進む力

 〇〇日目。

 何日経っただろう。

「死ぬのは誰でも怖い。寝て、起きて、寝て、起きて、寝て――」

 目の前でザノメエリカが消えた。

 たちまちフラッシュバックしたのは、三人の身内だった。

 搬送中に死んだ母、集中治療室で死んだ父、車内で死んでいた姉。

「なにもしなければ死なない。死なない、死なない――」


 〇〇日目。

 その昔、現世で聞かせてもらった説法が頭をよぎった。

「狭間の四門しもん……か。東門を出て老人に逢う。南門を出て病人に逢う。西門を出て死人に逢う。あれ? じゃあ北門を出れば……」

 出会った当時、ザノメエリカは北区に寺があると言っていた。

 けれど春夏冬あきないにとっては、無縁の場所だと決めつけ、北門は一度もくぐらなかった。少女が北区に近づかなかったのも、そういう理由なのかもしれない。

 創作する者ほど、得てして現実的な思考を持つ。

「北門、か」

 すがりたいとか、依存いそんしたいとか、そういう精神ではなかった。考えることを、もう拒否したくなかったのだ。春夏冬はベルトからドッグタグを外して居間のテーブルに置くと、北門を目指して廃墟を歩いた。

 こわしと出会ったビルの前、ザノメエリカと出会ったビルのエントランス、ねこづなと出会った友人宅。それらが、遥か過去の記憶のように再生された。


 北門をくぐると、十段先も見えない階段が霧の中にぼんやりと浮かんだ。

 春夏冬は上を見ず、また言葉も出さず、ひたすら石段を上り続けた。足が棒になっても、眠気が襲ってきても、ひたすら上を目指した。

 千段までは数えたが、それ以降は心を無にした。途中でパンプスのミドルヒールが折れてしまい、両足のそれを脱ぎ捨て、ただ膝を上げ続けた。

 合計で三千はあった石段。上りきった頂上に建立されていたのは、厳かに人々を迎える、シンメトリーの大きな寺院だった。

 まっすぐ続く石畳の上を歩くと、法服を見にまとった、色のない修行者がすれ違った。凛としながらも穏やかで、いかなる隙も見当たらず、

「すみません、出家された方ですか? わたしは春夏冬と申します」

 それなのに、すんなりと声をかけられる許容力が窺えた。


「よく、ここまでいらっしゃいました。貴女あなたには色があります」

「わたしは、ずいぶん前に友人を失いました。現世でも狭間でも、同じ苦渋を味わった。結局、どこに居ても苦しみは消えないのですね」

「あのビルの上――現世では皆、無用なことで苦しみながらも、好き勝手に生きています。そこから脱した貴女は、この狭間で東西南の門をくぐり、老い、病、死、様々な人間たちを見てきて、なにを感じましたか」

「純粋に恐怖でした。あれが、わたしの未来の姿というおそれ。けれど狭間に居るだけなら、老いも病も死も訪れません」

 ここでは風が吹いていた。

 現世を懐かしむ風だった。


「あなたは修行して、この先なにを求めるんですか?」

「私は人間の苦悩を知り、いつか安らぎをも知りたいと思っています」

「わたしはシッダールタにはなれません。出家もできないし、悟りも開けない」

「決して、ならなくても良いのです。他者に憧れるのは破滅の始まりでしょう」

「おっしゃってることは素晴らしい。でもわたしは、あんな汚らしい都が遠のいただけで不安に駆られてる。誹謗ひぼうと無駄との不即不離ふそくふり――そんな現世に生きて、また本を読み、文を書きたいと思ってる」

 返事をしたのは修行者ではなく、やはり涼しい風だった。


「ふふっ、わたしは北区に似つかわしくないようです。これで失礼します」

 ビルを見上げていた視線を戻した春夏冬は、心穏やかに目を細めた。修行者を見ていて、はっきりとわかったのだ。狭間にやってきて生を知り、死を知り――狭間こそが業そのものだったと。

 春夏冬は修行者へゆっくり一礼し、きびすを返すと、

「それが貴女の道。でしたら、お帰りはそちらではありません」

 温和な声に呼び止められた。

 背中に温かみを感じ、そっと振り返ると、寺院の際から光明が、春夏冬の――呼吸を照らした。久々に見た光は、遠目でも眩しすぎた。

「貴女のご友人は、自分を許しなさいとおっしゃった。それが前に進む力であると」

 和会通釈わえつうしゃくのあと、修行者が寺院へと歩みを進めた。あとについてゆくと、金堂こんどうに案内された。中央にまつられていたのは、見上げるほどの本尊ほんぞんで、その裏手に回ると不自然に創造されたような鉄格子の非常口が、ドンと置かれていた。向こうは常闇でなにも見えないが、不思議と恐怖はなかった。帰れるという安堵もなかった。

「現世と狭間とは、必然と偶然。どちらも表裏一体です」

 修行者は、真鍮の輪に指をかけて扉を開いた。あちこち錆びているのに、軋みはちっとも聞こえなかった。

 春夏冬は無表情だった。あれほど望んだ現世が、すぐ側にあるのに目を伏せるだけだった。

「お世話になりました」

 礼を述べる覚えはないし、述べる相手もわからない。

 だからこの修行者に、ひとまずことばを預けたのだ。

『有り難い』

 という、意味を込めて。


 春夏冬は非常口をくぐり、ひたすら闇を歩き続け――つまずいて転んだ。

 こんなどん臭い醜態、現世でしか見せたことがない。

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