれたままで身じろぎもできなかった。いつのまにか両手は宙を掻いていた。


 死、という言葉が頭をよぎる。身体がカッと熱いのに肌はヒリヒリと粟立っていた。


「――っ!」


 しかしナイフが振り下ろされることはなかった。突如、オリヴィエの身体が横に揺れたのだ。


 リザの視界の端には、ヒールとほっそりとした白い足首が見えていた。


「私の使用人に手を出そうなんて百年早いわよ」


 無防備になっていた脇腹に蹴りを入れた彼女は、ドレスの裾をつまみ上げたままで言った。


 スカートをひるがえし繰り出されたのは、鮮やかなまでの一撃だ。オリヴィエは吹っ飛びこそしなかったが、ヒールの当たり所がわるかったのか、真横に倒れていった。


 オリヴィエは一瞬目元を歪めただけですぐさまナイフを握りなおした。床に這ったままの姿勢で真上を見やる。彼の視線の先にはサロメがいた。彼は足首を立てて起き上がろうとするが、サロメは静かに見下ろしていた。


サロメは冷えた瞳のままで彼の手を踏みつける。鋭いヒールが手の甲に食い込んだ。


「ぐ、っ」

「あら、ごめんあそばせ」


 オリヴィエは右手で足首を掴もうとするが、サロメが足をぐりぐりと動かした。彼の伸ばしかけの右手は宙で固まった。


「骨、折れてしまったかしら。利き手なのに悪いことをしたわね。私ったら足癖が悪くて困ったものだわ。……でもあなただって手癖が悪いんだもの、お互い様よね?」

「度胸が、ありますね」

「痛々しくて見てられない、なんて言うつもりはないわよ。だってこの足を引いたら私が殺されてしまうんだもの」

「それで……正解、です」


 オリヴィエは息を詰めながらぽつぽつと返した。浅く息を吐いて、後は黙っている。サロメは両手を握りしめた。


「どうせ、あなたはいつでも起き上がれるのでしょう? だったら手を抜いてくれているうちに聞いておきたいのだけれど――私たちを殺すのは、用済みってことで間違いはない?」

「あなたたちの役目は終わりましたから……。生かしておく理由は、もうありません」


 歯を食いしばっているオリヴィエは「それと手を抜いているのではなく、利き手を犠牲にしたくないだけです」とだけ付け加えた。サロメは「そう」とだけ呟いた。


 そんなやり取りをリザは腰が抜けたまま見ていた。立ち上がろうとするのだが、立ち上がったところで何をすればいいか分からない。この膠着状態がすぐに壊れてしまうことも理解しているのに、サロメに加勢してやることもできなかった。


 天井から吊り下げられたランプは振動で揺れ続けていた。真っ暗な車内でオレンジ色の光が散っている。


 時速六十キロメートル近くで走り続けている列車は、密室と同じだ。逃げ場などどこにもない。隣とは行き来ができなければ助けを求めることもできない。


 サロメは這いつくばるオリヴィエを見下ろしたまま、彼だけを睨みつけていた。


「利用するだけ利用して、後はさようならなんて都合が良すぎるとは思わないの?」


 芝居がかった丁寧さで片手をひらりと振る。オリヴィエは目を細めた。


「利益と不利益を、天秤にかけたんですよ」


 聞き覚えのある台詞にサロメは喉を上下させた。


 リザの記憶は夜の地下牢へと引き戻されていた。寒々とした地下牢、足元さえ薄暗い通路に、軍刀を構えた彼が立っていて。彼は必要か不必要かだけで動くと言った。そんな彼に「利益と不利益を天秤にかけなさい」と、そう啖呵を切ったのは他の誰もないサロメなのだ。


 意趣返しとも言いたげな彼の言葉にサロメは俯き、そして押し殺したような声で呟いた。


「……最低ね」


 身体を傾けて、骨をえぐるように踏みつける。彼は悲鳴一つ零さなかった。


「知っています。俺は、最低な人間ですよ」


 想像を絶する痛みに襲われているはずなのに、オリヴィエはくぐもった声で笑うだけだ。額に浮かんでいた冷や汗が数滴床に落ちた。


「……最低だったとしても、俺が、この手で守りたいんです」


 言い聞かせるようにオリヴィエは呟いた。


 いつまでもオリヴィエが痛みを堪えているだけのはずがない。彼の手がぴくりと動いた。握りこぶしが開かれる。一度動きだせば後は早い。彼の大きな手はサロメの足首を掴んだ。


「い、っ。触らないでよ……!」


 跡が付きそうなほど締め付けられて、サロメが背を丸めた。レースで飾られたドレスの裾がくしゃりと音を立てる。足を退かせようと抵抗するオリヴィエに、サロメはいっそ手を踏みぬいてしまおうと体重をかけるが、そんな行為をあっさりと躱すようにオリヴィエの足が浮いた。


 うつ伏せに這っていた彼の身体が、わずかに横へ傾いた。足を動かすだけの空間が生まれる。そして彼はばねのように下半身を跳ね上げ――ブーツの爪先でサロメの腹に蹴りを入れた。


「かは……ッ!」


 不安定な体勢からの蹴りだ。そう威力はないが、それでもサロメの細すぎる身体が耐えられるはずがない。彼女はあっけなく崩れ落ちると、扉に背中を打ち付けた。扉が激しく物音を立てる。


 同時にサロメの足にえぐられたのか、オリヴィエの左手が軋むような音を立てていた。不気味な色に染まった左手をぶらんとさせながら、彼は勢いに乗って起き上がった。


 ナイフが床を滑る。オリヴィエの手から離れてしまった凶器は、車内の真ん中でくるくると回っている。オリヴィエが足を伸ばして回収しようとしたが、リザもとっさに手を出していた。武器を取らせるわけにはいかない。気づけば飛び出していた。


 ほとんど同時に動き始めて、しかし身軽なのはリザの方だ。リザは飛びつくようにしてナイフの柄を掴み取った。


 身体を丸めて呻いていたサロメが声を上げた。


「リザ、窓……!」

「あっ……はい!」


 奪い取ったナイフを振りかざすようなことはしない。すぐに奪い返されるのが目に見えている。サロメが視線で示していたように、リザも窓の方を見遣った。その場で立ち上がると窓へ縋りつくように駆け寄った。


 数舜後れを取ったオリヴィエは、大きく一歩を踏み出してリザへと右手を伸ばしていた。リザの首を絞めようとした手だったが、爪が皮膚をかすっただけだった。背後にいたサロメがコートを掴んで引っ張ったのだ。


 リザは窓の鍵を外して開けようとする。だが動かない。外の寒さで窓の端が凍り付いていた。構わずに力ずくで引っ張ると、パキパキと氷の割れる音を立てながら、窓がわずかに動き始めた。力で押し込んで一気に滑らせれば、窓が全開になる。瞬間、凍てつくような夜の空気が流れ込んできた。


 いまだ雪が降り続けていた。


 リザは息を止めると、ナイフを窓の外に向かって力いっぱい放り投げた。

 宙を舞ったナイフは走り続ける列車に置いて行かれて、真っ暗な雪景色へと消えた。


「武器さえなければ、あなたなんて怖くありませんよ! これでただの二対一です!」


 びゅうびゅうと吹き込む風に体温が奪われていく。吐く息が凍り付きそうだ。リザは窓枠を掴んだままで叫んだが、オリヴィエは首を振った。


「俺はナイフ一つで乗り込むほど、勇敢ではありませんよ」

「――!」

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