第2話 破壊される世界

 何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。

 当然だ。だって今の真雪には瞳がない。耳がない。世界を認識する器官が何一つも存在していない。故に外部を知覚することができず、内部から出力することもできず。死者も同然の真っ暗闇。


 しかし。全ての五感が機能していないはずなのに、真雪は真っ黒な世界で自らの肉体を俯瞰して見ることができた。


 ──なに、これ。


 まるで幽体離脱だ。魂だけが肉体の外に追い出され、死にゆく自分を見ているようで。


 ──え。


 違う。比喩でもなんでもない。真雪の肉体が無数の粒子になって崩れていく。戻るべき肉体がなくなってしまえば、魂だけの真雪はどうなってしまうのだろうか。少なくとも、良い結末だけは想像できない。


 ──待って、止まって頼むから!


 しかし物理的な肉体のない真雪には、ただ自分自身が消失していくのを眺めることしかできなかった。分解されて、真雪の肉体だったものは塵の山へとあっという間に姿を変えていく。

 恐怖に震える肉体さえない真雪は、唖然とするほかなくて。


『我が世界の、糧となれ』


 ──誰……っ!?


『その魂と肉体を糧に、我が支配下に下れ』


 何処からともなく響く声に存在しない肩を跳ね上げた直後。真雪だった塵の山が、微かに揺れた。

 逆再生のように塵が人の形を取っていく。顔が、首が、肩が、腕が、胴体が、足が。徐々に人間の姿が戻ってくる。


 その光景にほんの少しとはいえ胸を撫でおろす──なんてことはできなかった。確かに真雪の肉体を素材に、人間の身体が再構築されている。しかし、こんなに真雪は小柄ではない。中肉中背の男子大学生だ。

 対して、眼前の人型の身長はせいぜい百六十センチメートル程度しかない。


『我が世界の、糧となれ』


 ──誰なんだ!? あなたがやってるなら僕の身体を戻してくれよ!


 大まかな形が定まり、塵がより完全な人間へと回帰する。真っ白で染み一つのない肌が初めに目につく。男性だった真雪より明らかに細い肩幅。胸のあたりは僅かに曲線を描いていて、腰のあたりで折れてしまいそうなほどに細くなる。

 長い手足はしなやかな筋肉によって引き締まり、そこに繋がる指は繊細で美しい。


 首から上には、小柄な肉体に相応しい頭が生成されていた。大きな瑠璃色の瞳とそれを飾る長いまつ毛。整った鼻筋と控えめな口元。そして可憐さを加える絹のような白色の髪。


 覚えがあった。ないはずがなかった。所詮はPCによって出力されたグラフィックと現実では違いも多い。しかし、真雪の肉体を素材に生まれた人間は間違いなく──


 ──ルミ……?


 真雪のゲーム上のアバターの一つである、ルミだった。


『我が世界の、糧となれ』


 ただでさえ混乱している脳みそがいよいよもって処理の限界を迎える。意味がわからない。完全に真雪の思考は停止していた。


『我が世界の、糧となれ』


 ──本当に、何が……?


“ルミ”の顔を覗き込む。ご丁寧に服までゲームの装備を再現されている。もっと良く調べようと近づいて。


『我が世界の、糧となれ』


 ──あれ、なんで。


 おかしい。近づけるわけがない。真雪にできるのは正体不明の声を聞くことと、自らの肉体の変貌を眺めることだけだった。

 立ち止まろうとしても、当然止まれない。そうだ、真雪が自分の意思で覗き込んでいるのではない。強制的に真雪の魂が、ルミの肉体に吸い寄せられているのだ。


『我が世界の、糧となれ』


 ──待って、ぶつか……っ!?


 拒否権なんてない。抵抗など以ての外。真雪という存在が、真雪を素材に作られたルミという少女に重なって。


 ──っ!?


 それは、自己の消失だった。真雪の意識だけを残して、全てが書き換わる。真雪が消える。真雪という男子大学生が、ルミという少女に置き換わる。


 ──ぁ……っ、ぐぁ……!


『我が世界の、糧となれ』


 ──嫌だ。助けてくれ。消えたくない。


『我が世界の、糧となれ』


 悲鳴を上げたくても声すら出ない。全身の感覚が舞い戻る。ただし、それは別人のものだ。目も、耳も、何もかもが真雪ではない少女として再構築され──


『我が世界の、糧となれ』


 ☆ ☆


「……は、ぁッ!?」


 肉体の自由が戻ると同時に真雪は飛び起きた。呼吸が上手くできない。極度の精神的な心労だけが原因ではない。息を吸って吐くという単純な動作に、酷く違和感が伴っていた。

 酸素を吸い過ぎてえずいてしまう。吐きすぎて苦しさが増す。肺の容量が小さくなっていると悟るのには、随分と時間がかかった。


「はぁ、ぁ……っ、はぁ、はぁ」


 少しずつ少しずつ、ゆっくりと呼吸が整ってくる。酸素が供給され始めた脳みそが徐々に稼働を始めて、周囲の状況を確かめる余裕が生まれた。


 平原だ。人工物などほとんど見当たらない、大自然のど真ん中。空には満点の星空が広がっており、月明りが視界を確保している。そんな平原の中心で、真雪と他に青年と少女が同じように座り込んでいた。

 困惑した様子で周囲を見渡す少女と、自らの身体を見下ろして硬直している青年。日本人にも、友人の誰かにも見えないのに、その二人にはひどく見覚えがあった。


 少女と──友人の操っていたアバターのルーシーと瓜二つな少女と視線が絡む。


「……ルーシーさん?」


「えっと、もしかしてブライさんですか?」


「う、うん」


 何気なく口にした問いかけが鈴の鳴るような高音だったことに、真雪は内心で激しく動揺した。思い返すのは目が覚める前に見せつけられた不気味な夢。

 自分自身が素材にされ別の誰かを創り上げられる、あまりに冒涜的な光景だ。


 ──あれは本当に、夢だったのだろうか。


 半ば答えを確信しつつも、信じたくないという感情が、真雪に真実を確かめるように促していた。身体を見下ろす。これと言って特徴のない男性の肉体がそこには──なかった。

 代わりにワンピースを身にまとった小柄な肉体がある。真雪が右腕を上げれば、その肉体も右腕を上げ。胸元の布を内側から持ち上げている何かに触れれば、柔らかい脂肪の感触と、胸の膨らみを触られるという未知の感覚が同時に訪れる。


 太ももと太ももを擦り合わせても、その隙間に何かが挟まる気配はない。何気なしに触れた自らの頬も柔らかく、肌のきめ細かさが窺えて、信じがたい現実の理解を後押ししていた。


「あーあー……えっと、ルーシーさん」


「は、はい」


「僕、誰に見える?」


 何度聞いても、真雪の喉から飛び出る声は若い少女のものだ。

 その現実から眼を逸らし、藁にも縋る想いでルーシーに尋ねる。もしかしたら全てが幻覚の可能性だって──


「ルミ、さんです。ブライさんのサブキャラのルミちゃんが、生きて動いてます」


「……ありがと」


 振り絞るようにでも、礼を口にできたことを褒めてもらいたい。否定する材料なんてどこにも存在しない。

 真雪はルミというアバターの少女に変貌してしまっていた。


「僕、女の人になってる……? いやそもそもこの状況……ちょっと前に流行った異世界転生ってやつ? 現実でそんなことあり得るわけ……」


「実際に起きちまってるんだ。疑うわけにもいかねえだろ」


 青年のぶっきらぼうな声に振り返る。ライアンだ。生きた人間になったライアンが真雪の傍に歩いてくる。

 引き締まった肉体にそれを包む革製の鎧。黒い髪の毛は短く刈り上げられて、身の丈ほどの大剣を背負っている。或いはコスプレのように感じられたかもしれない格好も、彼には妙に似合っていた。


「ほら、立て」


「あ、ありがとう」


「ルーシーも。大丈夫か?」


「混乱はしてますけど……怪我とかは特にないです」


「なら良し」


 ライアンは真雪とルーシーに順番に手を貸し、立ち上がらせる。

 そんな彼を見て、真雪は自嘲した。どう考えても異常事態だがライアンは至って冷静だ。対して、真雪はどうだろう。肉体の変貌、もっと言えば男性から女性への性転換に錯乱しかけていただけだ。

 ライアンを見習って、この状況を正しく切り抜ける必要がある。


「んで、この状況なんだが……ゲームキャラの姿でゲームの世界に飛ばされた、なんてベタなシチュエーションだよな」


「……それ以外に説明できないと思う。信じられないけど」


「す、ステータスっ」


 ポツリと呟かれた言葉に男性陣──男性と元男性は意識をそちらに向けた。

 声の主はルーシーだ。金髪のお下げに魔法使いらしいローブを身に着けている彼女は、視線が集まっていることに気づくと、大きなとんがり帽子で赤くなる顔を隠した。


「ごめんなさい! 好きだった小説ではこう唱えると色々と表示されたんで……私たちの場合は違うみたいでしたが」


「いや何でも試してみるのは大事だろ。これでステータスなんてものは出てこないってわかったわけだ。……他に役立つ知識とかはないか? 俺はそっちのジャンルにあまり詳しくなくてよ」


「そ、そうですかね? それなら……」


 その場でできる“異世界転生あるある”を実践していく二人。ルーシーはそういった内容に詳しいようだし、真雪に手伝えることは少ないだろう。そう結論付け、真雪は足元を調べるためにしゃがみ込んだ。

 膝に当たる胸元の膨らみを務めて無視し、小さくなってしまった手で草をかき分ける。


「やっぱり……」


 想像通りだ。三人の立つ平原の中心部には、直径五メートルはある巨大な魔法陣が敷かれていた。転移の直前にゲーム内で設置した魔法陣は『空間強度安定化魔法陣』、ただ一つだ。それが現実となり巨大な紋章になったのだと推測する。

 それ以上の調査は憚られた。仮にこれがゲームの時と同様の効力を発揮しているのならば──魔法陣の破壊は致命的なことに繋がりかねない。下手に触れて機能不全に陥らせるわけにはいかないのだ。


「二人とも、あしも……」


 自分なりの発見を伝えようと真雪は再び立ち上がる。それと同時だった。凄まじい勢いで、三人の中心に何かが落下してきたのは。


「なんだ……!?」


 衝撃で舞った砂埃により落下物の正体を確かめるのが遅れた。それが、致命的だった。

 徐々に全貌が明らかになる。落下物は独りでに動いていた。否、脈動していた。むき出しになった贓物のように。


「……っ」


「ひ」


「ぅ……!」


 ライアンが息を呑み、ルーシーが短く悲鳴を上げ、真雪は吐き気に襲われた。

 シルエットだけならば、全長二メートルほどのサツマイモだ。ただその構成要素があまりに気味が悪い。その生き物は、まるで腐敗した肉塊のようだった。

 巨大な腐肉の集合体に、大小さまざまな目玉が無数に埋め込まれた化け物。それ以上の言及はできない。言語化してしまえば、今度こそ吐き気と怖気を抑えられない。


「なんだこいつ……生きてるのか……? こんな化け物、ゲームにもいなかったよな?」


 恐る恐る化け物を覗き込んだライアンが唖然と呟く。腐った肉の塊からはあろうことか、生命の気配を感じた。一つ一つの目玉が自由に視点を動かし、まるで三人の様子を窺っているようで。


「いるわけない……! こんな気味の悪いやつ、ゲームだったとしても忘れるわけがな──」


 真雪の言葉は、最後まで二人に届くことはない。次々と鳴り響く落下音に遮られたからだ。雨あられのように降り注ぐ何か。目を凝らし、気づく。気づいてしまう。

 それらは微妙な個体差があるものの、全てが最初の個体と同じ化け物だった。


「やだ……助けて、お母さん……!!」


「俺から離れるなッ! ブライお前も、うおっ!?」


「ライアンさん!!」


 ライアンの元へ駆け寄ろうとした真雪は、眼前に着弾した物体によって足を止めざるを得なかった。激しい砂埃で周囲の状況が把握できない。

 煙幕の向こう側で、人間大の影がのっそりと身を起こした。ライアンかルーシーだろうか。しかし、人間にしては妙に丸っこいような──


「うわ……っ!?」


 風を切る音。何かが横合いから迫ってきていると理解した途端に、真雪の身体は、ルミという少女の身体は、恐怖から尻餅をついた。頭上を何かが通り過ぎる。

 地面に座り込んだまま、真雪は唖然と影を見上げた。二転三転する異常事態に、真雪の脳みそはとっくに許容量を超えている。何が何だかわからないまま、思考が凍結していた。


 ぐちゃり、ぐちゃり、と生理的嫌悪感を引き起こす音が近づいてくる。砂埃の中から姿を現したのは果たして──自立する、先ほどの化け物だった。

 足も手もない。腐肉の塊と埋め込まれた目玉以外には何も備え付けていない。なのに、その化け物は自らの力で飛び跳ねるように歩行していた。


 歩行して真雪の眼前に辿り着くと、身体を仰け反らせる。


「──ぅぁっ」


 回避できたのは、偶然だろう。化け物が自らの肉体を叩きつけてくる直前、真雪は右に向けて身体を転がした。地面の草が盛大にぶちまけられ、すぐ傍に腐った肉が見える。きっと元の男性の身体ならば、体格の違いで肩か何かが巻き込まれていた。

 今だけは小柄な身体になってしまったことを感謝する。


「クソッたれ!! ブライ、どこだ!? すぐに逃げ──」


「助けて、やだ、やだ……っ」


「こっちだよ! ライアンさん! ルーシーさん! どこに!?」


 何処からかライアンの叫びと、ルーシーの泣き声が響いている。けれど、探している余裕なんてなかった。立ち込める砂埃の中で、無数の化け物が暴れ回っていた。急いで立ち上がって走るが、安全な場所なんて見当たらない。

 怖い。怖くて怖くて仕方がない。だがそれ以上に、孤独への恐怖が真雪の足を動かしていた。影の隙間を縫って、とにかく平原を駆ける。ライアンたちと合流するか、せめて化け物たちの群れから離れなくてはならない。


「わっ!?」


 何もないはずの場所で足がもつれ、視界一杯に草地が広がる。下手に受け身を取った右腕が痛んだ。身体は大きく変化してしまったせいで、歩幅や地面からの距離が上手く読めなかった。

 ただ走るだけの動作が上手く行えない。そしてそれは、この地獄では致命的だ。


「……ぁ」


『縺ゥ縺?☆繧具シ』


『蛟偵◎縺』


『邨碁ィ灘?、縺」縺ヲ繧?▽縺?』


 倒れた真雪を、化け物が囲んでいた。不協和音にしか聞こえない鳴き声を発し、無数の目玉が真雪を見下ろしている。


「ひぃ……こ、来ないでよ! 近づかないで!?」


 足腰に力が入らない。腕の力だけで身体を引きずっても、移動できる距離はたかが知れている。少女の情けない悲鳴が自らの口から溢れても、それを気にする余裕などあるわけがなかった。


『蛟偵◎縺』


『縺昴l縺後ご繝シ繝?縺?繧ゅs』


『荳也阜繧貞」翫☆遶カ莠峨□縺九i』


 あっという間に逃げ場はなくなった。取り囲む化け物たちが一斉に身体を仰け反らせる。身体を叩きつけるという実に原始的な攻撃。しかし、これだけの数に殴られれば、無事で済むはずがない。


「誰か、助け──」


 真雪にできたのは、涙の浮かぶ瞼を閉ざし、身を固くすることだけ。振りかざされた暴力が目前に迫って。


 ──何かが割れる音が鳴り響く。


 直後、襲い掛かってきたのは痛みではなく、不気味な浮遊感だった。

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