顔に砂粒の当たる痛みで、僕は跳ね起きた。今まで綿でも詰められていたかのように息が苦しい。辺りを見回すが何の変哲もない砂浜で、遠い彼方の街の光だけが、海に反射していた。ただ一つ、僕の身体が波打ち際で横になっていたことを除けば。夢の続きか、現実の始まりか。混乱を収めようと自分の身体を弄り確かめると、服は濡れておらず、足先が波で濡れている程度だった。やっぱり夢だった、と片付けるには奇妙な体験だ。僕の身体は海の冷たさも、砂の柔らかさも明確に覚えている。なのに、それを決定づける証拠はどこにも残されていない。

 不思議な出来事へと思考が入り込んでいたが、自身の本来の目的を思い出し、我に返って立ち上がった。どれくらい寝ていたのかは分からないけれど、血管の中を流れる鉄分の重さが、全て圧し掛かってきているのではないかと疑ってしまうほど、全身は怠かった。それでも、よろよろと足取りは覚束ないながらも、防波堤へと歩いて行く。砂浜は歩きにくく、倒れないよう気を付けるので精一杯だ。

 上へ通じる階段を上りきってから、背後の海へと振り返る。怪しくうねる波の音が、風によってより強くなった。それに合わせて、僕の胸の騒めきも大きくなる。まるで気管が歪んでしまったみたく息がしにくい。あの幻は、現実では重ならなかった運命の、一つの結末のような気がした。僕たちはどこで間違えてしまったのだろう。もしも、彼が彼女の前に現れなかったら。もしも、僕が彼女を殺せていたら。もしも、二人が誰かを恨まずに出会っていなかったら。僕は何度も仮定の先を想像してみたが、どれもどこかで必ず破綻し、結末を辿れそうになかった。結局、なるべくしてなったのだろう。僕たちの出会いは、どれか一つでも『もしも』であったのなら成り立たなかったのだ。そんなこじつけじみた考えをしなければ、納得できそうにない。

 波の音を再び背にして、夜を迎えた街へと足を動かす。とにかく、蓮さんからの連絡が来るまでは探そう。そう考えていた矢先、ポケットに入れていたスマホが何度か震えた。明るく光るディスプレイは、暗い中で鮮やかな色を放っていて、思わず目を眇めてしまう。発信者はタイミングよく蓮さんからだ。随分と遅い連絡に動悸を覚えながらも、僕は恐る恐る電話を取った。

「もしもし、平井です」

 電話を取っても彼は無言で、電波が悪いのかと思って移動しながら何度か呼びかけてみる。受話器から聞こえてくるのは砂嵐のような雑音が、僕の不安と焦りでいっぱいの心をかき乱す。だけど、電話越しにはどこかで鳴ったクラクションの音が聞こえてくるし、どうにも繋がりにくい状態にあるわけではなさそうだ。段々、空白が僕を困らせて楽しんでいるような気がして、焦燥は苛立ちへと昇華されていく。

「……大丈夫ですか? 何かありましたか?」

 様子がおかしい。頭を過った信じたくもない可能性に、心臓が早鐘を打ち始めた。予感は脈動に乗って全身を通っていく。手先は中毒患者のように震えだし、今にも手に持つ携帯を落としてしまいそうだ。

『来て』

 沈黙を引き裂いたのは聞こえるはずのない、聞こえてはならないはずの声だった。息が一瞬にして詰まってし、混乱で言葉が口から出ない。その一言だけですぐ電話は一方的に切られてしまった。通話終了を知らせる味気ない音が、等間隔に鳴っていた。耳から携帯を離せないまま、終わったことを分かっていながらも、また声を待ち続けた。だけど、スピーカーから鼓膜を震わせる音は何一つとしてない。唯一聞こえてくるのは、遠くの波と、通り過ぎていく車の音だけだ。頭の中には、さっきの声がまだ反響している。

 したくもない最悪の予測が現実味を帯びてきた。

 間に合わないにしても、行かないという選択肢だけは間違いだ。海水に浸った靴の不快感を我慢しながら、僕は走った。


 空を覆っていた分厚い雲はすっかり無くなっていて、月光がビルや街の装飾をいつもよりも鮮明にしている。ふやけた足は靴下で擦れる度に痛みが奔る。昨日もこうして走っていたはずなのに、目が回るようなもっと酷い不安と、予感めいたものに脳は侵されている。見下ろしてくる月は、分かりきった答えだとしても足を止めない僕を、冷たく嘲笑っていた。

 必死に脚を動かしているが、ベルトコンベアの上で走っているかのように、景色の変化が遅く見えてしまう。肺も痛いし、全身が熱と痛みでいっぱいだ。それでも、僕は走り続ける。何度も倒れそうになりながら、何度も止まりそうになりながら。赤信号でさえ、車が通らなければ無視をした。

 いつも別れる通りまで出ると、人はほぼほぼいなかった。腕時計の針は電話がかかってきてからそれなりに動いていた。携帯の地図アプリを使い、蓮さんからもらった住所を入力する。息は既に絶え絶えで、指先は緊張による震えで上手く動かせず、何度も打ち間違いを犯してしまう。その度に、冷静な心が苛立ちに蝕まれていった。

 やっとピンが表示されたことを確認し、大体の位置を確認しながらまた脚を動かす。住宅の灯りは少なく、夜闇の中には煌々と電子の光だけが浮かんでいた。

 道を何本か間違えてしまったが、細い路地を曲がったところで、三階建ての白い家を見つけた。スマホの地図に突き刺さったピンも、ちょうどその辺りにある。現代的な造りの家で、月明りに照らされている壁は、城のような趣があった。窓には照明の光すら漏れておらず、人の気配もない。不気味なくらい辺りは静かで、僕の息の音だけが、夏の夜の空気を揺らしていた。身長より頭一つ分くらい高い塀に囲まれていて、中の様子は窺えない。入り口には『音切』と彫られた表札が掲げられており、彼女の家だと確信した。

 随分と時間がかかってしまったが、やっと辿り着いた。一抹の安堵を心に芽生えさせる。気が緩んだと言った方が正しいかもしれない。何が起こっているのか分かっていたのに、僕はほんの一瞬だけ安心してしまったのだ。

 だから、門へ足を踏み入れたその先で――


 彼女の兄が無惨に死んでいるなんて考えを、いつの間にか忘れてしまっていた。


 こういう時は悲鳴を上げるなり、尻餅をつくなりの反応をするのが普通なのだろうけど、僕はただ目を見開いて佇むことしかできない。つい数時間前まで一緒に話をしていた人間は、だらしない恰好でドアに凭れかかって息絶えている。いや、そんな恰好をしているだけなら、生きているか死んでいるかの判断はできないだろう。泥酔してみっともなく寝ている酔っ払いだっているのだから。だけど、デザインではないと分からせてしまうほどの血の色で染め上げているのなら、死んでいることなど一目瞭然だ。血は首元から溢れていて、元は白だったのであろう玄関のタイルを紅色に染め変えていた。さらに、上顎と下顎を繋いでいる頬も切り裂かれていて、重力に引かれるまま顎は垂れている。綺麗なU字になっている歯の並びは、歯医者に行けば飾ってある顎の標本を彷彿させた。もう人間としての顔の形を失っているけれど、どこか哄笑をしているみたいだ。虚ろに開かれた目は何も映していない。最後に見たものは一体何だったのだろう。よく恐怖に歪んだ顔という表現があるけれど、そんなものはこの顔だと少しも表せない。

 彼女の兄の遺体をしばらく見ていると、遅れてやっと胃酸がせり上がってきた。情けない嗚咽に意識を傾け、目の前で散らばる吐瀉物でも見ておかなければ、正気を保てそうにない。

 酸味のある臭気が口に広がる。門に手をつきながら必死に吐き気を抑えようとするけれど、目の前にある人間だったものが視界に入る度に何度も身体を襲う。

「来たんだ」

 声に気が付いて顔を上げると、死体の傍に音切がいた。現実の続きか、夢の始まりか。僕にはもう何も確かめる術などないし、確かめたくもない。彼女の着ている制服のブラウスも、返り血で傍らの死体と同じ真っ赤に染まっていた。肌の白は際立ち、僕の目に映る全ての中で、一番の白さを放っている。よく見ると、右手には凶器となったのであろう血の滴る大きな包丁が、左手には僕に電話を掛けた彼女の兄の携帯が握られていた。

 そして、彼女は鮮やかな笑みを浮かべていた。目は虚ろで、口角の上がり方も不自然に思えるのに、見ているこちらが狂ってしまいそうなほど、鮮烈すぎる笑み。その姿に、まるで一輪の彼岸花を前に佇む少女を描いた絵画のような美しささえ、錯覚してしまう。

「君がやったのか?」

 戦慄しながらも問う。ほんの少しだけ、彼女はただ自身の兄の死体が殺されているのを見つけただけで、実行なんてしていないのだと、信じたい気持ちがあった。

「わかっていても聞く癖、直したほうがいいと思うよ」

 だけど、そんなちっぽけな期待はすぐに打ち崩されてしまう。冷たい月はさっきよりも僕を嘲笑っていた。

 彼女に近づいてあげるべきだとわかっていたのに、膝が笑って近づけない。恐怖だけが全身を支配している。自分の目の前にいるのは理想でも幻想でもなく、ましてや一緒にいたいと願った人間ではなく、理性の鎖を千切り、僕では成し得なかった本能から成る願いを叶えてしまった、正真正銘の狂気だ。

 僕は、音切を見つけたらちゃんと心に触れて、話をしようと思っていた。同情や悲哀の眼差しを向けてしまったことも、救うと言っていたのにできなかったことも謝って、これからを話そうとしていたのだ。そんな希望は、いとも容易く取り消されてしまった。最初からそんなことを考えていたのかと、自分で自分を疑う程に。

 消え去っていく言葉たちと共に、彼女との日々の記憶も、絆も、共有した感情も全て、今すぐにでも消し去ってしまいたい。本気でそんな風に思う。音切は、自分の中に潜む怪物と正面から向き合い、呆気なく飲み込まれてしまった。

 いや、飲み込まれてしまったのではない。音切自身が怪物の正体だったのだ。彼女の心――魂の形そのものが、彼女の名を冠した化物だったのだと気付いてしまう。

「君はさ、私のことを救ってくれなかったね。やっぱ、自分を救えるのは自分だけなんだね」

 冷たく笑う音切は、水に浮かぶ海月のように揺らぎながら、こちらへと向かってくる。囁くように言った一言が、僕の胸に突き刺さっていく。落ちてしまいそうな底の見えない瞳に、僕はしっかりと捉えられた。思考がいくら速くとも、身体が追い付けていなければ意味がない。音切は僕の前まで来て、包丁をこちらへ向けた。血を吸った刃物は妖しく月光を反射させ、僕を睨んでいる。

「最後のチャンスをあげる。私を殺してみせて」

 そう言って、彼女は包丁を百八十度回転させて持ち直し、柄の部分をこちらへと向けてきた。滴る液体が地面に吐いたものを色づけていく。もし断れば、音切の後ろにある死体みたいに、僕も殺されてしまうのだろうか。それだけは嫌だ。死にたくない。いつかは望んだ死を、今は自分でも驚くほどに否定した。ならば、彼女から刃物を受け取り、殺す選択しかないのだろうけれど、それもできそうにない。いっそ、どちらも選ばずに逃げ出したかった。だけど、身体は硬直したままで、彼女の顔と差し出される凶器、そして足元へと目を動かすことくらいしかできない。

「残念だよ」

 音切は溜息を吐いてから、包丁を足下へと落とす。金属とトマトの潰れるみたいな音が響いた。その後は、僕から興味を失くしたかのように、横を通り過ぎて行く。

「音切」

 振り返って、彼女のことを止める。動かなかった身体は、彼女が視界から消えた瞬間、魔法が溶けたかのように動いた。音切は長く黒い髪をこちらへ向けたまま、何も言わずに佇んでいる。立ち止まったままの僕たちの間を、鉄っぽい風が吹き抜けていく。

「君は、今幸せなのか?」

 そんな言葉をかけるのが正しいのかはわからなかった。でも、ただ確かめておきたいのだ。紛うことなく道を踏み外した君は、失ってはいけないものまで自らの手で葬り去り、自分のしたいことを終わらせた君は、自身の破滅のみを残した君は、本当に幸せなのだろうか、と。僕たちが過ごした数カ月よりも、この結末の方が幸せなのか、確かめておきたい。

「そうね――」

 風が彼女の髪を靡かせる。あどけなく思えてしまうほど少女然とした態度で振り返ると、音切は出会ってからの中で一番輝いている笑顔で僕の方を見て、

「幸せだよ」

 と言った。

 手に取った砂が、風にさらわれてするりと手の平を抜けていくような感覚。水平線は遥か向こうへと遠のいた。僕は君にすら届かなかったのだ。触れられることすらできず、触れられた気になっていただけだった。

「僕は」

 言葉を絞り出す。沸々と胃の底から感情が涌き上がってくるのが分かる。それは夜空を埋める闇よりも、光を通さない死体の目よりも、彼女の美しい髪よりもずっと、ずっとどす黒く、醜く、惨たらしいと思えてしまう汚い感情だった。

「僕は音切華乃を許さない。こんなことでしか幸せを掴めなかった君を、僕は許さない」

 どこかへ行ってしまう君を、どこかへ行ってしまった君を、理想を脱ぎ捨ててしまった君を、僕は許さない。黒い影が重なっていく。ずっと背後にいた僕の姿を象った人間が、僕となる。結局、僕も彼女と同じ形の魂を持っていたのだ。怪物のような牙を剥く、狂気的な姿をした存在。力を込めて握った拳からは、手の平に爪が食い込んで、ぬるま湯のような温度をもつ血が流れ出す。痛みはない。ただ目を伏せて歯を食いしばり、彼女と同じ道だけは辿るまいと必死に堪えた。

「私も君を許さないよ」

 僕の声に比べて、音切の声音は透明な氷のように澄んでいた。


「私を救ってくれなかった玲人くんなんて、ただの『嘘つき』だから」


 名前を呼ばれた瞬間、僕は勢いよく顔を上げた。だけど、そこには誰もいなかった。さっきまであった影も、血液でできていたはずの足跡も、血の付いた包丁も。辺りを見回しても一つたりともなくて、最初から何もなかったかのようだ。それどころか、僕の立っている場所は草の茂る手入れのされていない庭地で、後ろには外壁の一部の崩れた廃墟が佇立しているだけだ。もちろん、血みどろの死体だって転がっていない。

「音切……どこに行ったの?」

 冷たい月が僕を嘲笑う。僕は雑草を踏み倒しながら、廃墟の敷地を歩き回る。でも、何の痕跡も見つけられなかった。半開き状態の錆びれた門を通り抜け、表札も確かめてみたが、そこには空白があるだけで、下に管理会社の看板が取り付けられていた。人生で一度も経験したことがないくらい、激しい混乱で僕は取り乱してしまっている

 呆然と立ち尽くしているとふと、建物の玄関の方で揺れる何かに目を惹かれ、また敷地の中へと入っていく。近づいてよく見ると、そこにあったのは薄白い月光を浴びながら咲く、季節外れの彼岸花だった。だけど、その花弁の色は、普通の赤色ではなく、濡れたような艶のある黒をしていた。まるで、彼女の髪のように。

 顔を覆い、何も見えないようにすると、僕は膝から崩れ落ちて泣いた。もう何も目に入れたくない。幻も、現実も、何もかも。網膜に映したものの全てが、彼女へと繋がってしまう。這いずり出てくる喪失の実感が身体を揺さぶってくる。僕は暖かな中で生きたいと願っていただけなのに。何かを失うことなんて、望んでなどいなかったはずなのに。

「戻ってきてくれ……頼む……頼むから……」

 覆っていた手を地面に叩きつけ、色褪せたドアへと人目も憚らず、僕は叫んだ。落ちていく硝子細工みたいな涙を、真下にある漆黒の彼岸花は吸い取っていく。

 君のことを許せなくても、君と一緒にいたかった。今更になってそんなことを想う僕を、睥睨する月が笑う。笑ってくれていい。だから、彼女を返してほしい。夜に開いた穴の向こう側へ行ってしまった彼女を、僕の隣へと戻してほしい。心の中で何度、願ったとしても、愚かな僕へと手を差し伸べてくれる存在はどこにもなかった。

 よろけながらも立ち上がり、僕は門の方へと歩き出す。ずっとここにいると、心が摩耗して、何も残らなくなりそうな気がした。

 涙を零しながら歩くと、雑草の中で硬いものを踏んだ。割れるような音が聞こえてきて、不思議に思った僕はしゃがんで足下の草をかき分ける。明らかに場違いなそれは、赤黒い汚れのこびり付いた包丁と、画面の割れたスマホだった。僕は雷に打たれたかのようにスマホを手に取り、月明かりに当てる。電源ボタンを押してみたが、画面は起動しそうにない。

 そんな様子を見ていた冷たい月は、また僕を笑った。

 君のように笑った。

 君がそこから覗いていた。

 記憶は夜の中に沈んでいく。

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