「産む性」から「わたし」をべりっとはがせたら

 医者ってときどき、いらぬことを言う。

「あ~、これは子ども、産めないなあ」

 高校一年のときだった。産婦人科医は、わたしの下腹にエコーを当てながら言った。モニターには、不鮮明なモノクロ画像で、白い何かが映し出されている。粗い画像で見る子宮の形は、ネス湖で撮影されたネッシーのようにあやふやだった。

「ぜんぜん、子宮が育ってないから……」

はあ、ともなんとも言えず、わたしは診察台の上で下腹を出したまま、それを聞いていた。未成年のうちは、よほどのことがなければ、産婦人科医独特の内診はなく、エコーによる診察のみ。エコーのすべりをよくするために塗られたジェルが冷たかった。子宮が育っていない。子どもが産めない。それで? わたしはつづきを待った。

「とりあえず、薬を飲んで、ホルモンの数値を整えていこう」

オーケー。とりあえず、薬を飲む。それでその日の主訴であった、「生理がダラダラつづく問題」は解決するのだろう。でも、それ以後の人生はどうするのだろう。子どもが産めないんだって。


 当時のわたしは、「将来は子どもがほしい!」と、はっきりとした夢を抱いていたわけではなかった。それでも、「当たり前にあるかもしれない」と思っていた可能性がひとつ、なくなった。何かがひょいっと、持っていってしまった。そのことに、わたしは呆然としたのだった。

 そのころのわたしはひどく体重が減っていた。よく「やせすぎて生理が止まる」というけれど、わたしの場合は逆だった。ダラダラと少量の出血がいつまでもつづいて気持ち悪かった。ホルモンのバランスを整えるために薬を飲みはじめると、とりあえず生理は止まった。かわりに、食生活を変えていないのに、うっすらと脂肪がつくようになった。なんだかからだが重い。わたしじゃないみたい。やっぱりちょっとした気持ち悪さを抱えながら、そして、将来への呪詛として「子どもが産めない」を頭のなかにひびかせて、わたしは高校の三年間を過ごした。

 

 もう記憶はずいぶんあやふやだが、高校三年生を迎えるころには、生理は規則正しいとはいえないものの、一カ月もつづくことはなくなっていた。進学をひかえ、上京前に、最後の通院をした。診察台に横になる。ジェルはあいかわらずひやっとする。

「おっ、育ってるね! これなら子どもが産める!」

 医者はずいぶん気軽に言った。当時のわたしは、自分のからだについて問いかけることばを持たなかった。いまなら、「何が変わったのですか」「どうして産めないと思ったのですか」「どうして、何がよくなったのですか」と質問をすることだろう。妊婦が圧倒的に多い待合室で、母親が受診料を支払うのを待ちながら、わたしはぼんやりと考えた。この三年間、ずっとわたしの心のどこかを圧迫しつづけていた、「産めないんだ」はなんだったんだろう。誰かが何の気なしに言ったことに悩み、あとからそれが撤回されたとしても、悩んだ時間は取り戻せない。そういう世の真理をぼんやりと悟ったのだった。


「女性の場合、『産む性』であることが、自分の在り方、どうありたいかに強く結びついていることがあります」

 それから二十五年を経て、わたしはカウンセラーと相対している。わたしは結局、子どもを持つことはなさそうだ。

「強く結びついているから、それがぐらぐらすると、こう、『自分の在り方』が揺れてしまうことがあるんです」

 カウンセラーは左手を握って右手のひらに乗せ、ぐらぐらと揺らした。左手が「自分の在り方」、右手が「『産む性』であること」なのか、その逆なのか。思えばせいぜい十五、六だったわたしが「産めない」に傷ついたのは、やっぱり自分という存在と、「産む性」であることを強く紐づけていたからだろう。

 そういえばあのころ、絵を描いた。結婚が怖くて、将来が怖くて、その反面、安定した自分だけの家庭がほしくて、でもそんな未来はとうていありそうに思えず、その矛盾に耐えきれなかったから。下手くそな漫画絵だった。若い男女が寄り添っている絵。その絵は、わたしをみじめにした。稚拙に表出したストレートな欲望は、どうしてあんなに心を傷つけるのか、いまもって不思議だ。それはさておき、スケッチブックに描きなぐった男女は、手に赤ん坊を抱いていた。

 目の前で、カウンセラーが言う。

「だから、自分がどうありたいか、土台を考えていきましょう」

「自分のあり方」がはっきりすれば、このぐらぐらがおさまるのだろうか。何か答えが見つかるのだろうか。「産む性」であることと自分を、べりっとはがすことができるのだろうか。こんなにも長い間、ずっと無意識下でくっついていたのに。そもそもべりっとはがせたら、何が見えるんだろうか。それってわたしなんだろうか。「子どもを持たない人生」を受け入れられず、「子どもが絶対にほしい!」と思い切ることができず、不妊治療にも踏み出せなかった。そんな自分が全部、許容できない。こんな複雑骨折した願望とあり方を、どこかでまっすぐにすることができるのか。

 ただ――。死ぬまでは生きなければならないし、どうせ生きるなら「だいじょうぶ」に生きたい。暗中模索のなかで、そんな図々しさだけが、わたしに光を見せてくれる。


***


初出 2022年11月 個人ブログ

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日々 丸毛鈴 @suzu_maruke

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