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 病院へ戻った頃には既に、夕方の雰囲気で包まれていた。仕事終わりの見舞い客が多いせいか、スーツ姿の人々が目立つ。雲が分厚くかかっているためか、ほとんど夜と言っても間違いではないくらいの暗さだった。息を切らせながら音切の病室の前に行くと、彼女の兄が並々ならぬ表情で貧乏揺すりをしながら、指を組みベンチソファに座っていた。

「すみません、遅くなりました」

 膝に手をついて息を整えながら、ここが病院であることも忘れて大きな声を出してしまい、通りすがりの看護師に睨まれる。

「急に呼び出して悪かった」

 蓮さんは落ち着いた風にそう言っているが、内心の苛立ちが声に浮き出ていた。

「とりあえず、部屋に入ろう。ここじゃ他人の目が気になるし」

 昼間に入った部屋へと二人で入っていく。病室はエアコンが点いていないせいか、蒸れた空気で満ちている。上がっていた息を整えて、冷静になれと何度も言い聞かせたけれど、緊張は全身の血管を伝うように流れていた。電気を点けた蓮さんに僕も続いて入っていく。明るくなった部屋の奥に、彼女の姿は本当になかった。出て行った時の状態なのか、布団は散らかったままで、彼女の腕に刺さっていたはずの点滴の管も、放置されていた。違っているのはラジカセと空調の電源が切られていることだけで、外の音がうるさく聞こえるほどの静寂が、部屋の隅々まで浸透していた。

「音切がいなくなったことに気が付いたのは、いつだったんですか?」

「俺が家にちょうど帰った頃だよ。病院から電話がかかってきて、いなくなったって。急いで行ったけど、本当にいなかった」

 どうやら、僕が病院から出て行った後、彼女は病室を抜け出したらしい。彼はお手上げだという感じで髪を掻き上げ、大きくため息を吐いた。

「でも、病院着のままだと流石に目立つんじゃないですか?」

 そう聞くと、蓮さんはサイドチェストの紙袋を手に取り、中を見せてきた。中には病院着が綺麗に折り畳まれて入っていた。

「着替えがなくなってる。明日には退院できるって聞いたから持ってきておいたんだけど、それに着替えて抜けたんだろう」

 それ以上は何も語らなかった。よく見ると、血の付いた包帯も入っているから、周囲に溶け込んでいたのだろう。僕はあれこれ考えてみるけれど、いい案は一つも思い浮かんでこない。

「家の方へは戻られました?」

 僕が聞くと、首を横に振って答えた。

「じゃあ、もしかしたら家へ帰っているかもしれませんから、蓮さんは待っておいてください」

「君はどうするつもりなんだい?」

「昨日みたいに探すだけです」

 音切の容態はまだ完全に回復したわけではないだろうから、そう遠くまで行けないはずだ。それに、酷くはないといえ、怪我もしているし、早く見つける方が吉だろう。僕たちは病室を後にして、病院の出口まで急いで行く。蓮さんはロータリーで捕まえたタクシーに乗り、窓を開けて見つかったらすぐに連絡をくれ、とだけ言ってきた。

「待ってください」

 閉まりかける窓を叩いて止めると、少し焦った様子で顔を覗かせてきた。

「その……彼女が帰ってきたら、すぐに入れないでください」

「どうして?」

 そう問われて、僕は口を閉じてしまった。はぐらかしたところで、何か隠していますと言っているようなものだ。僕の知っている限りの彼女の本心を伝えるべきか躊躇った。あなたの妹はあなたを殺したいと言っていたからです、なんて告げたところで、聞き入れてくれるわけがない。だけど、彼は僕の顔を見て何か悟ったのか、分かったよ、とだけ言ってタクシーを走らせた。小さくなっていく黒い躯体が僕には不吉なものに見えてしまう。彼を墓場まで送り届ける、四輪の棺桶。僕は頭を振って、走り出した。空を覆っていた雲は少しだけ晴れ間をみせ、そこから、夕暮れの色が顔を覗かせている。

 誰よりも早く見つけてあげなければ、音切はきっと――

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