第3話 孤独を救う騎士
不気味な鳴き声も、友人の悲鳴も、何もかもが消え失せる。化け物たちの気配だって、感じられない。
来るべき衝撃もまた何時まで経っても襲ってこず、困惑しながらゆっくりと真雪は頭を上げた。
「ほ、ほんとに……どうなってるのさ……?」
見たことがない景色──月明りに照らされた夜の森だ。
原因も何も不明だが、一瞬にして別の場所へと飛ばされてしまったことは間違いない。質の悪い夢のようだ。これが一晩限りの悪夢であれば、どれほど良かっただろう。
「身体だって、戻ってないしっ」
思い至って身体の様子を確かめるが、やはり少女の、ルミのままだ。二度目の転移で男子大学生の姿を取り戻す、なんてことはない。ただ見知らぬ土地に放り出され、独りぼっちにされただけだった。
「ライアンさん! ルーシーさん! 誰か、誰かいない!?」
そう、独りぼっちだ。いくら呼びかけても友人たちが返事をしてくれるわけでもない。
更に言えば、ゲームの中だと推測できた先ほどまでの小宇宙の平原と異なり、この森には全く見覚えがなかった。現実の世界でも、ゲームの中でも、真雪はこのような場所を訪れたことはない。
結果的に、あの化け物たちから逃れることができた。しかし、その理由さえわからず、友人とは離れ離れになり、未知の森で遭難状態だ。相変わらず、状況は絶望的だった。
「誰か! 誰でもいいから返事して!!」
手元にあるものは、真雪のサブアカウントのアバターであるルミそっくりの少女の肉体。彼女が身に着けていたワンピース。そして量産品の片手剣だけだ。当然ながら食料も水もない。
不安に襲われ、真雪は声を張り上げながら歩き出した。とにかく人と会いたい。そんな衝動に駆られたのは、これが初めてだった。
これが正解かはわからない。けれど、立ち止まっていては精神が持たない。少しでも歩いて、気持ちを誤魔化さなければ、何もできなくなる自信が真雪にはあった。
「な、なに……!?」
がさりと、近くから音が聞こえた。自分の口から出た、あまりに男らしさに欠けた悲鳴にさえ気づかず、真雪は音の方向を見つめる。何かがいる。人間だろうか。或いはあの化け物だろうか。
期待と不安を半々にそちらへと近づいていき──
「……おい」
「う、うわぁぁあぁあ!?」
低い男性の声に、真雪はすっころんだ。ひっくり返るようにして、盛大に背中から大地へと衝突する。
「ご、ごめんなさい……! 殺さないでください!!」
「お、おい! 静かにしろ! あまり夜の森で騒ぐもんじゃない!」
慌てて駆け寄ってきた人影が、真雪の口を抑える。人間だ。真雪と年の近い黒髪の青年だ。
見覚えのない姿だったが、敵意は感じない。何よりもまともに会話の通じる人間だった。
「いいか? この辺りに悪魔が出るって情報がある。あまり騒ぐと寄ってくるかもしれない。だから、静かにしろ」
「……っ。わ、わかった」
「ならいい。いきなり抑え込んで悪かったな」
適当に切り揃えられた黒髪に鋭い目つき。使い古された外套の下には、鍛え上げられ引き締まった筋肉がある。身体が大きく見えるのは、それ以上に真雪が小柄になってしまっているからだろうか。
声の低さと射抜くような視線。それらが合わさって威圧的な印象を受けたが、悪人ではないだろう。それは、この短いやり取りでも何となく察することができた。安堵が湧き上がってくる。全身から不必要な力が抜けていく。
「にしても、こんなところで何をしてるんだ? 女子供が歩いてていい場所じゃない。同業者じゃ……なさそうだしな」
真雪が腰に下げている剣を、青年は怪訝そうな顔色で見定めようとする。しかし考えたところで答えは出なかったのだろう。すぐに表情を切り替えると手を差し出してきた。
「ほら立て。最寄りの集落まで送ってやる」
「ありがとう。ただちょっと……」
「どうした?」
「腰が抜けちゃったみたいで……」
目を伏せながら小さく呟く。本当に情けない。転移直後の時もだが、この異常事態に真雪はまるで対応できていないらしい。
人間と出会えた安心感で緊張が解けたのか、下半身にまるで力が入らないのだ。
頭上から仕方なさげに息をつく音が鼓膜を揺らす。呆れられているのだろうか。もう良い年だというのに、人様の迷惑になってばかりだった。恥ずかしくて顔が熱くなる。
「まあ、仕方ない。代わりに一晩の野営ぐらい我慢はしろ」
「え、えっと……?」
「ここで夜明けを待つんだ。火を起こすから、獣が寄ってこないか見ててくれ」
困惑する真雪を横目に、青年は周囲の木の枝と背中の荷物から取り出した草で、器用に火を起こし始めた。警戒しろとは口にしたが、彼自身も油断なく周囲に視線を飛ばしている。
あっという間に火種が生まれるのを見る限り、かなり手馴れているようだった。
「…………」
「…………」
徐々に火種が大きな炎へと変わっていく。邪魔をしていいのかもわからず、気まずい沈黙が流れ出した。特にできることもなく、真雪は周囲の警戒を見様見真似で続けるしかない。
「俺はアベル。開拓者をやってる。あんたは?」
「へ?」
「名前だ。言いたくないなら言わなくてもいい」
愛想の欠片もない会話の振り方だ。しかし、それは不器用な彼なりの気遣いだと真雪は判断した。
「僕は、真雪で……す?」
「マユキ? 変わった名前だ──」
「いや、ブライかも」
「……男の名前じゃないか?」
「うそっ! ルミ、かな?」
なんと名乗れば良いのかわからず、支離滅裂な言動になってしまった。
義元 真雪が本名とはいえ、今の身体は元の姿とはかけ離れてしまっている。ならばゲーム内で使っていたブライを名乗ろうにも、それはメインアカウントの男性名だ。小柄な少女の肉体にはそぐわない。
だからと言って、男だった真雪が女性の可愛らしい名前を自称するのは、些か抵抗があった。
「ああ、わかった。名乗りたくないんだな。それは構わないが、なんて呼べばいいかぐらいは教えてくれ。ずっとあんた呼びじゃ面倒だ」
「い、いや違うんだって! ちょっと名前がわからなくて……」
「記憶が、混濁してるのか?」
「そういうわけではないんだけど」
「……つまり何なんだ。あんたは」
苛立ちが青年の声に混じる。無理もないが混乱しているのは本当なのだ。真雪だって非常に困っている。
「逆になんて呼ぶべきだと思う?」
「なんだそれ……? まあそれなら、ルミって呼ばせてもらう。一番しっくりくるからな」
素っ頓狂な会話を終え、真雪の名前はルミということで落ち着いてしまった。こっそりと足の間に手を突っ込んでみるが、やはり男であることは確認できない。気が付いたら元の身体に戻っているなんてことはない。
身体を少女にされ、名前まで少女のものを名乗ってしまった。段々と本来の自分から遠ざかってしまっている気がする。早く元の身体に、男に戻りたい。
「それで、アベルさんだっけ?」
「アベルでいい」
「じゃあアベル。ここってどこ?」
今の真雪──ルミは自分自身に起きたことも、ここがどこなのかも、何もわからない。行動を起こすにしても、現在地の把握は急務だった。
尤も、地名を聞いたところで全くわからない土地の可能性もあったが。
「ザリアモール王国の西部。王都から五日歩いた場所にある森林地帯だ」
「ザリアモール……」
幸いにもルミはその都市名を知っている。『Drain Universe Online』に存在したNPC国家の名前だ。ゲーム内では最も治安が良く、ひとたびPK──プレイヤーが他のプレイヤーを害する行為──を起こせばNPCの治安維持部隊に地の果てまで追いかけられる国だった。
他の国ではすぐに退散すれば逃げ切れたり、大陸北部のNPCが介入してこない無開拓地域ではそもそも警察部隊が存在しなかったりする。つまりザリアモール王国は、ゲーム上で最もPKへのペナルティが高く、PvPが発生しづらい初心者向けの地域でもあった。
兎にも角にも、ゲームの地名が現実となっている。やはりこの世界は『Drain Universe Online』に酷似した異世界なのだ。とはいえ、未だゲームを遊んでいるとは思わない。化け物に襲われて感じた恐怖も、目の前の優しい青年も、どちらも作り物には到底見えないのだから。
「まだ平和な国で良かったよ。帝国とか、無開拓地域だったらやばかった」
「若い女性が一人でうろついてたらな。野獣に喰われるか、人売りに捕まるかだ」
「そ、それは嫌だなぁ」
「怖いって思うなら二度とこんな真似はするなよ。どういう事情かは知らないが、外を出歩くなら護衛を雇え。最近は王領ですらきな臭い噂が多いからな」
鋭く乱雑な言葉で、アベルは忠告を投げかけてくる。そんな彼を見ていると、急に笑いがこみ上げてきた。
「あ、はははっ!」
「なんだよ?」
「いや本当に、最初に出会ったのは君で良かったよ」
アベルほど見た目や言動で損している人間は見たことがない。言葉の一つ一つに気遣いが感じられるというのに、無愛想な態度や声のせいで全て相殺されている。
不要な苦労をしてきたのは、想像に難くなかった。
「ちっ」
「ごめんって。それより、きな臭い噂って?」
「……ああ。さっきも言っただろ。悪魔が出るんだよ」
「悪魔?」
首をかしげる。ゲームの中では、悪魔なんて種族は存在しなかった。そっくりな世界であっても、細かな差異は存在しているのだろうか。別に不思議ではない。生物が意思を持って活動している世界が、ゲームと全く同様のはずがないのだから。
「それってどんな奴なの?」
「わからない」
「え?」
「獣でも魔物でも、悪趣味な盗賊の類でもない。だからわからない。“悪魔”ってのは既存の生物にカテゴライズできない存在の総称だ。転移魔法の事故に伴って出現したり……まあ、色々と謎が多い」
正体不明の怪物。とてもこの世に存在して良いとは思えない、冒涜的な化け物。それを便宜上、悪魔と呼んでいるのだと、アベルは語る。
判断に困る情報だった。だが、一つだけ心当たりはある。気味の悪い化け物。その一点でしかないが、それだけでルミたちを襲撃してきた目玉の化け物と姿が重なる。
あれこそが、悪魔だったのではないだろうか。
「その悪魔って、腐った肉の塊に目をたくさんくっつけた、みたいな?」
「無数の目玉を携えた化け物、って話は聞くな。まさか悪魔に会ったのか?」
アベルの目の色が変わる。そんな彼に物怖じせず、ルミは頷いた。
「た、たぶん。友達と一緒に話してたら、急に大量の化け物に襲われて……」
「それは、どこだ?」
「えっと……小宇宙って言って伝わる?」
「ああ、伝わる。開拓者ってのは小宇宙の情報を売る仕事だからな。けど……くそっ、そういうことか」
悪態を付きだす青年にルミは眉をひそめた。アベルはそんなルミの内心をくみ取って、丁寧に説明を始める。
「別荘とか採掘場に使われてる小宇宙は、空間固定の魔法陣で存在を維持してるのは知ってるか?」
「う、うん。それなら」
その辺りはゲームと同じようだ。一定時間で自然消滅してしまうランダム生成のダンジョン──それが小宇宙だ。ギルドハウスなどはその小宇宙の自然消滅を止める魔法陣を用意し、そのうえで建造する。
正しくルミたちが転移直前に攻略したあの平原──あの小宇宙もそのようにしてギルドの領地にしていた。
「なら早い。その魔法陣が停止すれば小宇宙は崩壊するんだ。たぶんルミは、その崩壊に巻き込まれた。悪魔に襲われて気が付いたら森の中だったんだろ?」
「……そうだ。うんっ! そうだった!」
「やっぱりな。小宇宙が消滅すると、中にいた生物は元の世界に退去させられる。けど、どこに飛ばされるかは完全に運だ。最悪、水中とか地下の空洞に出るって話も聞く」
「その場合って……」
「そこから這い出た体験談なんて聞いたことがない。つまりは、そういうことなんだろう」
ゾッとする話だ。夜の森で遭難するよりも、もっと悪い状況だってあり得たと。こうして親切な人間に出会えたのはよっぽどの幸運だったのだと、今更になって実感させられた。
同時に別の不安も積み重なっていく。
「ライアンさんとルーシーさん……友達も一緒にいたんだ! もしかして二人もどこかで!?」
「……祈るしかない。さっき言ったのは本当に最悪の話だ。退去した直後にそのまま即死なんてことは滅多にない」
慰めの言葉も耳に入らなかった。友人たちの安否が気になって仕方がない。今も見知らぬ土地で彷徨っている可能性は十二分にあるのだ。当然ながら“最悪”だって、否定しきれなかった。
「それより、自分の心配をしろ」
「僕はまだいいよ! アベルのおかげで状況は把握できた! でも二人は──」
「考えても仕方がないんだ。それよりな、ルミ。小宇宙に別荘を持てるのなんて金持ちだけだ。加えて、咄嗟に偽名を出そうとした。──あんた、どこかの令嬢か?」
「へ……? い、いやそんなわけ……」
「別に悪さをするつもりはないから誤魔化さなくていい。ただ、王国以外の貴族だと面倒ごとになる……知ってるだろ? 王国と帝国は国交断絶中だし、共和国ともあまり関係が良くない」
「だから本当に違うって!」
「貴族でないにしろ、裕福な家の生まれのはずだ。……盗賊とかは金の匂いに敏感だからな。慎重に立ち回らないと家に帰れなくなる。だから、自分の心配をしろ」
「僕はごく普通の庶民の生まれだよ!!」
本人の言葉を無視して、勝手に仮定を広げていくアベル。どれほど否定しても、嘘だと判断されてしまい、聞く耳を持ってはくれない。いくら叫んでも無駄らしい。そう悟ると無性に眠たくなってきた。
「見張りはやるから、ちゃんと休んでおけ。集落まで結構な距離を歩くからな」
「はいはい、任せますよー……」
彼の中で、ルミは良いところのお嬢様だと決めつけているのだろう。完全に庇護対象として見られている。ろくにサバイバル知識もないとはいえ、ルミは本来なら成人した男性だ。何から何まで世話されてなくても、問題ないのに。
男としての自尊心。それが僅かに傷つくのを感じながらも、ルミは横になる。一から説明するには、身体と心に溜まった疲労が大きすぎた。今晩ばかりはお言葉に甘えて、休むことにする。
初めての野宿はあまり快適とは言えない。それでも、ルミはやがて夢の世界へと旅立っていった。
☆ ☆
「……本当に寝たな、この子」
白髪の少女ルミを保護したアベルは、すやすやと眠る彼女に呆れていた。いくら親切に接したとはいえ、初対面の男の前で無防備に眠るのは問題だろう。
よっぽどの世間知らずか。或いは襲われるならとっくに襲われていると判断したのか。尤も、そう冷静に判断できるほど、場慣れしているようには到底見えなかったが。
「確かに貴族って感じじゃない。なら、商人の娘ってところか」
貴族でなかったしても、見知らぬ土地で若い女性が孤立しているのは非常に危険だ。盗賊や人売りからしてみれば、絶好のカモだろう。
身代金目当てに誘拐しても良し。奴隷として売り捌いても良し。もっと下衆な連中ならば、“使い捨て”にされるかもしれない。なんと言っても、ルミは相当な美人だ。年も恐らく十八かそこらと、若さと成熟さが同居している頃合いでもある。
独りにしたら、ろくでもない未来が待っているのは、間違いなかった。
確実に面倒ごとだろう。けれど、アベルの中にか弱い人間を見捨てるなんて選択肢は存在しなかった。ルミを家まで送り届ける。そうでなくとも、信頼できる人間に託す。
焚き火に木の枝を投げ入れながら、アベルは静かに決心していた。
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