エリカ

 ――体が冷たい。とうとう死んでしまったか。

 目を開くと、アスファルトに体温を奪われていた。その場で手をつき、くらくらする頭を上げると、櫛比しっぴするビルの隙間から、朝日がどうぞどうぞと、一日の始まりを押しつけてきた。

「あれ、ここ? てかキモチ悪ぃ……」

 時刻は六時十五分過ぎ、道理で冷えるわけだ。

 女は自分の芋臭い息で我に返り、その場を見上げると、コンクリートジャングルにふさわしい、汚れた雑居ビルがたたずんでいた。

 近くをサラリーマンが通り、女は慌てて立ち上がると、その拍子に社員証と、桜の花びらがカバンから地面に落ちた。千鳥足で拾ったそれに書かれた、

丸岡まるおか秋穂あきほ

 固有名詞を見るなり強烈な違和感を覚え、

「桜? どこから……」

 花弁を見るなり懐かしさを覚えた。


 ワンルームに帰宅した女は、風呂にも入らずベッドへダイビング。

 次に気づいた時には、もう昼前だった。

 むかつきはなくなり、起床と同時にパソコンを起動した。女は、ぼうっとする頭で小説投稿サイトを開き『こわし』と検索すると、

「『世界の毅』って……。あ、最終投稿日が五年前だから、狭間で会ったロリコンで間違いなさそう。評価はわたしの倍以上か……」

 奴が書いたと思しき作品に辿り着いた。決して文才はなかったが、内容は割と面白かったので、一通り読み終えたあと申し訳程度の評価を残した。

 ほどなく女は、ラフな余所行を引っかけ、ダークブラウンの後ろ髪を結うと、最寄の大型書店へ向かった。

 客がまばらな平日の昼前。店内に設置された検索用の端末で、『ねこづな』と入力すると、モニタには何十冊もの本が羅列された。

招野まねきのねこづな、か。ねこづなさんの代表作は、口の悪いマンチカンと、へっぽこ刑事が難事件を解決する話ね。この途中、考察中にセルフ絞殺? 笑えんし」

 女は端末が指し示した売場へゆき、ねこづなの代表作を手に取りながら、知る人ぞ知る死因を思い浮かべて苦笑した。


 さて、残る作家は――

「エリカ……」

 女は、同じ端末で『ザノメエリカ』を検索したが、ヒットはなかった。やはり昔から、とは相性が悪い。

 他人と話すのは苦手だが、

「すみません。ザノメエリカ? っていう作家さんの本、あります? わ、わたしの友人の作品で……」

「あーぁ、蛇乃目ざのめ恵梨香えりかさん。えと……随分、前の本ですね。文庫本でしたらございますよ、ご案内いたします」

「ありがとうございます」

 狭間の受付より、何倍も愛想の良い店員――もはや、現世に違和感さえ覚える。

 案内されたコーナーは、文庫本が粗雑に詰めこまれた売場の一角で、誰かを待っていたかのように、灰色の背表紙が分厚い本に挟まれていた。

「やっと逢えた」

 本棚から引き抜いてパラパラめくるが、内容が入ってこない。そのまま最後のページへ。この本の初版は、約三十年前。

 秋穂は目を閉じ、歯を食いしばり、息を止め、拳に力を込め、感情を堪え、

「さっ……家に帰って執筆の参考にするか」

 ようやく前を向いて執筆をしようと思えた。

 それが自分を許す第一歩であるから。


 ところで、著者『蛇乃目恵梨香』の本のタイトルは――

 なんだろう。非常に視界が悪くて、文字が読めなかった。


                                  了

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廃墟の小説家たち 常陸乃ひかる @consan123

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