黒い空の背景に、対岸の街の光がよく映えている。砂浜には微かに残った足跡が、心もとない街灯で照らされていた。蒸し暑い中走っていたので、肌着はすっかり絞れば水が出てきそうなくらいの汗を吸い込んで重たい。海水浴シーズンは夜でも人はちらほらいるはずなのに、雨が降り続いたせいか、散歩をしている人の影すら見当たらない。

 音切の行きそうな場所を色々と探してみたけれど、どこにも彼女の痕跡はなかった。蓮さんからも連絡は途絶えていて、あちこち行っていると気付けば夜になっていた。最後の希望だと思い、初めて来た海岸まで辿り着いたけれど、彼女のいる気配は微塵もない。

 立ち止まると連日、酷使した身体の疲れがどっときた。こうしている場合ではなかったけれど、流石に少し休まないと、僕が持たないと思い、防波堤へと腰を下ろす。雨で濡れたコンクリートの湿り気が、ズボンを濡らした。月光は雲に隠れ、船の灯りすら一つもない夜の海は、一つの怪物のようだ。

 もしも、彼女がここに来ていたとして、この化物の中に取り込まれた後だったらと考えてしまう。正直、一番考えたくはない可能性だ。全て徒労に終わった、では済まされない。それに、僕は病室で彼女の言った死にたいという言葉を、心のどこかで信じられていないのだと思う。だからこそ、最後までここへ来ることを躊躇っていた。彼女に理想を投影してしまった、この場所へ。でも、全てが本当に手遅れだったら、と考えてしまう。もう海へ身体を投げ入れて、あとは死体が打ち上げられるのを待つだけなら。嫌だったが、寧ろ現実としてあり得る話だ。

 小休憩を終えて、身体に鞭を打って、防波堤から砂浜へと降りる。足腰に上手く力が入らず、思わずよろけてしまった。砂浜では風が一段と強く吹いている。光源となるものは乏しく、すぐに僕は闇の中へと溶けてしまう。手先も辛うじて見えるくらいで、自分自身の生死すら判然としない。不安定な砂の感触、激しい波と風の音、視界で揺れる真っ暗の液体、乾燥した口に広がる鉄っぽい味、鼻の奥まで突き刺さる臭い。どれも僕が今まさに体感しているはずなのに、どれも偽物のような気がしてならない。

 僕は何か打ち上がってはいないかと、目を凝らしながら波の音のする方へと歩く。風は尚も激しいままだ。汗ばんだ身体のせいで風は涼しさより、肌寒いという感覚の方が勝っていた。頭の中ではこの先にある景色へ、辿り着けるのだろうかという考えが、ぼんやりと浮かんでいる。いや、実のところ、この先には何もないのかもしれない。そんな不安が、覚束なくても進む僕の脚を否定してくる。

 波の音が大きくした途端、足元に温く、柔らかな海水が当たった。半ば自失した状態で歩いていたからか、波際まで来ていたことに気付かなかったらしい。僕は驚いてバランスを崩して膝をついてしまう。波が引いていくと、後にはその感覚さえ止めてしまいそうな冷たさが残っている。腰が抜けてしまったのか、僕は情けなく四つん這いになったまま、立ち上がれない。その間、何度も何度も波は行き来し、四肢は海水に浸り、頬は飛散った砂利で汚れてしまった。

 ふと、繰り返す波の動きが映像を巻き戻すかのように、あの地獄めいた日々を思い起こさせてくる。汲み取った希望なんて、最後は周りに溢れる無機質な現実で、簡単に壊されてしまう。友情や幸せや、努力も全部。手の平には無数の傷跡だけが残り、後は全てただの屑と化す。あまりにも儚く、綺麗なモノに見えてしまうから、その中に凶器があることに気付けない。

 吹奏楽部にいたあの時から、そんなことは分かっていた。自分の苦しみは自分でしか分からないのと同様に、努力もまた、自分の中でしか分からない。他人からの評価と自分との水準が、必ずしも同じであるはずなんてなかったのに。

 だからこそ境が必要だった。努力をした人間と、そうでない人間の境界線が。いつだって僕は境界の向こう側へ届かなかった。あの人はその線に届くかどうかで判断をする人だ。見えないからこそ設けた基準だ。とても合理的なことだと思う。僕たちはそのゴールへとがむしゃらに走ればいいだけなのだから。だけど、スタートが平等であるわけではなかったのだ。線を目前にした人間だっていたし、倍以上離れた人間だっていたのだ。僕は圧倒的に後者だった。高校へ進学して、中学時代とは違うパートへと、僕は言いくるめられるままに転向した。だからこそ、スタート地点はみんなよりもずっと後ろにあった。人一倍の努力で埋められるくらいの才能だってなかった。だけど、合理性の前でそんなものは言い訳に過ぎない。一年も経てば分かることを、有耶無耶にされるまま、ずっと続けていた。

 切り取られた記録が連続していく。赤い映像が音を立てて流れ出した。波が当たって引いていく感覚が足元で繰り返す。段々とその温度さえ、あやふやになってくる。

『君は諦められているんだよ』

 背中に冷たいスライムでも入れられたみたいな不快感が奔った。誰の声で再生されているのかは分からない。でも、言葉で胸中はかき回される。胃酸がせり上がり、嗚咽が漏れた。気持ち悪い。逃げようとしたあの時の僕をまた作り始めた。一瞬で総毛立ち、思い出さないよう振り払っても、もっと波と共に深いところにまで押し寄せてくる。服はもう、汗で濡れているのか、海水で濡れているのかも判断できないほど、重く水分を吸っていた。境を目の前にしていたのに、それがグンと遠のいていくあの錯覚を見た僕が、今まさにここにいる。

『裏切り者』

 ああ、そうだった。ここにいる僕へと、次に贈られるべき言葉はそれだ。これほどピッタリな言葉はそうそうないだろう。みんながみんな、必死に耐えていた中で僕だけが逃げたのだから。励ましの言葉をいくつも贈ってもらい、差し伸べられて取った手もあったのに、すべてを打っ遣って逃げた。ゆらゆらとどこかの街の光が、誘うかのように揺れている。裏切り者には罰が必要だった。僕は正義に似たルールで支配された、数メートル四方の空間の中で透き通っていき、喚起が必要な汚れた空気と化した。どこにいても誰からも見えなくなり、聞こえなくなる。それが、僕へ贈られた静かな罰。裏切りへの報復なのだ。

 どこにも居場所なんてなくなって、どこへも行けなくなった。だけど、ここは最後に残されたスタートでもありゴールだ。ひょっとすると、あの場所で見ることは叶わなかった境の向こう側なのかもしれない。彼女と出会い、終わりを約束したこの場所が。

 僕はようやく腰に力を入れて立ち上がった。取り乱して暴れていたせいで、潮の臭いが全身に染みついてしまっている。海面が膝の辺りまであるところまで来てしまったらしく、波も荒いせいか、気を抜いたら倒れてしまいそうだった。

 君が向こうへ行ったのなら、僕は喜んで後を追おう。僕のやりたいことは、もう叶ったのだ。君といたいという、この現実での願いはちゃんと叶えた。境界を越えた先にある世界でも、僕は君と共に過ごしたい。

 だから――

「僕を連れて行って」

 独り言が夜闇に吸収されていく。風も、波も、潮の臭いも、僕の声に耳を傾けてくれない。あの教室の人々のように、僕をいない者として扱ってくる。だけど、影だけが僕に近づいてきているのは、何となくわかった。ずっと僕を否定してきた暗い存在が、今はただ優しく思えてしまう。このまま、暗闇の全てを凝縮したかのような黒と一つになれればいい。

 身体を預けるように佇んでいると不意に、曖昧な世界に大きな穴が開いた。穴からは目が痛くなるほどの光が差していて、水平線も、波のうねりも、雲の形も暴いていく。目が慣れていなかったからだろうか、光が月光だと気が付くのに少しだけ時間がかかった。

「悲しいね」

 波の隙間に誰かの声がした。ハッとして、僕は水深が深くなるのも忘れて、声の方向へと海水をかき分けながら歩いて行く。少しずつ目が慣れていくと、遠い先に人影があった。月の光が逆光となり、顔は影でよく見えなかったが、徐々にモザイクが剥がれるように鮮明になっていった。

 そこにいたのは追憶に現れる人々でも、僕に触れていた赤い影でもない。元からいたかのように、自然なままの音切が立っていた。出会った時と同じ制服姿で、薄く白い光を浴びた長い烏の髪を垂らし、微笑んでいる。真っ黒な瞳でさえ当時のままで、その視線の奥底へ吸い込まれそうだ。

「音切……どうしてここにいるの?」

「いつだって答えは分かっているのに、どうして君は疑問にするの?」

 そう、分かっている。音切がこんなところにいるはずない。これは僕の見ている幻だ。きっと、疲れから見えてはいけないものが見えているのだろう。だけど、その答えを受け入れられないのが僕だった。真実に怯えて震えているだけで、受け入れきれない。海面はますます上がってきて、いつの間にか、胸の辺りまできている。異物を吐き出そうとするかのように、波が僕を彼女から遠ざけていく。

「音切、僕は君のことを裏切った。君を救うと言っておきながら、覚悟は生半可なものだった」

 僕は押し戻されないよう踏ん張りながら、彼女の虚像へと懺悔の言葉を語る。もちろん、それがどれほど無意味なものなのか、確と理解している。

「僕に失望したままでもいい。口を利いてくれなくとも構わない。だけど、だけど僕を君の傍に居させてほしい。君の隣で、また笑わせてほしい。君との未来がどんなものでも、僕はこの目で見届けたいんだ」

 陽炎のように消えてしまいそうな彼女を繋ぎ止めたい一心で、僕は言葉を紡いだ。どれだけ内容が薄くてもいい。ただ消えてなくならなければ、それだけで良かった。

「私は君の隣にいるんだよ。私は君の希望。君は私の希望。一緒にいれたら、それでいいと、今でも思ってるよ」

 波の音は強くなる。風は淡く、耳の横を駆けていった。時間がまるで質量を持ったかのように重くなっていく。海水の動く音も、足を飲み込む底の砂も、遠くから降り注ぐ月の光も、このまま全てが徐に静止へと向かいそうな気がした。それでも世界は決められたルールに則って進んでいるのだと、僕の心へ現実を叩きつけてくる。

「それとね、君の出す音はいい音だったよ。あの時、あんなに綺麗な音を出せる人がいるんだって思ったもの。きっとね、本当の君は綺麗なだけなんだよ。優柔不断でもなければ、情けなくなんかもない。ただ壊してしまうかもしれないと、臆病になってるだけ。それはとても優しくて、綺麗なことだと私は思う。だから――」

 大丈夫だよ。そう言い残すと、音切は霧のように消えていく。必死に前へと海水を掻き分け、彼女の方へと近づこうと藻掻くが、深くなっているところの砂に足がもつれ、倒れてしまう。どうにかしなければと焦り、腕と脚をこれでもかというくらい動かすが、上手く海面へと顔を出せず、身体は溺れていくばかりだ。冷たい水で鼻や口は浸り、息もできなくなる。次第に疲れの溜まった四肢は動かせなくなり、足掻くことも諦めてしまい、海面から遠のいていく視界を、朧気な意識を通して異様なくらい冷静に見つめていた。黒い髪が海月の触覚のようにゆらゆらとついてくる。暴れた時にできた泡は小さな粒となり、月明かりの方向へと浮かんでいく。最後は呆気ないものだな、なんて考えるだけの余裕が妙なことにあった。死ぬ間際に、仕様もない妄想であったとしても彼女と会えて良かったと思う。

 柔らかな砂の感触を覚えながら、僕は暗い海の中でそっと目を閉じた。

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