第4章

第30話 スパイ


 身体の芯にまで響く振動と甲高い笛の音に、リザはのろく振り返った。


 遅れて巻き起こった風にリザの髪が大きくたなびいた。さっきまで乗っていたはずの蒸気機関車が、次の駅へ向かって動きだす。鉄の筒からもくもくと上がる蒸気は、今やずいぶんと見慣れたものだ。じきに薄れ空に消えていくそれを何気なく眺めていた。


 吐いた息は同じく白かった。肌を裂くような寒さに、リザははーっと息を吐いてみるしかなかった。息をするだけ喉が痛む。パリにいては一生知らなかったであろう冷たさだ。


「…………寒い!」


 サロメは声を震わせた。全身を抱くようにしてガクガクと震えている彼女は、厚手のコートを身にまとっているはずだが、一歩も動けずにいる。


「こんなに寒い土地が存在するなんて信じられない! ここは世界の果てか何か!?」


 リザを風よけにしている彼女は、リザの背中にぴたりとくっついたまま離れなかった。彼女の方が上背があるから顔だけ出てしまうが、猫のように背中を丸めて隠れている。元々寒がりの彼女には、この極寒の土地はすこぶる相性が悪そうだ。


 リザも身をすくませながら首だけ回して彼女を見た。


「冬のロシアですからね。寒いに決まってますよ」


 列車の中から見えた景色は一面雪に覆われていたのだ。


 一足先に寒さに慣れはじめたリザは、手の節を赤くしながら地図を開いた。フランスから持ってきたそれは、観光の名所だったり周辺の地域について簡単に記されている。まずは駅から出なければならないので、目印を探そうと背伸びしてあたりを見回した。


「駅名の書いてある看板、駅名の書いてある看板……って、全部ロシア語だから読めないんですけど!」

「旅の合間に散々授業してあげたんだから、駅名くらい読めるようになってるでしょ!」

「あ、本当だ。ありました!」


 リザは腕を突き上げて指さした。人波の向こうに堂々と刻まれた文字は、リザたちが降り立った土地名を示している。


 ――サンクトペテルブルク駅。


 ロシアの西部に位置するサンクトペテルブルクは、首都として長らく繁栄している都市だ。パリからの距離は二千キロメートルをゆうに越えている。各国にまたがっている鉄道を乗り継ぎ、時には馬車に乗り、また時には歩いて進み――長旅を終えた二人は顔を見合わせた。


「ようやく着きましたね、ロシア!」


 極寒に備え、冬の装いに身を包んだリザは晴れやかに笑った。毛皮の帽子で耳まで覆っているリザはいつもより小柄に見えた。サロメはもういない蒸気機関車の方を見つめながらぽつりと呟いた。


「とにかく駅から出て店に入りましょう。あと数分でもここにいたら凍死するわ」


 数秒後、吹き抜けた風にサロメは声にならない悲鳴を上げていた。


 リザは手元にある地図をひっくり返しながら、近くの店を探した。地図を読むことはそう苦手ではないが、まったく知らない土地のものとなると厄介だ。それこそ前のオリヴィエみたいに真逆の方向に進みかねない。


 この旅にオリヴィエはいない。


 当然ついてくるつもりだろう、と思って訊いたのだが、彼はゆるく手を振ったのだ。


「もし俺が軍の人間だって知られたら作戦が失敗しますからね。そういう危険は排除した方がいいでしょう。あなたたちも二人の方が動きやすいですよね?」


 意外にもオリヴィエもあっさりと断ったから、リザの方が拍子抜けしたくらいだ。彼の言うことも十分よく分かるし、何ならリザが言おうとしていたが、彼から言われると違和感さえあった。


 リザが思いきり首を傾げていると、オリヴィエは苦笑していた。


「これでも信用しているんですよ。成果に期待しています」


 しかしサロメと言えば、彼をまるっきり信用していなかった。彼がフランスに残ることを報告したときも鼻で笑ったのだ。


「そんなわけないじゃない! 見張りをつけているに決まっているわ」


 彼女は椅子を揺らしながらぼやいたが、真偽はいまだ分からなかった。結局見張りらしき人物を見つけられないままロシアに到着してしまったのだ。


 リザは地図を指で辿りながらサロメに問いかけた。


「レストランがいくつかあるみたいです。サロメは何が食べたいですか?」


 サロメはぶるりと身体を震わせた。


「熱さに重点を置いてちょうだい」

「そんな選び方する人います?」


 サロメの白い肌はますます透きとおり、鼻の赤みがよく映えていた。






 二人がフランスを発ったのは、オリヴィエの襲撃から約二ヵ月後のことだった。


 身の安全のために協力することを選んだサロメは、まずはロシアの大公――公爵の連絡相手だった人間――に手紙を送った。内容は簡素なもので、公爵夫人として彼を手伝っていることや、今公爵は病に臥せっていることなどが書かれていた。


 サロメは公爵の協力者であることをアピールしたのだ。


 それから何通か手紙のやり取りをして、ついにロシアに招かれることとなった。スパイとして信用できるのか、顔を見て話したい旨が書かれていた。


「まあ、私はフランス側のスパイだけれどね」

「話がややこしくなってきましたね……?」


 二重スパイとしての地位を得たサロメは、いつも通り紅茶を楽しんでいた。


 かくしてロシアへ降り立った二人だったが、約束の時間は近づいてきている。


 大公の屋敷へ乗り込むのはサロメだけだ。リザには別の仕事があるから今回はほとんど別行動である。大公の屋敷まで一緒に向かったが、そこでサロメを見送った。


「じゃあね、リザ。そっちは任せたから」

「私のは雑用みたいなものですから。サロメの方こそ大仕事じゃないですか。最後まで気を抜かないでくださいよ」

「あら、誰にものを言っているのかしら。私はあなたの主人で、ドゥミモンデーヌよ。口で丸め込むのなんてお手の物だわ」


 サロメはふふっと笑うと、くるりと背を向けて屋敷へと向かった。あんなに寒さに震えていたくせに、薄くて美しいドレスを身にまとった彼女は、背筋をぴんと伸ばしていて、誰よりも目に眩しかった。


 彼女の背中が見えなくなると、リザも背を向けて歩きだした。一歩踏み出すごとに雪がしゃくっと音を立てて潰れた。人の往来が激しい大通りでは、雪が固められて氷のようになっていた。つるりと滑ってしまいそうだ。


 そんなことを考えていれば、屋根から雪を下ろしている人が足を滑らせた。リザは声を上げたが、そばに積もっている雪に沈んだだけだった。どれだけ雪がぶ厚いかよく分かる。


 リザは近くにある店の中から適当に選び、扉を開けた。ベルの軽快な音が頭上から降ってきた。一番奥の席につくと、腕を伸ばしながらふーっと息を吐く。久しぶりの一人きりは不安で、話し相手のいない寂しさに、思わずひとり言でも言いたくなる。


 リザは革鞄から紙とペンを取り出すと机の上に置いた。一緒に出てきた封筒はひとまず端に置いて、紙を広げておく。リザはペン先にインクをつけて、まずは送りたい相手の名前を書く。つづりは合っているはずだ。ちらりと見返して確かめてから、簡単な挨拶を付け加えた。


 次の文章もすらすら書いて――と思ったが、リザの手は早くも止まった。


「こちらはロシアに着きました……? うーん、私たちの近況とかいるのかな? 早く本題に入った方が嬉しいのかな?」


 手紙などまともに書いたことがないので作法がさっぱり分からない。


 店員が注文を取りにやって来たので、リザはペンを持ったまま慌ててメニューを見た。飲み物でも頼んで居座ろうと思っていたのだが、リザは端から端まで見て固まった。


「……全部ロシア語!」


 もしここにサロメがいたなら、「簡単な言葉は教えたでしょうが」と目を吊り上げただろう。彼女がいないから困っているのだが、いなくて良かったとも思った。


「こ、これ……ええっと、“これ”って何て言うだっけ。これ、お願いします!」


 リザはメニューの端を指さしながらフランス語で繰り返した。通じているはずがないのだが、リザの表情と仕草だけで一応伝わったのか、店員はこくんと頷いた。その後で何か言っていたが、やはりロシア語なので少しも聞き取ることができなかった。会話らしい会話をしたわけでもないのにリザは疲弊しきっていた。


「早くフランスに帰りたい……」


 机に突っ伏したくなるのをぐっと堪え、再び手紙と向かい合った。


 たどたどしい文章で、つづりを間違えたことに気づいたり気づかなかったりしながら、リザは何とか手紙を書き終えた。紙の半分も埋まっていないが、肝心の頼みごとについて伝わればいいだけだ。


 ペン先を紙で拭っていると店員が戻ってきた。片手にはトレイを持っていた。


「――、――」


 お待たせしました、と言っているような気がする。リザの目の前に大皿が置かれた。


「……おお」


 たっぷり乗ったそれに、昼を済ませたばかりのリザは慄くしかなかった。


 適当に注文した一皿は肉料理だったらしく、細切りにされた牛肉や野菜が煮込まれていた。端には穀物もついている。食欲をそそるようなどこか酸味のきいた香りが漂っている――のだが、満腹のリザからすれば困ったものだ。


 一緒に運ばれてきたフォークとスプーンを握り、一口分すくってみた。諮詢してから口へと運ぶ。ぱくっと飲み込んで、咀嚼して、リザは黙りこんだ。


「これを一人で……食べきる?」


 いくら美味しくともタイミングが悪い。リザは苦笑いしながら目を逸らして、手紙を読み返すことにした。一度封筒の中に入れた手紙を取り出した。思っていたよりも酷い文章が並んでいて頭を抱えたくなった。


 リザはだらだらと三回ほど読み返してから、近くを歩いていた店員をつかまえた。


「これ、出す、郵便、どこですか?」


 フランス語を並べただけだが、身振り手振りで通じたのか、店員は紙の切れ端に地図を書いてくれた。リザは軽く頭を下げて「スパシーバ、スパシーバ」とかたことで繰り返した。店員はおかしそうに笑みを浮かべた。


「さーて、料理に向かい合う時間が……」


 店に入ってからもう一時間経っていた。すっかり冷えてしまった肉料理を前に、リザは再び挑むことを決めた。カトラリーの音が響き始める。目の前の椅子には誰も座っていないから静かだった。


 どのくらいの時間が経ったのだろう。気づけば窓の外は薄暗かった。


「なあに呑気に食事してるのかしら。もうお腹が減ってしまったの? 困った子ね」


 テーブルに影が落ちた。聞き慣れた声に顔を上げると、彼女が呆れたように眉を下げていた。


「サロメ!」


 疲れなど感じさせない表情だ。いつのまにか店に入ってきたらしい彼女は、椅子を引くとリザの目の前に腰かけた。


「終わったわよ。そっちは?」

「私も終わりました。あとは手紙を出すのと、これを完食することですかね」

「私の知らない面倒ごとが増えているんだけれど? 勝手に生み育てるのはやめてもらっていいかしら」


 サロメは店員を呼び止めると、流暢なロシア語で話しかけた。店員は頷くとカトラリー一式とワインを持って戻ってきた。


「サロメも手伝ってくれるんですか?」

「どうせ字が読めなくて適当に頼んだら、大皿が出てきてしまったんでしょ。使用人の不始末は私が取るわよ」

「寛大な主人を持った私は幸せ者です」

「なんで微妙に棒読みなのよ。余計に失礼ね」


 リザは皿をテーブルの中央へと押し出した。


 サロメは長い髪を背中に流した。それでも落ちてくる横髪は耳にかけてしまう。彼女はスプーンを器用に動かして自分の皿によそった。


 サロメはとても美しく食事をする人だった。


 カトラリーの音は少しもたてずに、優雅に口元へと運ぶ。ソースを上手に絡めて、スープは静かによそって、ワイングラスはくるりと回す。いつまでも見ていたくなる所作だった。


「それで」


 リザも真似をするようにワイングラスを手にした。


「どうでしたか。大公のとやり取りは」


 サロメは笑った。


「成功していなきゃここにいないわ。時間をかけてしまったけれど、何とか信じてもらえたみたいよ。……こういう言葉だけの騙しあいは久しぶりだったから、少し参ってしまったわ」

「あとは帰国して、オリヴィエさんに報告するだけですね」

「監視していて、もう知っているかもよ」


 皿はあっという間に空っぽになっていた。サロメはナプキンで口元を拭った。


「それもこれも、後で分かることだわ。帰国した後が楽しみね」

「あの人をかけらも信用してないことがよく分かりますね」

「むしろどこを信用すればいいのかさっぱりよ」


 サロメは首を振った。


「帰国した途端、何をされるか分かったものじゃないわ」


 リザはぞっとしないな、と思いながらわざとらしく唇を固くしてみせた。


 後で分かったことだが、サロメの予想は半分当たっていて、半分間違っていた。


 ――それも悪い方向に。

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