+グリーンローズ

+グリーンローズ 1


    一


 控え目かつスローテンポなドラムに、ひっそりと寄り添うエレクトーン。泣き笑いの声を響かせるエレキギター。三者三様の音色が暖色の光の下で融けあい、単一のリズムとなってフロアに響きわたる。


 この時、店内の客たちは思い思いの格好でその瞬間を迎えていた。


 ある者はカウンター席に独り腰かけながら。ある者は四人がけの丸テーブルで友人らと談笑しながら。またある者はバーテンダーとしての職務を全うすべく、かしこまって居住まいを正しながら。


 そういう彼らの視線をその一身に集めつつ、やがて歌姫は口火を切った。優雅なテンポで肩を揺らし、たぎる情熱を唇からほとばしらせる。店の出入り口正面の突き当り、眩いスポットライトが降りそそぐ煌びやかな舞台の中心で。


 とたん、リズムが一層に深みを増した。メロディ全体が一体感を漂わせ、混然と空気を甘く揺らす。


 今やフロアに響くのは単なる音の集合ではない。それは言わば、シンプルで複雑に切り取られた幾千もの人生の一片であった。


    ×


 その店を一言で表すなら「一九五〇年代風のバーラウンジ」ということになる。


 インテリアをはじめ内装は全体に角がなく椅子の背もたれから手すり、バーカウンターの天板、通用口のドアに臨む装飾、はたまた照明上部の傘に至るまで、多くの部分に柔らかい曲線の意匠が取り込まれている。やや暗めに設定された屋内照明とも相まって、店内は全面に落ち着いた雰囲気だ。


 一軒の建物を丸ごと利用したいわゆる「独立型店舗」で広さはそれなり。特にドレスコードが定められているわけではないが、それでもブレザーくらいは着ていないと様にならない。どことなくそういう趣のある店だ。


 大半の若者は退屈を覚えるかもしれない。にぎやかに騒ぐムードではないし、音楽に合わせて踊るのも似つかわしくない。この店での正しい過ごし方とはつまり、少しばかり値の張る上等なウイスキーを片手に、気の知れた仲間と朗らかに語り合うことなのだ。


 この店は週末に〝ちょっとした刺激〟を求めるバイタリティ溢れた者たちにとってはいささか行儀が良すぎる。


 そういう観点から見た時、ザカリー・マクブライド氏はようやく合点がいった。


(なるほど、道理で居心地がいいわけだ)


 彼は特段、懐古趣味な人間ではない。それゆえ一見ではこの場所の良さを理解することができなかった。いかにも時代錯誤的というのか、一つの空間として現実味が感じられなかったのだ。


 それもそのはず一九五〇年代はもはや百二十年も前の時代である。ザック当人はもちろん彼の祖父母ですら生まれていないころの話だ。それほど現代とかけ離れた空間に身を投じてみたところで、そうすんなりと懐かしさや安らぎを覚えられるはずがない。


 そういうわけで、店内に足を踏み入れた当初ザックの胸中には興味本位の物珍しさと、くすぐったい違和感とが五分五分で存在していた。浮足立った感じがして仕方がなかったのだ。


 だがそれも最初の十分だけだった。


 店内奥のステージに近いテーブル席に着き、黄金色に輝くテネシーウイスキーを二口も飲み込むと、くだんの違和感は早くも霧散した。「なるほどこれは思った以上にいいぞ」と、彼は自分でも知らぬ間に頬を緩ませていた。


 年齢の点で言えばこうしたバーラウンジは彼には早い感がないでもない。彼はこの年ちょうど三十になる。同じ飲酒にしても〈ジャックダニエル〉よりは〈ハイネケン〉や〈ブルー・ムーン〉のほうが性に合っている。


 しかしながら、それでもなお彼がこの店の空気を「思った以上にいい」と感じたのは何故かといえば、それすなわち彼の気質に理由があるのである。早い話、このくたびれかかった探偵氏は齢三十にして早くも若さを失いつつあるのだ。


 とはいえ要因はそればかりではない。インテリアや室内装飾が織りなす上品なムード。鼻腔をくすぐる上質なアルコールの香り。各々のマナーとモラルとをうかがわせる人々の立ち振る舞い。


 それらに加え、この安らぎの空間を構成するのに欠かせないもう一つの要素がそこにはあった。それすなわち最高の音楽というものだ。


 熟達した技術を見せるバンドに才能豊かな歌姫。彼女らが奏でる物悲しくもパワフルなスローブルースは、ザックがそれまでに聞いたどの音楽よりも深く心に染み入るようであった。


 普段なら思い出すのも稀なはずの生まれ故郷が、どういうわけか恋しくてたまらない。七色に滲む記憶がシャボン玉のように脳裏をたゆたう。どうにもくすぐったいが、不思議と悪い気はしない。


(これで横にいるのがこいつじゃなけりゃあ、ホント言うことないんだがな)


 ザックは隣席にちらと目をやって考えた。


 彼の視線の先にいるのほかでもない、物言わぬ戦闘用アンドロイドにしてザカリー・マクブライド氏の業務上のパートナー。くわえて、今宵に限ってはその素顔を冷たい仮面に隠した謎の紳士。ともあれ我らがノーランだ。


 その真意はザックにも見当がつかなかったが、とにかくノーランはこの日〈鉄仮面〉を装着した状態で現場に姿を現した。読んで字のごとく鉄製の仮面をだ。なまじ首から下がカジュアルなスーツ姿であるだけに、そのアクセントは一層奇抜なものに感じられた。


 先だって「そんなものどこで調達したんだ」とザックが訊ねた際、ノーランはただ一言「ブー」とだけ短く返事をした。ノーランは言葉らしい言葉を口にしない。彼のおこなう意思表示はただ「イエスかノーか」だけである。つまり彼に対するこの種の問いかけはまったく意味をなさないのだ。


 ゆえにザックはあっさりと追及を諦めた。ともあれ仕事さえしてくれればそれでいい。大方はやりたいようにやらせておけばいいのだ。




 とにかくこの瞬間、夜の街が格別に賑わう週末金曜のディナータイムに、ザックとノーランは二人そろって一軒のバーラウンジにいた。


 そしてこの二人がこうした場所、馴染みの薄い洒落た店で冴えない顔同士を突き合わせているからには、つまりそうする理由がある。言わずもがな彼らは業務の一環としてここにいるのだ。


 今夜の仕事はボディーガード。それも、卑劣な悪漢の魔手から麗しい淑女を守り抜くという絵に描いたようなシチュエーションだ。


(俺の命があるうちにまさかこの手の役目を引き受けることになるとはな)


 と、ザックはこの期に及んでなお一抹の不信感を拭えずにいた。それも無理からぬことだろう。


 というのも今回、彼が身辺警備を仰せつかった依頼主というのが、このとき店中の視線を欲しいがままにしていた例の歌姫その人だったからである。


 さらに言えばこの依頼は単純な警護任務ではなかった。彼女が欲していたのは単なるボディガードではなく、いわばガーディアンエンジェルのような存在だったのだ。


    二


 彼女が初めてザックの元を訪れたのはその夜からちょうど一週間前。金曜の昼下がりのことだった。


 彼女の名はローズマリー・シェリー。二十四歳。バーラウンジ〈スリー・オクロック〉の専属歌手だ。出番は週二回で、それぞれ水曜と金曜の二〇時から。また副業として自宅近くのスーパーマーケットでアルバイト勤務もしている。受け持ちはレジ係。


 出身はアメリカ北西部オレゴン州で、五年前に歌手を目指してここロサンゼルス市にやって来たとのことである。


 外見としてはライトグリーンの瞳と色白の肌、くわえて色素の薄いブロンドヘアーが特徴的で、総合するとかなりの美人だと言える。しかし、どうやらこの金髪は脱色して染め直したものらしい。とはいえ天然のブロンドでないことが減点要因になるような平凡な顔立ちでないことも事実だ。

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